「手放す(放下着)からこそ、満ち溢れ(自己信頼・余白)、

それが世界へ滲み出ていく(和顔愛語)」

 

今朝、友人のブログを読んでいると、

「放下」について、“芸術家やアスリートにもある。

強く握りしめ過ぎると、かえって苦しくなる”

という、一文が目に入ってきました。

そして、ある先輩は、
『放下着』と『和顔愛語』という言葉を大切にされています。

もちろん、私も大切にしています。

なぜか、いつも、私の前に現れるこの二つの言葉…。

あり方探求ライフコーチとして、私なりに考察してみたくなりました。

放下着(ほうげじゃく)のあり方的本質

禅の言葉で「すべてを捨て去り、手放せ」という意味ですが、

あり方の視点から見た放下着とは、「鎧を脱ぎ捨てて、本来の自分に還るプロセス」です。

私たちは生きていく中で、
「こうでなければならない」、
「素晴らしい成果を出さなければ認められない」という、
目に見えない執着を抱え込みがちです。


放下着が求めているのは、それらの社会的役割、過去の実績、

他者からの評価、あるいは「自分を良く見せたい」というエゴを、

文字通り「ドサッと床に降ろす(下着)」ことだと思うのです。

すべての条件付けを手放したとき、

最後に残るのが「ただ、私という存在がある」という究極の安心感です。

これこそが、自分を信頼し、自分を愛するという「あり方」の原点です。

放下着とは、自分を証明するための外側の飾り(鎧)をすべて降ろし、

何も持たない「素のままの自分」の存在価値を認めることではないでしょうか。

和顔愛語(わげんあいご)のあり方的本質

一般的には「穏やかな笑顔と、思いやりのある言葉で人に接すること」という意味ですが、

あり方の視点から見ると、自分の内面を満たす、ありのままの自分の存在を認めることだと思うのです。

自分を愛し、自分の存在をそのまま受け入れている時、

人の心には穏やかな「余白」が生まれます。

和顔愛語とは、無理に作った笑顔や、

相手に嫌われないための取り繕った優しい言葉ではありません。
自分自身のあり方に100%の安心感を持っている人が、

ただそこに存在するときに、内側から自然と滲み出てしまう光のようなものです。

和顔愛語とは、努力して「そうする」ものではなく、

自分を愛し、満たされたあり方から「勝手に溢れ出てしまうもの」なのではないでしょうか。

まとめると、以下のような流れになると思います。

放下着(ありのままの自分) ⇒ 自己信頼・余白 ⇒ 和顔愛語(あふれ出る笑顔と思いやり)

まず「放下着」によって、社会的な評価や「何かを成し遂げなければ」という執着をすべて手放します。

すると心に「余白」が生まれ、ただ自分の存在を認め、大切に思うことができるようになります。

そのようにして、

外側の評価に依存しない「確かな自己信頼(あり方)」が確立されたとき、

その満ち足りた内面が、

今度は外側に向かって「和顔愛語」という温かい眼差しや言葉となって自然に溢れ出していくのです。

「放下着」がなければ、 「和顔愛語」は「他人に良く思われたい」という執着になり、自分をすり減らします。

「和顔愛語」の源泉には、すべてを手放してなお、自分を信頼しているという「放下着」の潔さが必要です。

「手放す(放下着)からこそ、満ち溢れ(自己信頼・余白)、それが世界へ滲み出ていく(和顔愛語)」

「放下着」によって内側を徹底的にシンプルに調え、

そこから溢れる「和顔愛語」によって、目の前の人とただ共にあること。

この二つの言葉は、「社会がたとえ評価しなくても、

自分の当たり前を自分で大切に思い、

その自分で世界と関わっていく」という、ライフコーチングの本質であり、

ライフコーチングの美しく力強い「あり方」そのものだと思います。