生きることを突き詰めていいくと、結局生きることは食べることとなる。
そして、日本人は、米と味噌しか勝たんのです。
「生きることは食べること」という言葉は、私たちの身体が100%「食べたもの」で構成されているということです。
ライフコーチングでいう「あり方」がソフトウェアだとしたら、身体はハードウェアです。何を食べるかは、どのような細胞を作り、どのようなエネルギー(気)を循環させるかということです。
食べる行為は、外部の命を取り込み、自分の命へと変換することで、これを疎かにしないことは、自分自身の存在を丁寧に扱うことに直結します。
「米と味噌しか勝たん」という言葉には、余計なものを削ぎ落とした結果という意味です。
米は、複雑な調理を必要とせず、水と火だけで完成する完全なるエネルギー源です。日本人の腸内環境や遺伝子に深く刻まれた「安定感」の象徴であり、心を安心させる力があります。
味噌は発酵食品であり、目に見えない無数の「生きた力」を宿しています。自分の外側にある自然界の循環を体内に取り入れることで、私たちは「個」でありながら「全体(自然)」の一部であるという感覚を、無意識のうちに取り戻します。
トーストにたっぷりのバターは、香ばしくて食欲がそそられるのですが、病気をした時に、おかゆと梅干しとバターたっぷりのトースト、どちらに手が伸びるかを考えると明白なんですよね。
バターの香ばしさや脂質の旨味は、脳を興奮させる「外側からの刺激」です。しかし、病の時はその刺激を処理するだけの余力がありません。
おかゆは、消化というプロセスを極限までショートカットし、ダイレクトに生命維持のエネルギーへと変換されます。
梅干しは、クエン酸という「整える力」を借りて、体内のバランス(中和)を取り戻そうとします。
これは、人生が順風満帆な時は「もっと成果を、もっと刺激を」と求めてしまうけれど、本当に苦しい時は、ただ「自分が自分であればいい」という静かな安心感に立ち返るのと全く同じ構造です。
パン(小麦)とバター(乳製品)は、どちらも加工を重ねた「合成」の美学です。一方で、おかゆと梅干しは、水と米、塩と梅。極めてシンプルで、自然界の形に近いものです。
そもそも「病気」とは、本来の自分(自然体)からズレた状態。
だからこそ、私たちの身体は、最も自然に近い「米と塩」を摂取することで、元の状態に戻そうとするのだと思います。
日本人の身体にとって、お米の澱粉が分解されていく甘みは、「私は生かされている」という根源的な安心感に直結していると思います。
「米と味噌しか勝たん」という言葉には、「最後に自分が帰る場所がわかっている」という意味を込めています。
「これさえあれば、私は私でいられる」という圧倒的な安心感…。
弱った時に手が伸びるものこそが、自分を支える真の土台であるということです。
「あり方」も同じ。
これさえ譲らなければ、私は私でいられるという圧倒的な安心感…。
それが、「あり方」。
