「全体」は必ず「部分」に分解できるが、

 

「部分」をいくら集めても決して「全体」にはならないと思っている。

 

戦略と戦術もそうだし、目的と手段もそうだ。

 

戦術を揃えたら、自動的に戦略となるわけではなく、

 

手段を束ねたら、いつの間にか目的に到達できるわけではない。

 

 

しかし、私たちはなぜか、

 

部分的なことに対する論議が好き。

 

木を見て森を見ず。

 

爪で拾って箕(み)でこぼす。

 

細部に関心を奪われるがあまり、

 

肝心の全体にほころびが生まれる。

 

つまり、全体というのは、

 

「あり方」であると思う。

 

「あり方」が明確でない限り、

 

「部分」ばかり集めて、

 

「全体」、「あり方」をつくろうとする。

 

 

サーロインばかりの牛はいないわけで…。

 

「全体」、「あり方」が明確でない限り、

 

「部分」は充実しないと思うわけです。