答えは出ませんが、整理を兼ねて自分の考えをば。
まず一点。「日本国内でいくら禁止しても意味ないから」っていうのは、現実的に間違っていない対処だと思います。
禁断の技術であれ神の領域であれ、「出生前診断」というツールを手に入れてしまった以上、使うか使わないかというのは当事者の問題だと思います。
差別について。
「弱肉強食で弱い個体は消えていくのが自然の摂理だから」とか「社会保障の重荷になるから」とかいう意見には与しません。
そうした厳しい自然での生活から、技術や文化の積み重ねで人間らしい生活と社会を築いてきたのが、人類の歴史だと思うからです。 強者しか生きられない社会というのはそうした進歩に逆行した考え方です。
ただ、そういう「よわいものいじめ」に世論が容易にかたむいてしまいかねない危うさは感じます。
その逆。出生前診断の禁止を求める団体について。
大切な命だから、とか、ひとつのかけがえのない命だから、という理屈は、人類以外の生命体をひっくるめると、経済動物の問題とかにも波及するため、自己矛盾を起こします。
また、堕胎が殺人だったら、それはいつから生命であり、殺人なのか、という線引きの問題がつきまといます。避妊すら殺人ととらえることが可能ですし、そういう宗教観も存在します。
個人的には、「1つの命」という状態と、「〇〇ちゃん」という個性をもった一個人の命とで、全然認識が変わってくるように思います。
例えば仮に、私のこどもが今、致命的な障害があったからといって、生まれてこなければよかったとは絶対思えない。
だけどもし妊娠前に、ひょっとしたら結婚前に、検査でこどもに障害がありますよ、と99%の確率で診断されたら、きっとこどもを生み育てることはかなり躊躇するでしょう。
というか、実際にわたしの娘は、妊娠中に一時期「生まれてみないとわからないが、ひょっとしたら体の一部分に障害があるかも」と言われたことがありました。
かなり悩みましたが、悩んだというより、受け入れる覚悟をする時間が必要だった、という表現が正しいと思います。
実際問題、親は一生面倒をみないといけないわけです。両親が死んだ後の心配もあります。
保育園でもどこでも、他のこどもと違う成長をする我が子に言いようのない感覚を覚えると思います。
で、ここで視点を変えてみます。
「障害があるとわかったら堕胎を選ぶ親」というのは、一定の確率で存在するものと仮定します。
パターンとしては「①障害があるなら産みたくない」「②障害があっても産みたい」「③障害がない子を産みたい」「④障害がある子を産みたい」の4つ。
さて、どのパターンの思考の人が多く、少ないでしょうか。
今現在、障害をある子を持たれている親御さんを傷つけることになるかもしれませんが、「④障害がある子を産みたい」という価値観の人はあまりいないでしょう。 つまり産まれてから、育てていくうちに時間をかけて現実を受けて入れてきた方がほとんどなのでは?
なら、出生前にわかる手段があるのと、手段があるのに使えないのとでは、どちらが幸福な家庭と言えるでしょか?
つまり、外部の人間が「産め」というのも「産むな」というのも、余計なお世話だと思うのです。
なぜか「出産」「少子化問題」については「個人の自由、産む機械などもってのほか」という論調がほとんどなのに、ことこの問題になると「産むべき」という感情が湧いてきてしまうのはなぜでしょうか。
根本的な問題は、障害を持つ人が生きづらい社会、制度、文化そのものであり、当事者の両親がどうこうできる問題ではないと思うのです。
だから、「差別を助長するから出生前診断に反対」という主張より、もっと直截的に、「私のこどもが差別されることのないようお願いします」という表現のほうが、よりストレートではないかと思ったりします。