こんにちは、リブラです。今回から、アニータ・ムアジャーニ著「喜びから人生を生きる」の第2章を解説をしていきます。
第2章「ヒンドゥー教とキリスト教のはざまで」
7歳になったアニータはキリスト教系の学校で「毎週日曜日に教会通っていないと死んだとき天国に行けない」と仲良しのクラスメイトに心配され、家では「うちはヒンドゥー教徒だから、月曜の夕方に寺院に行くの。宗教は真実を見つけるための一つの方法で、人はそれぞれ違う道を歩んでいくのよ」と母親に説得され、その板挟みで苦しみました。
学校の授業で、教会に行かない人を待ち受ける恐ろしい運命について知ることになり、アニータは不安で夜も眠れないような状態になりました。それを心配した両親は、アニータをブリティッシュスクールに転校させることにしました。
けれどもそのスクールは、金髪碧眼のイギリス人ばかりで、インド人であるアニータは「黒んぼ」と呼ばれていじめの対象にされてしまいました。
みんなに溶け込み、受け入れられ、好かれたいとずっとアニータは思っていました。でも、肌の色や人種を変えることはできません。「どうしてわたしだけ、いつもみんなと違うの?わたしの居場所はどこにあるんだろう?どうしてどこかに所属していたいのだろうか?」アニータは、インド人でなければよかったと思いました。
両親はインド人文化を教え込もうとし、アニータは「ヴェーダンダ哲学のクラスに行きたくない」と訴えます。
母に「結婚するとき苦労するから、ヒンドゥー教徒であることを学ぶことが必要」と諭され、アニータは良い娘として、両親の望みに従うことにしました。
しかし、心の中では「これ以上インド人になりたくない!わたしは(イギリス人の)クラスのみんなのようになりたいんだもの」と叫んでいました。
そのようにして通い続けたヴェーダンダ哲学のクラスで、アニータはインド人の友だちから愛され、ヴェーダ聖典を学ぶことが楽しくなり、得意になっていきました。
アニータは成長するにつれて、ヒンドゥー教の理論的側面に興味を持つようになり、原因と結果の法則、運命と自由意志などについて学び、自分の思考をはっきりさせるため祈りや瞑想もしました。
ヒンドゥー教徒の文化的信条である男尊女卑や人々の意に反するお見合い結婚が、ヴェーダにはどれひとつとして明記されていないことにアニータは気がつきました。彼女はそれらの文化的信条に対して、ずっと理に叶ってないと思っていたのでした。
ヴェーダ聖典を学ぶことでアニータは納得がいく真理を掴み、インド人コミュニティの中で人気も得たのですが、彼女はこれがイギリス人のクラスの中での人気ならば良いのにと思っていました。
ヒンドゥー教の理論的側面は理にかなっていると納得しても、ヒンドゥー教徒の文化的信条は受け入れ難いという気持ちを抱えたまま、親の勧めるヒンドゥー教徒とのお見合いをアニータはこの後することになって行きます。
イギリス人コミュニティの中では耐え難いいじめを受け、インド人コミュニティの中では愛されて人気者であるにもかかわらず、なぜ、アニータはイギリス人コミュニティの中で愛され人気者であったらいいのにと思うのでしょうか?
ヒンドゥー教の文化的信条(男尊女卑、お見合い結婚)は受け入れ難いと思っているのに、なぜ、アニータは両親の意向に添った良い娘を演じるのでしょうか?
第三者的視点から眺めれば大きな矛盾です。しかし、社会的通念(常識)から見れば、「長い物には巻かれろ」的な考えに弱者であるアニータは従うしかなかったのだろう、と思うでしょう。このような矛盾はよくある出来事だと。
実は、ここで密かに暗躍しているのが、生存本能由来の意識であるエゴなのです。「長い物には巻かれろ」的な考えもエゴの論理です。
人間は社会的な生き物なので、社会の中で上手く生き残っていくことをエゴは何よりも優先します。子どもにとって、学校や家庭は小さな社会なのです。
イギリス人だらけの学校にいたら、インド人である自分のアイデンティティを否定して、イギリス人に好かれようとエゴは促すのです。自分を養っている親がヒンドゥー教の文化的信条(男尊女卑、お見合い結婚)を正しいと主張すれば、エゴはそれに従う良い娘を演じさせるのです。
インド人コミュニティの中で「女の子が悩みの種」とみなされると、エゴはその不利な状況の中でも生き残るために、女に生まれたマイナス条件の埋め合わせとして、親の願いを聞き入れるように促がすのです。
このようにエゴは密かに思考に忍び込んで操るので、わたしたちは自分の意志でそう考えていると錯覚してしまいます。ほんとうに自分の意志で考えているのだとしたら、そこに矛盾は発生しません。
エゴは社会的通念(常識)に従うように促し、魂意識は「在りのままの自分」の意志に従うように促すので葛藤が起き、その思考と行動に矛盾が発生するのです。
見えない心の内側では密かに社会的通念(常識)に従うか、「在りのままの自分」の意志に従うかの二極分化が起きているのです。だから、アニータの中でも意見が二極分化し、
「わたしの居場所はどこにあるんだろう?」と居場所を求めつつも、「どうしてどこかに所属していたいのだろうか?」とその欲求に疑問を持っているのです。
アニータのエゴは社会的通念(常識)に従うことで愛されようとしますが、魂意識は「在りままの自分」を表現して愛されることを望むのです。
アニータのほんとうの望みは、ただのアニータとして、唯一無二の存在として、どこのコミュニティの中でも、家族の中でも無条件に愛されることなのです。
しかし、エゴは社会で課せられる条件をクリアするから愛される(条件から外れると愛されない;女の子であるとか、肌が黒いとか、親の言いつけに従わないとか)と頑なに信じているのです。
そして、本人が魂意識の望みを叶えようとすると、エゴが社会から愛される条件を外れると思い込み「怖れ」を発生させ、条件つきの愛を手に入れる方に促すのです。
だからわたしたちは、今在る自分を社会(関わる人間関係)に望まれるように変え、「在りままの自分」に価値無しの烙印を押して忘れ去ってしまうのです。
そこで社会(関わる人間関係)に望まれる「わたし」は好きだけれど、社会(関わる人間関係)に疎まれる「わたし」は嫌い、という自己嫌悪が起きます。「優秀な自分」は好きだけど、「劣った自分」は嫌い、とエゴが自らを二極分化で裁いた結果、自己嫌悪に至るのです。
それでは、心の中で発生する「自己嫌悪」が投影されると、外側の世界でどんな現象を招くでしょうか?
自分のことを嫌らう人と、好きになる人が同時に現れます。
アニータがイギリス人コミュニティの中でいじめられる一方で、インド人コミュニティの中では人気者になったのは、心の中の「自己嫌悪」が原因です。
アニータが「社会(関わる人間関係」)に望まれる自分もそうでない自分もどちらも愛することができたなら、彼女は「在りのままの自分」でどこのコミュニティにいても愛されたことでしょう。
実際この後、アニータは偽りの自分で愛されることが耐えられなくなり、お見合で決まった相手を婚約直前で断るという行動に出ます。この行動はエゴの「怖れ」を押しのけて、魂意識の「在りのままの自分」を表現する行為でした。
その結果、アニータは、彼女と全く同じ価値観を持ち、ヒンドゥー教の文化的信条(男尊女卑、お見合い結婚)は理にかなっていないと考えるインド人男性とめぐり逢うことになるのです。
次回は「老子が教えるタオの哲学」の解説を予定しています。
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