「こんなふうに生きていきたいな…」

という想い願いこそが、

人生なんだろう。

 

毎日の単純な繰り返し、

ルーティンの中にある毎日の小さな変化を愛おしく感じながら過ごす暮らし、

そんなに悪くない。

 

自分が空っぽ、

中身がないという思い込み。

 

これは手放していい。

 

自分が生きている意味とかそういうことを、

過度に考える必要もない。

 

どうせ答えは見つからない。

 

それよりも、

日々のルーティーンの中にある小さい変化やイベント、

偶然の出来事を楽しんだり愚痴ったりしながら過ごしていく。

 

その日々の積み重ねの中から、

自分が生きている意味が浮かびあがってくる。

 

人は、体験を通じてしか、

確信を手にすることはできない。

 

自分が空っぽ、

中身がない、

価値がない、

という思い込みを打ち消すために、

学力、コミュ力、プレゼン力、プロジェクト遂行能力などの能力を、

示し続ける人生を選択するのだけれど、

終わりのないレースなんだよね。

常に時代は移り変わり行くし、

常に新しい世代が出現してくるし、

いつまで生きるのだろう。

人の命には限りがあるんだよ。

ずっとトップスピードで走り続けることはできなんだよ。

 

ならば、日々のルーティーンの中にある小さい変化やイベント、
偶然の出来事を楽しんだり愚痴ったりしながら過ごしていく。

 

こういうのも悪くない。

 

自己肯定のハードルが非常に低く、

自分自身の限界を越えようと四苦八苦しなくてもいい。

心地いいってこういうことかもしれない。

 

絶えず能力を発揮し、

成果を求めて活動し続けなくてもいい。

 

そういうあり方を自分が望むなら、

そうすればいい。

 

頑張らないという生き方。

頑張れるけど、あえて何もしない。

無為とは、能力があるのにそれを現実化せずにいられること。

つまり「〜しないことができる」というより高次の能力…。

 

エフォートレスとも表現できる。

気取らず、

飾らず、

肩の力を抜いて、

ありのままに生きる。

あり方で生きる。

 

『自分がないからゆっくり行動せず刹那的に生きる。

きみたちの勤勉とは逃避であり、

自分自身を忘れようという意志である。』

とニーチェが語るように、

人は自信がないと無為を選べない。 

 

無為、あえて何もしない、

日々のルーティーンの中にある小さい変化やイベント、
偶然の出来事を楽しんだり愚痴ったりしながら過ごしていく。

日々の暮らしの定点観測、

暮らしの余白や繊細な心の動きを愉しむという暮らしにエネルギーを全振りする。

あえて何もしないというのは、

あり方(土台)がしっかりしていないとできない。

 

日々の余白を愉しんでいるときが、

一番自分の魅力が引き立つ。

 

私は、今まであり方を整えるために、

余白を愉しむ…。

という考え方を持っていたが、

実は、

あり方が整っている人しか、

余白を愉しむことができないのでは…。

そのようにも考えることができるようになった。

 

まあ、どちらでもいいです。

まずは、日々の暮らしを愉しむ。

自分の感情を大切する。

過度な自己犠牲や我慢を避け、

感情を解放する…。

 

日々のルーティーンの中にある小さい変化やイベント、
偶然の出来事を楽しんだり愚痴ったりしながら過ごしていく。

日々の暮らしの定点観測、

暮らしの余白や繊細な心の動きを愉しむという暮らしにエネルギーを全振りする。

 

ここからしか何もはじまらない…。