こんにちは、リブラです。今回は、ティール・スワン著「自分を愛せなくなってしまった人へ」の解説の続きです。

 

ツール8 罪悪感から自由になる

・罪悪感とは何か?

 

罪悪感は社会化のプロセスで生じます。

わたしたちは子どもの頃、親から罰を受けたときに、その罰の内容と関係のないところにまで「わたしは罰を受けるのに値する」という思い込みを作ってしまうのです。

 

この間違った思い込みのせいで、わたしたちの多くは次のようなコア・ビリーフを持つようになり、自分を責めるようになります。

 

「わたしは罰を受けるのに値する」

「わたしは苦しみに値する」(少し深刻な思い込み)

「わたしは幸せになる価値がない」(少し深刻な思い込み)

「わたしには愛される価値がない」(最悪な思い込み)

 

罪悪感は、感情であることを理解してください。

それは「繰り返したくない何かをしてしまった。ほんとうの自分から外れたことをしてしまった」ということを伝えるサインです。

 

良心はあなたが誠実さから離れていることに注意を向けさせ、自分や他人や宇宙を敬っていないことを教えてくれます。

 

良心永遠の自己によるもので、そこに後悔はありません。

宇宙的な視野にも後悔はありません。

 

宇宙はあなたが過ちと思うものでさえ、あなたの拡大や発展に不可欠なものだと見なします。

 

ネガティブな思い込みによって生み出される罪悪感は、「良心の呵責」によって一時的に感じる罪の意識とは違います。

 

ネガティブな思い込みによって生まれる罪悪感は、自己規制、自己虐待、自己批判を生み出します。

 

わたしたちは罪悪感という感情の中に閉じ込められると、永遠に身動きできなくさせられます。

 

わたしたちの社会は、ルールや規律、常識に支配されているといってもおかしくないと思います。

 

元々はたくさんの人々が安心して生きるためのルールであったはずですが、いつのまにかルールに人が束縛される社会になって、ルールの囚人のようになってしまったのです。

 

暗黙のルールが多すぎるので、どこでルール違反をしてしまったのかを絶えず気にする必要が出てきて、無意識にいつも誰かに責められているような気持ちになるのです。

 

この気持ちの張本人が、ネガティブな思い込みによる罪悪感です。

思い込みの「悪」なので、ほんとうは何も悪いことはしていません。

でも、自分を悪者に仕立て上げ、責め立てるのです。

 

冷静に考えたら、おかしな遊びです。しかも苦痛に満ちた遊びです。

罪のない自分を誰も気づかないようなルール違反で責め立て、何かメリットがあるのかといえば、何もありません。

しかもデメリットは山のようにあります。

 

些細なことで自分を責め立て、罪悪感で身動きできなくしてしまうと、決まりきったことを繰り返すだけの人生になってしまいます。

その上、ずっと嫌な気分に苛まれてネガティブな感情が渦巻くことになり、自分に対して責め立ている分だけ他者にも批判的になるので、衝突も多くなりトラブルに巻き込まれます。

 

こんな状態になると、そのネガティブな波動に相応しい現実を現象化させてしまいます。

罪悪感を抱えて良いことなどひとつもないのに、なぜ、わたしたちは自分で自分の足を踏みつけて転ばせるようなことを繰り返すのでしょうか?

 

それは下のような思い込みを思考回路に刷り込んだまま、消去するのを忘れているからです。

「わたしは罰を受けるのに値する」

「わたしは苦しみに値する」(少し深刻な思い込み)

「わたしは幸せになる価値がない」(少し深刻な思い込み)

「わたしには愛される価値がない」(最悪な思い込み)

 

それでは、なぜ優秀なはずのわたしたちの脳が、こんな不都合な思い込みを消すのを忘れているのでしょうか?

それは、エゴ(生存本能)の策略だからです。

 

エゴは安全で安心に生きていける状態を、ずっと保ち続けようとするのです。

安心・安全な状態を手放してまで、リスクある方向にチャレンジしたくないのです。

 

だからエゴは、些細なミスや失敗やルール違反を心の中で責め立てて脅しをかけて、ミスや失敗やルール違反をしそうもない、よく見知ったテリトリーから出ないように仕向けるのです。

 

わたしは30代半ば頃、ニール・ドナルド・ウォルシュ著「神との対話」を読んで、目から鱗が落ちて世界観が代わり、「罪悪感を持つのはバカバカしい」と気づきました。

 

「神との対話」でウォルシュ氏が「善悪」について、神にしつこく質問するところがあります。

その問いに神は、「善悪なんかわたしは作っていない。そんなもので裁いたりしない。それを作ったのは神ではなく、人間だ。神が人間に与えているのは自由選択で、だから、人間は良いことも悪いことも自由に選択できる」と答えるです。

 

この場面を読んだら、「そうだ、そもそも善悪を定めたのは全知全能の神ではなく、人間だ。人間が定めたものでも、はっきりとした目的があるものなら守れるけれど、目的も定かでなく、不明瞭な善悪の基準は無視した方が自分にも周囲にも平和をもたらす」とわかったのです。

 

エゴが神のフリして「わたしには愛される価値がない」(最悪な思い込み)をささやいていたのに気づいたのです。

神の思いは、自由選択を使ってこの物質次元を「本来の自分」として生きることなので、自分や他者を過剰なルールで制限し、自由選択を与えない行為こそ、神の愛(自由選択)に反することだと納得しました。

 

長年、善悪の裁きで責め立てていたエゴそのものが、神の愛(自由選択)を横取りして制限する「悪」だったのです。

自分を責めるとしたら善悪の基準ではなく、長年に渡り神のフリして神の愛(自由選択)を侵害していたエゴに気づかなかったことです。

 

こうしてエゴのしわざだと見つけてしまうと、エゴの力は空気の抜けた風船のようにしぼみます。

思い込みで罪悪感を感じたら、その背景のエゴの存在を探ってみましょう。

そうすれば、エゴの悪が見破られたと気づいておとなしくなり、罪悪感から解放されます。

 

次回は「パスワーク」、次々回は「ウィルスのお話」、その後「自分を愛せなくなった人々へ」に続きます。

 

わたしのサロン、リブラライブラリーでは、あなたの心のしくみをホロスコープで解説し、

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新メニュー(*月の欲求・土星の制限の観念書き換えワーク、*キローンの苦手意識を強みに変えるワーク)

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最後まで読んでくださり、ありがとうございます。