こんにちは、リブラです。今回は「パスワーク」の解説です。

 

第4章ほんとうの神と神のイメージ

・間違った神の概念

 

子どもは極めて早い段階から、神という権威とその対立を「<敵対するもの>と<優しいもの>が混ざりあったもの」として経験します。

 

子どもにとっての最初の権威は親なので、親から楽しいものを禁じられたり罰を与えられると<敵対するもの>、親が甘えさせてくれると<優しいもの>と感じ、神のイメージを作り上げていくのです。

 

権威(親)に恐怖や不満を感じる程度に応じて、子どもは神にも無意識に恐怖や不満を感じるものです。

神はこうして罰を与える厳格な力であり、しばし不公平で不公正な力であって、戦うべき相手だと信じられてしまうのです。

 

こうした神のイメージがマインドに住み着ついて、人は神に背を向けて無神論者になったり、神さえ信じていればあらゆる望みを叶えてもらえるという間違った神の概念を持つようになるのです。

 

現代のわたしたちは、神とのつながりをほとんど感じずに日常生活を過ごすようになりましたから、「神の概念」なんてさほどたいした問題に感じないかもしれません。

 

しかし、過去の歴史を振り返ったら、宗教戦争、人種差別によるホロコーストなど信仰する「神の概念」の違いを巡って、ずっとわたしたち人類は血みどろの戦いを繰り返してきました。

 

「神の概念」の問題は、わたしたちの潜在意識~集合意識の世界において、とても重要な位置を占めているのです。

 

身近なことで言えば、「スピリチュアルなもの」に対するわたしたちの反応が、まさに「神の概念の問題」を表していると思います。

 

「引き寄せの法則」がブームになったとき、それを盲信する人、実践する人、否定する人の反応が、神に対して<優しいもの>と<敵対するもの>の両方を表していました。

 

わたしは無神論者の父とカルト宗教にハマっていた母の同居する家庭に育ったので、無神論の救いのなさも現実離れの宗教の不毛さも受け入れられませんでした。

 

わたしは小学校の理科の授業で初めて玉ねぎの細胞やメダカの卵を顕微鏡で見たとき、神の存在を確信しました。

人の手がけして届かないところに、完全で精密な世界が構築され、そこに生命のマジックが吹き込まれているのです。

食べ物・着るもの・住むところ、すべてゼロから創ってみろと言われたら、それを叶えられる人間は誰ひとりもいません。

 

世界は当たり前のようにマジックのような生命に満ち溢れています。

生きるために必要なものが無条件に与えられ、すべて備わっています。

 

そのシステムは人間が生まれるより、地球が生まれるより、遥か前から存在し、想像することさえ不可能な広大な宇宙を創っているのです。わたしの神のイメージは、初めて顕微鏡を覗いた瞬間から「自然界を創った創造主」になりました。

 

ホロスコープに夢中になったのも「自然界を創った創造主」がわたしの神のイメージだからです。

人生の設計図が空にきらめく星の配置で描かれているなんて、いかにも自然界の創造主らしい素敵なプレゼントではないですか。

 

わたしのホロスコープのアセンダント(生まれ持ったキャラクター)と土星(譲れない自分のルール)はみずがめ座で、大神ゼウスに拐われて神界の給仕になったガニメデスが、人間界に全く未練なく神界を楽しみ、雨を降らす神様になる神話どおり、わたしは人間に運命を左右されるより、自然界の神様の法則に従っている方がすんなり受け入れられるのです。

 

そして、40才ぐらいのときに読んだニール・ドナルド・ウォルシュの「神との対話」で、わたしの中の「神の概念」がさらに定着しました。

「神は善も悪も創っていない。罰も与えないし、裁きもしない」「神の愛は自由選択である」という内容を読んだとき、これってバシャールが言っていたのと同じだ!と思いました。

 

わたしの「自然界の創造主」も善悪で裁かないし、自然界はすべてを与えているけれど、その被造物をいかに使って生き残っていくかは個々の存在の自由選択にかかっている。

 

罰しないし、甘やかしもしない。すべてを与えているけれど完全に黒子に徹して、自由選択を侵害しない。

わたしの「神の概念」と、「神の対話」の神様はぴったり一致したのです。

 

それからは、自然界とふれあうように身近に神を感じ、心の中で対話するようになりました。

神の愛を最も感じるのは孤独を受け入れる瞬間でもあるのを体験したら、独りでいる時間が深い愛で満たされる時間になりました。

 

孤独になることを怖れている間は決して体験できませんが、孤独を味わってみるとずっと見守り無条件で無制限の愛で包んでいてくれた存在を、ひしひし感じることができるのです。

 

人といるときは、人との交流を楽しむ。独りの時間は神との交流を楽しむ。

人といるときは、人間として楽しむ。独りの時間は、神とひとつになれる魂意識として存在の喜びに共鳴する。

 

この境地に達すると、なんで「わたしである」がテーマのおひつじ座が1番目で、最後の12番目が「わたしは信じる」のうお座で終わる順番になっているのかが、すごく納得します。

 

わたしたちの進化・成長のため、「わたしである」ことを追求させるため、その冒険に一切干渉しない神が、「わたしは知る」がテーマの11番目のみずがめ座で人の本質が魂意識であり、神の分霊であることを知り、最後の12番目のうお座で神を信じてワンネスになるのです。

 

わたしたちの人生のブループリントが、神の壮大な計画に基づき設計されていると考えたら、転生が終わって神のもとに帰ったとき、「いろいろな冒険ができておもしろかったよ」と言うだけよい、人間として存在するだけで神の喜びになっているというのもうなずけると思います。

 

おひつじ座神話の主人公の金毛羊が、神の依頼通りにふたりの子どもの救出任務を完了できず、1人を海に落としてしまっても神にベタ褒めされ、功績を讃えられ最初に天に上げられた話からも、わたしたち人間が自由選択(神の愛)を駆使し冒険して生きることをいかに神が望んでいるかもわかります。

 

神と仲良しになるためにも、神への誤解を解くためにも、「神との対話」を読むことをおすすめします。

 

 

次回は「パラハマンサ・ヨガナンダのホロスコープリーディング」を、次々回は「自分を愛せなくなってしまった人へ」の解説を、その後に「パスワーク」の解説を予定しています。

 

わたしのサロン、リブラライブラリーではあなたの心のしくみをホロスコープで解説し、心の制限、葛藤が引き寄せる現実問題にセルフヘルプで立ち向かえるようサポートします。

 

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新メニュー(月の欲求・土星の制限の観念書き換えワーク、

キローンの苦手意識を強味に変えるワーク)が加わりました。

 

最後まで読んでくださり、ありがとうございます。