木々たちは、この世に「存在」している。

彼らは「僕らは存在しているんだよ!」と何らかの言動で証明しようとはしていないけれど、明らかに存在している。(木が動いたりしたらビックリやけれどね(笑))

私は、この世のなかにある色々なことの中で、どうしても本質的なレベルで違和感を感じることも全て「存在」しているんだと自分の中で落としていきたいという気持ちが以前から確かに強くある。

自分の中のことも含めて、そうしていきたい。

「在る」っていうことを認めていく感じ。

在るんだね・・・在るんだよねって。在るんだ!!って。
それによって私自身が、よりこの世に居続けていきやすくなる。


このところは「在りのヒーリング」っていうの自分にしていて、するたびにとても気持ちが落ち着く。

この世の中・・・・となると分かりにくくなる話かもしれないけれど
たとえば自分の事でいうと

Aさんに対して腹が立った。

腹が立った自分が嫌になった。→嫌になったことを在りにしよう。

嫌になったことが在りにならない。→在りにならないことを在りにしよう。

みたいなかんじで、いろんな層からの「在りが」存在する。


好きと思えないなら、好きと思えないことを在りにする。

好きと思えないことを在りにできないなら、在りにできないことを在りにする。

そんな調子で、この世のことに対しても自分の中で「在り」にしていきたい。

この世に対して特に感じるのは
「そもそも、それは一体、何なんだ?」という疑問。

これって何?どういう存在の仕方をしているの?その存在の仕方は、本質的な存在の仕方なの?本質的にそれは本当に必要なの?

という疑問を、この世の様々な違和感のあることに対して私は感じている。

当時は、在りにするという表現は使ってなかったし、今ほどの深さや広さはなかったけれど、こういう風な捉え方は、私は何十年も前から大事にしてきたなって思う。

大事にはしてきたけれど、やり方を間違えると、周りがたじろぐ事もあるので、この世に対することに関しては、数年前までは、できるだけ感じないようにしてきたかもしれない。感じ過ぎると、苦しくなるし・・。


今まではそうだったけれど、これからは、自分の事だけれではなく、もっともっと、この世に対しても感じていこうと思う。
そして自分なりに在りにして行きたい。