東京45年【40-2】京都 | 東京45年

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東京45年【40-2】京都

 

 

 

1985年 秋の頃、25才、京都

 

 

間接的な縁が人を繋いだ。

 

 

『お付き合いされた方がお二人とも8,000m峰を登っているとはな。何とも奇遇ですな。この中で竹中君に命を救われた者が4名もいる。ヨーロッパアルプスとヒマラヤで。。。。そして、彼は、未だに私の心を捉えている岳人です。当時、付き合っている女性が居ると聞いていたが、まさかここでお会い出来るとは、本当に奇遇ですな』と中尾先生が言った。

 

 

『しょうちゃんは素晴らしい人だったと思います。

 

しかし、秀はもっと素晴らしい人です。

 

山でしょうちゃんがどういう人だったかは知りません。

 

そして、秀が山でどういう人か分かりません。

 

しかし、秀は私を高めてくれます。

 

ここでお会い出来た偶然を感謝しますが、私にとっては必然だった様に感じます。

 

ですから、これから秀をよろしくお願いします』と玲が珍しく冷静さを無くして唐突に言った。

 

 

『佐藤さん、竹中君は素晴らしい岳人であり、素晴らしい人物だった。

 

しかし、君の彼氏を蔑んではいません。

 

もしそうなら彼をここに呼ぶ事は無かった。

 

島谷君は素晴らしい岳人であり、素晴らしい人物です。

 

彼は自分一人で世界の山を歩き回った。

 

私達京都大学隊は徒党を組んで行く。

 

先輩諸氏が残してくれた外交も使いながら海外に行くが、彼は一人で世界を向こうに回して、非難される事が有りながらも自分の意志を貫いた。

 

それはどんなに孤独感に苛まれて、どんなに苦行だったろうと想像を絶するものです。

 

いいですか、佐藤さん。

 

世界の山を知り合いも無く、しかも言葉も通じずに一人で歩く精神力は並外れた精神力が必要です。

 

黎明期の登山と一緒です。

 

学問も登山も人が成し遂げていない事を行うのです。

 

これが開拓者精神、アルピニズムです。

 

それを彼は成し遂げたんです』と中尾先生は言った。

 

 

『そんなに褒めて頂かなくて結構です。

 

私は、岳人としても人間としても竹中さんには遠く及びません。

 

どんなに自分の弱さを感じて、小さな人間だろうと思いました。

 

ですから少しでも強く大きくなりたいと努力しています。

 

その努力は死ぬまでずっと続くと思います。

 

そんな私ですが、竹中さんはいつでもお兄ちゃんの様な目標です。

 

大きくて強かった。いつまでも生きて私の目標であって欲しかったです。

 

ですが、今となってはどうする事も出来ませんが、竹中さんはいつまでも越えられない目標の様な気がしていますが、ライバルでありたいと思っています。

 

但し、彼女に関しては別ですが。。。。』と俺は言った。

 

 

『あなたも竹中君も素晴らしい登山をした。それは私達が知っています。貴方達二人は最強のザイルパートナーだった事も実績が語っています。私達京大の後輩もそれを見習って貰いたいと思っています』と中尾先生は言った。

 

 

『ありがとうございます。本当にありがとうございます』と俺は言った。

 

 

『あのぅ。先生、お話の最中に申し訳ありませんが、そろそろ宴を始めませんか?』と栗田さんが言った。

 

 

 

『ああ、そうだな。私も奇遇が続いたものだから、ついつい熱くなってしまった。いや、佐藤さんが先程言われた様に全てが必然なんでしょうな。では、出会いを祝して、乾杯しましょう』

 

と中尾先生が言った。

 

 

 

 

『秀は下戸だから、私が飲むわ』と玲が言った。

 

 

『君は酒が苦手かね?』

 

 

『はい、特にビールが苦手でして。。。ウィスキーでも2杯が限度です。日本酒はたぶんダメです』

 

 

『私もビールは苦手です。ではウィスキーを一緒に飲みましょう』と言われて乾杯した。

 

 

 

その店は鳥彌三=“とりやさ”と言う名前の店で、年代を感じる店だった。

 

江戸時代から240年続く店だと言う。

 

かの有名な坂本龍馬も、ここの鳥鍋を食べたとの事だった。

 

 

 

その夜は酒を飲んだ。

 

 

こんなに愉快に山への想いを語りながら酒を飲んだのは初めての事だった。

 

 

ところで、中尾佐助先生とは、京都大学出身で、植物学者であり、モンゴル・ネパール・ブータン・インドの他にサハリン・樺太、ミクロネシアまで、植物を調査する為に踏破し、『照葉樹林文化論』を提唱した方で、中国雲南省を起源とする稲作文化と共に民族文化まで共通性があると主張した文化論だった。

 

 

 

そして大阪府立大学農学部で教鞭を執っていた時に教えた教え子の西岡京治は、ブータンに夫人と二人で渡り、30年にも及ぶ農業支援を行った。

 

荒れ地の農地改良に始まり、品種改良に及ぶまでをブータンで行い、1980年に王家より外国人では初めて爵位を受爵した人である。

 

それは未だに外国人に与えられてはいないと聞く。

 

さらに、栗田さんは京都大学院在学中に大阪万国博覧会で大学院の命を受け、ブータンの方々を接待した縁で、ブータンに何十回とも無く通い、ブータンの民俗学とその歴史を世界に知らしめた人物である。

 

こんなにブータンと奥深く、しかも真摯に向かい合ったのは、世界でも京大を縁とする人々の他にいない。

 

それが文化である。

 

面々と受け継がれる文化である。

 

個人対個人を国交にまで発展させた人々がいる。

 

何れも学術調査から入り、研究の為であったが、それは言葉の通じない人々と知り合う事により、その人々への暖かい支援を考え、そして評価され愛されてきた京大山学部の『アカデミック・アルパイン・クラブ・オブ・キョウト』の所以であろう。

 

山登りだけでは無く、行った先々の人々や地域に多方面に渡る実績を残していた。

 

 

聞けば、翌年にはブータン未踏峰クーラカンリに遠征隊を送るとの事だった。

 

これで、世界には7,500mを越える未踏峰は無くなる事だろう。

 

京大なら登頂出来るだろうと思えた。

 

 

その晩は、美味い鳥鍋と美味いお酒をたくさん頂いた。

 

 

中尾先生をはじめとした京大の先輩諸氏に感謝である。

 

あれから40年が経ったが、未だに友好の情は途絶えてはいない事にも感謝である。

 

 

中尾先生は1993年11月、享年77才、京都で亡くなられた。

 

愛知県生まれだったが、生涯を通して京都を愛し、山と京大を愛しておられた。

 

嵯峨野天龍寺に葬られた。

 

 

 

 

当時の話に戻る。

 

 

その酒宴は夜の10時まで及んだ。楽しい宴だった。

 

 

あっという間の宴が終わり、表に出ると寒い京都は、酔いの中でグルグル回っていた。

 

 

玲と二人でタクシーに乗せられ、ホテルに戻ったが、最後にどんな会話を交わしたか良く覚えていない。

 

 

ただ、帳面の切れ端に書かれた皆さん住所が手の中にあった。

 

その後、皆さんと一緒に撮った写真が玲のマンションに送られてきた。

 

 

 

俺は赤い顔をして、玲と二人、にっこり笑っている写真だった。