私たちの心には、真ん中、あり方というものがあると、私は信じています。

それは、野球でいうストライクゾーンのようなものです。

そして、私たちは、より良く、幸せに生きるために、自分に納得するために、

ど真ん中を目指すのです。そこに、ブレというか、ズレが生じるのだと思います。

私たちが「より良く生きたい」、「自分自身に納得したい」と願い、

人生の一球を本気で投じるからこそ、そこには「回転(迷いや葛藤)」が生まれ、

軌道がわずかにズレたりブレたりする。

ブレやズレが生じているのは、

私たちが人生に対して「真剣に、ど真ん中を目がけて投げ込んでいる」という熱いエネルギーの証拠そのもの…。

もし、ブレたくないからと安全なスローボールしか投げなければ、

あるいは投げること自体を諦めてしまえばズレることはありませんが、

そこに「納得」や「生きている手応え」は生まれません。

「あり方」を、針の穴のような一点ではなく、

「ストライクゾーン」という一定の広さを持った空間として捉える。

たとえど真ん中から少しズレて、内角高めや外角低めにいってしまったとしても、

それは依然として「ストライク」です。あり方で生きていることに違いはありません。

「あぁ、今回はちょっと外角にズレたな。

でも、それも私らしいナイスボール(自分自身)だ」と、

そのズレを味わい、許容できるのです。

当然ですが、野球のストライクゾーンはルールで決まっていますが、

人生における「私のど真ん中」は、時代や年齢、経験によって絶えず変化していきます。

あえて少しズレたところ(ブレ)に投げ込んでみるからこそ、

「あ、今の自分にとっては、こっちのコースのほうがしっくりくる(納得できる)かもしれない」という、

新しい発見が生まれます。

完璧にブレないままだと、10年前のど真ん中にずっと囚われ続け、

今の自分との間に「停滞感」という名のギャップが生まれてしまう。

ブレるからこそ、今の自分にぴったりのど真ん中へと、

あり方をチューニングし続けることができると思うのです。

だからこそのあり方探求…。

納得のいく人生を生きたいと願い、ど真ん中を目指して、今日も魂の一球を投げ続ける。

その情熱があるからこそ、心地よいブレとズレが生まれる。

完璧主義の罠にはまって「1ミリもズレてはいけない」と自分を縛り付け、

マウンドで立ちすくむ必要なんてないのです。

もう一つの視点として、人生というのは、全天候型ドーム球場ではなく、

屋外球場であり、雨が降ろうが、雪が降ろうが、台風が来ようが、人生に中止や延期はないのです。

だから、いつもと同じように投げてもズレるんですよね。

昨日までと全く同じフォームで、同じように「ど真ん中」を狙って投げたとしても、

今日は強い向かい風が吹いているかもしれない。

突然の大雨でマウンドがぬかるんでいるかもしれない。
そんな屋外球場で、1ミリも狂わずに同じところへ投げ続けようとすることのほうが、むしろ不自然です。

環境が絶えず激変しているのだから、ボールがズレる(心が揺らぐ)のは、

私たちが「環境の影響をまっすぐに受けて生きている、生身の人間である」ということです。

どんなに大雨が降ろうが、心が嵐のようであろうが、

人生という試合は淡々と進んでいき、中止や延期はありません。
だからこそ、私たちは「雨の日のマウンドなら、

足元が滑らないように少し重心を低くして投げよう」、

「強い横風があるなら、あえて少し外側を狙って風に乗せてみよう」と、

その都度、必死に工夫を凝らします。

この、「天候(環境や状況)に合わせて、

自分のあり方をしなやかにチューニングする力」こそが、

私たちが戸惑いながらも育んでいる、本当の主体性なのだと思います。

泥だらけになりながら、雨風を計算に入れて投げ込んだ渾身の一球だからこそ、

観る人の心を激しく揺さぶります。

人生の深みや味わいは、まさにその「悪天候の中での試行錯誤」にこそ宿ります。

環境だけではないのです。

私たちは、老いていくのです。

いつまでも150キロのボールを投げることはできないのです。

老いることも織り込んで投げ続けて、今のベストを追求し続けるのです。

若い頃は、圧倒的なスピード(若さ・体力)で、

力任せにど真ん中へねじ込むことができたかもしれません。


しかし、年齢を重ねて球速が落ちてきたとき、私たちは「力」ではなく、

「技」や「間(ま)」、そして「インサイドワーク(経験と知恵)」で勝負するようになります。

150キロが出ないなら、今の自分の身体が放てる「最高の130キロ」をどう投じるか。
球速が落ちた分、ボールの回転や軌道の変化(揺らぎやズレ)をあえて味方につけて、

バッター(人生の課題)とどう対峙するか。

スピードという一元的な価値から解放されたとき、

初めてその人にしか投げられない、

深みと味わいに満ちた「唯一無二の投球(自己表現)」が始まります。

「老いることを織り込む」とは、全盛期の自分にしがみついて今の自分を否定することではなく、

「これが、今の私の現在地だ」と、ありのままの自分を深く愛し、信頼することに他なりません。

150キロが出ない自分に戸惑い、葛藤する。その揺らぎさえも織り込みながら、

「じゃあ、今日のマウンドで、今の私ができるベストは何だろう?」と問い続ける。

そのプロセス自体が、最高に主体的であり、あり方で生きるということだと思います。

1ミリもブレずに若い頃のフォームを維持することだけが「ブレないカッコよさ」ではありません。

身体の変化を受け入れ、衰えさえも自分の深み(味わい)に変えながら、

マウンドに立ち続けて「今のベスト」を追求する。

その泥臭くもしなやかな姿こそが、本当にブレない、芯のある大人の「あり方」なのだと思います。

終わりに…。

鬼滅の刃の煉獄さんが言っていました。
「老いることも死ぬことも 人間という儚い生き物の美しさだ」
「老いるからこそ 死ぬからこそ たまらなく愛おしく 尊いのだ」

この儚い生き物の美しさ、愛おしさを踏まえ、

今のベスト、ど真ん中のストライクを追求していくことが人生…。