朝イチの用を済ませた後に、もう最後になるからと、同行してくれた裕さんと旧オフィスに行った。
機械設計業だったから、途中からはパソコン使用になったけど、ドラフターを使用していた頃の紙類の未使用品が
大量にあり、それを裕さんにあげたかったし…。
彼は白い紙とカラーの油性マジックの使用が、とんでも無く多く、紙大好き人間だから。
シャッター閉める時に、やっぱり淋しく涙が溢れた。
一時は此処に越して住みたいと思った時期も有った。
地下鉄乗れば名古屋駅まで真っすぐだし、東名・名神のICもすぐ近く。
屋根裏部屋が広く、三階と言っても良い程で、建築時に鉄骨造りにした費用は、全体の半分程にもなり、耐震仕様で、空調設備を調えたらステキな部屋になるはず、とあれこれ空想したけど
結局は、駐車場をとる為に庭を無くしたから、止めた。
ママが未だ元気な頃、私は毎月5万円の仕送りは手渡しだけど、続けていた。
(働き始めた時にママがしぬまでする、って自分で決めた事であり、離婚して苦しい時も有ったけど、欠かす事なく守れた自分を、これだけは褒めたい。)
二人の私の弟も家人の元で働いていて、ママにもっと豊かなって欲しく、現金を家人から受け取るのは拒否するに決まってるし、ママを社員にして、給与を月額20万円で、ランチだけ作ってもらう事を頼んだら喜んで受け入れてくれた。
材料は全て会社が支払い、米も食材もママと暮らす弟宅の分も買うなど、
家計の助けにもなると思ったけれど、その下の弟には、親を自分の元で働かせるとは!、と酷く叱られた。
でも、ママも喜んでいたから無視。
8人しかいない頃でママは料理は得意で難なくこなした。
私も手伝い、車で10分の距離は私が送り迎えして、だから毎日の様にママに会えて、帰りは一緒にお昼ごはんを、ママの食べたい物を食べに行きコーヒーを飲みに行ったり…。
その頃が一番,楽しかったな。
二人で博物館や美術館、デパート、等など、いろいろな所に行った。
最後にママがキッチンに立っていた場所を目に焼き付けたく…。
ママが他界して、数年後に、私を叱った弟も他界し、
どんどん思い出のある場所は無くなる。
詮無いこと、悲しい事、淋しいこと、
仕方ないよね、人間だもの。