先日、義理の母を病院に連れて行った。
いろいろと病気をしていて、これまでも毎月病院に付き添っていたが、
昨年は、大腸がんを患い、手術をし現在、抗がん剤を服用している。
今日は、月に一回の検診の日。
血液検査をすると血小板が減少している。(血小板が減少すると、出血した際に血が止まりにくくなるらしい。)
義理の母は、そういえば手にあざができましたと、あざを医者に見せた。
医者は、「あ~、大丈夫、大丈夫!」と一蹴。
義理の母は、そのあざが気になって仕方がない。
「これくらいの血小板の減少は、問題ないですから、もう少し様子をみましょうか?」
「原因は、私にもわからないんですよね。」
「抗がん剤、少しやめましょうか?」
「どうする?」
医者は、PCのデータを確認しながら、義理の母へ声をかける。
そして、義理の母にこう言った。
「わからんよね。」(チラチラと私の方を見る。)
結局、抗がん剤の服用を2週間やめて、血液検査を再度行うこととなった。
先にお断りをしておきますが、私は、医者の対応の良し悪しを問うつもりは毛頭ない。
私は、この一連の会話を聞いていて、思ったことは、
「答えは、自分の中にしかない。」
「未来は、対話の中にある。」
ということだった。
骨折をしたり、ケガをした際の治療方針は、ほぼ明確で、患者の意向をあまり聞かずとも医者の判断ですすめることができる。
しかし、治療をするといっても、現在の状態を維持する場合は少し違う。さらに、複数の病気が複雑に絡み合っている場合は、治療方針に正解はない。
だから、今回のケースで医者は、
「どうする?」
「わからんよね。」
と言ったのだ。
この「どうする?」「わからんよね。」という言葉に私は反応した。
正解がないからこそ、
「答えは、自分の中に、そして、未来は対話の中にある!」ということなのだ。
私は、帰りの車の中で義理の母に質問をした。
「お義母さん、血小板が少なくなって、手にあざができたことが心配なんですよね。あざって、目に見えるし、それが目につくと不安になりますよね。」
「そうなんよ~。心配なんよ~。」(心配なんだけど、嬉しそうに返事をする。こういうときってだいたい人は声がワントーン上がっている。)
「そうですよね、すべてが一気によくなることはないから、まずは、お義母さんが気になるところから治療する必要がありますよね。あざは目に見えますけど、体の中の出血は目に見えないし不安ですよね。」
「そうよね~。」
「病院の先生は、自分の専門領域の治療を優先させますから、『どうする?』ってお義母さんに聞いたんだと思うんですよね。お義母さんと今、話をしていると、血小板の数値を上げて、体の免疫を上げたいと思っているように感じるんですよね。」
「うん、うん。そうしないと…。」
私は、車の運転をしているので、義理の母の表情は見えないが、
おそらく、少し笑顔になっているように感じた。
医者から、「どうする?」「わからんよね。」と言われた時の困惑した表情と感情のまま家に帰すわけにはいかなかったので、少しホットした。