三木清さんが書かれた『人生論ノート』という本がある。
私にとって、難解な本だった。
その本の中に以下のくだりがある。
『習慣を自由になし得る者は、人生において多くのことをなし得る。習慣は技術的なものであるがゆえに自由にすることができる。もとよりたいていの習慣は、無意識的な技術であるが、これを意識的に技術的に自由にするところに道徳がある。修養というものはこのような技術である。もし、習慣がただ自然であるならば、習慣が道徳であるとはいい得ないであろう。すべての道徳には技術的なものがあるということを理解することが大切である。習慣は、我々にもっとも手近なもの、我々の力のうちにある手段である。習慣が技術であるように、すべての技術は、習慣的になることによって真に技術であることができる。どのような天才も習慣によるのでなければ何事も成就し得ない。』
書かれている内容が、私にとって難解だった。
しかし、最近なんとなく、私なりに理解できるようになった。
「人生は、習慣によってできている。」
このようなことを伝えたかったのではないだろうか。
だから人生において、過去の自分の経験で乗り越えることができないことに直面した際、
私たちはあわてふためく。
自分の身につけている習慣が通用しないからである。
習慣は無意識的技術だから、最悪、効果がないのに昔の習慣をやり続ける。
効果がないくらいならいい。
事態を悪化させるのに、昔の習慣をやり続ける。
こういう状況を一般的に中毒というのかもしれない。
『習慣を自由になし得る者は、人生において多くのことをなし得る。習慣は技術的なものであるがゆえに自由にすることができる。』
『習慣は、我々にもっとも手近なもの、我々の力のうちにある手段である。』
この2点を根拠とするなら、
人生において、過去の自分の経験で乗り越えることができないことに直面した際は、
今までの習慣を捨てて、新しい習慣を身につけることだと思う。
しかし、習慣は技術であり、しかもそれは無意識的技術。
だから、新しい習慣を身につけるためには、
新しい習慣を身につけることすら、自分が意識できないくらい
小さなこと、些細なことからはじめる必要がある。
ざっくり言うと、自分自身を騙す技術である。
それがいつしか、新しい習慣を身につけることになる。
本質は、違うかもしれないが、
アインシュタインは、こう言っている。
『問題をつくりだした時と同じ考え方では、その問題を解決することはできない。』
考え方の部分を習慣と置き換えてみると、理解できるかもしれない。
なにはともあれ、「新しい習慣を身につけることは、自分自身を騙す技術である。」と私は思っている。
『習慣を自由になし得る者は、人生において多くのことをなし得る。習慣は技術的なものであるがゆえに自由にすることができる。』
『習慣は、我々にもっとも手近なもの、我々の力のうちにある手段である。』