東京45年【17】アンデス | 東京45年

東京45年

好きな事、好きな人

【17】

 

 

 

1983年冬から夏、上田からアンデスへ

 

 

北アルプス山中での1ヶ月に及ぶ登山を終えて上田に向かった。

 

駅には茂子が待っていた。

 

俺は髭は伸び放題で、髪はぐちゃぐちゃ、おまけに一ヶ月も風呂にもずっと入っていない。

 

茂子に抱きつくと゛臭い゛と言われた。

 

茂子の赤いマーチに乗ったが、あまりの臭さに助手席には乗せて貰えなかった。

 

冬なのにガラス窓は開けっ放しで茂子の家に向かった。

 

着くとみんなに臭い臭いと言われて、冬空の下で水浴びをした。

 

家の門ではなく庭の方だった。

 

人に見られたくない風体だったらしい!

 

仕方が無い、1ヶ月も風呂に入って無いから仕方が無い。

 

俺がショックだったのは、水浴びをした後に脱いだパンツだった。

 

俺のパンツは1ヶ月も履いていたので俺の形をしていた。

 

柔らかいはずの布が垢で固まって立っていた。

 

やっとの事で家に入れて貰ったが、雨に濡れてしょぼくれた野良犬の様だとみんなに笑われた。

 

家に入る前に茂子がバスタオルをくれた。

 

山では全てが濡れる。

 

ビショビショに濡れる。

 

茂子はそれを知っていた。

 

乾いたタオルをくれた。

 

乾いた物は1ヶ月振りだった。

 

嬉しかった。

 

気持ちが良かった。

 

これも機転がきく茂子とお母さん、ボーボワール親子のなせる技だったのか?

 

バスタオルを巻いて家に入ると、いきなり風呂に入れられた。

 

 

 

 

みんな揃っているから大丈夫だと思ってゆっくり入っていたら、茂子が様子を見に来た。

 

『まだ入れないから、もっと洗ってて』と言われた。

 

庭で洗ったのを含めて三回も洗ったから、もう洗うところは無いのに、もう一度洗った。

 

そんな事をしても茂子は来ない。

 

湯舟でユデダコになりそうになった頃に、遅くなってごめんなさいと茂子は脱ぎ始めた。

 

もうダメだよと俺。

 

俺は、さすがに長すぎる風呂はダメだとホウホウの体で風呂から上がった。

 

そこで、追い撃ちのお母さん、今日は静かだったわねと。

 

『親子で追い詰めないで下さい』と俺。

 

『島谷君が来た時はテレビのボリュームを上げるのが、私の仕事だったのに、今日は必要なかったわね』

 

『長過ぎるのも考えものです。長く風呂で待つのは危険です』と明るい俺。

 

『やっと、吹っ切れたのね。茂子が好きな島谷君にやっと会えたわ!』

 

『そうですか?』

 

俺にはわからなかった。

 

でもボーボワール女史がそう言うならそうなんだと思って嬉しくなった。

 

夜が更けても茂子とお母さんと三人で、この一年を語った。

 

俺は遭難した時、俺は死にそうだったとしみじみと言った。

 

そして生き残れたのは茂子がいたおかげだと俺は言った。

 

お母さんは死んだかと思ったと言った。

 

茂子は死ねば良かったのにと言った。

 

3人で笑ったが、何だか今までの茂子と違う感じがした。

 

 

 

 

部屋に茂子と一緒に入ったのは初めてだった。

 

お母さんに見送られたのも初めてだった。

 

その日は、俺は燃えたが、茂子はそうでもなかった。

 

俺は来年卒業するから結婚しないかと聞いた。

 

茂子はそうねと気の無い返事をした。

 

 

 

 

後から思うと、この時茂子は何かを考えていた。

 

翌日、茂子の実家を離れる時に言った。

 

『元気でね』と。

 

ウキウキしていた俺は、『大丈夫。元気だよ』と、わずかに心がすれ違った瞬間に俺は気付かなかった。

 

お母さんは何も言わなかった。

 

 

 

 

その月末は俺の誕生日だったが、どう過ごしたのか覚えていない。

 

茂子も俺も23才になった。

 

新学期は早稲田大学山岳部6年生になった。

 

やっと卒業出来る単位が取れて、残すは卒論と一般教養2単位となった。

 

やっとあと1年で茂子と社会人として並べると思った。

 

まだ山岳界では、゛ラウンド剣゛の登山が持て囃されていた。

 

記録を発表して欲しいと出版社数社から言われたが、断っていた。

 

田口さんとヤマケイの編集長、黒部の衆の渡辺さんに新橋の居酒屋でお祝いして貰った。

 

 

 

 

『よくもまあ、廻れたよな?あの厳しい山々を。全く大馬鹿者だ』と渡辺さんが言った。

 

『゛ラウンド剣゛ですから』と俺。

 

『だからって、お前が登った山一つだけでも、冬期単独は初めてだぞ』

 

『そうですか?』

 

『知らなかったのか?』

 

『知る必要がありますか?憧れて憧れて憧れ続けた山を絶対に登りたかったんです』

 

『それにしても、最初の鹿島槍ヶ岳の蝶形岩壁は雪崩の巣だ。冬期単独初登。そこから黒四ダムへの下降、これも雪崩の巣だ。バカげている。そこから黒部別山中央壁、これも冬期初だ。そこから延々と歩く。そこもあちこち雪崩だらけだ。何処で埋まっても不思議じゃない。そして、この登山の第一の核心部、剱岳八ツ峰。あそこを一人で行こうなんて言うバカは世界にいないぞ。厳冬期の八ツ峰を単独で登るだけでも日本の登山界がひっくり返るんだぞ。それから小窓と大窓経由黒部川への下降。全くバカげている。夏でさえ誰も行った事がない全くの未知の世界だ。そして、最大の核心部、お前が去年遭難した奥鐘山西壁。日本最大の岩壁だ。それを冬期単独初登。岩壁を抜けても、白馬岳までの雪崩だらけの急斜面だ。全く信じられん。本当に信じられん。何でそんな事をして生きているのか信じられん』

 

『別に信じて貰わなくても僕は構いませんよ』と俺は笑った。

 

『笑い事じゃないぞ。山に関わる全ての人達がひっくり返ってるぞ』と渡辺さんが言った。

 

『ナベさん、こいつと話すと頭がおかしくなるから止めといた方が良いですよ』と田口さん。

 

『ナベさんは知らないでしょうけど、こいつはそんな事だらけですよ』と編集長。

 

『僕は登りたい山を真剣に取り組んで登りました。それが登山界の発展に繋がればと思っています。ですが、もう山は止めます。だからもうひっくり返らなく済みます。今度は憧れて憧れて、待たせ続けた彼女と結婚したいと思っています。今度は真剣に社会人になります。だから山は止めます』

 

『なんだそりゃあ?何を言ってるんだ。おい、そりゃあ許されないぞ』

 

『許すも許さないも、僕はもう登りたい山が無いんです』

 

『おい、田口、編集長。こいつは何なんだ?』

 

『だからナベさん、まともに話しちゃいけないんですよ。こいつとは』と田口さんが笑った。

 

『ところで、いつ考えたんだ?』

 

『高校時代に“ラウンド・カンチ”を読んでから、どこかでやりたいと思ってました。で、大学1年の時に剣岳に登って、ここだと思いました。それから田口さんに相談して、ルートを考えて、話したらそんな事が出来る訳がないって言われて、そんなに凄いんならやろうって気になりました』

 

『剣から黒部川への下降はどうしたんだ?』

 

『雪が雪崩た後、夜、一気に下りました。』

 

『あんな地形が複雑な所を夜下ったのか?』

 

『こいつは化け物なんですよ。ナベさん』と、田口さん。

 

『ダウラギリも、利尻西壁も夜ですから』

 

『あれもか?』、渡辺さんは呆れていた。

 

『一体、何時間動き続けたんだ?』

 

『40時間位です』

 

『えぇーっ!?』

 

『下の方は、雪が胸まであって、手間取りました』

 

『。。。』

 

『でも、止まると雪崩がいつ来るかって不安で、どんどん下ったら黒部川上部に出て、500m程は懸垂下降で下りました』

 

『事故った奥鐘西壁は怖くなかった?』

 

『研ぎ澄まされていましたから不安はなかったです』

 

『こいつの凄い所は、今回の登山もそうだが、それ以上に去年あれだけの遭難から生きて帰って、またチャレンジした事ですよ。足も完治していないのに』と田口さん。

 

『今回でやっと吹っ切れました。回りがもう山は無理だと言われて、ガッツが出ました。ですが、本当は、この1年間は自分が情けないくらいになんにも自信が持てなかったんです。味わった事がないくらい苦しかったです。自分をふっ切る為のチャレンジでした』と俺。

 

『山屋は山でしか答が見つけられないからな』と渡辺さん。

 

『苦しんで見つけたものはデカイよな』と編集長。

 

『そうだよな』

 

『彼女は元気なのかい?』

 

『はい。でも何かわからないですが、変わった様な気がするんです』

 

『あれだけ心配かけたからな。強くなるよ』と田口さんが言った。

 

『あの日、お前が事故った時に一緒に富山に行って下さいって言われた時は鬼気迫るものがあったからな』と続けた。

 

そんな風な意味で変わったんじゃなくて、茂子が何か弱くなった様な気がしていた。

 

でもそうとも言えない気もした。

 

何なのかわからなかったが、不安だった事は確かだった。

 

 

 

 

『次は何処に行くんだ?』

 

『さっき言った様に行きたいところが無いんです』

 

『ないのか?』

 

『はい。今はそれほど燃えるところが無いんです。それより卒業して結婚したいんです』

 

『本当にもったいない』

 

『今は部活動として続けたいと思います。初めにやりたいと思った事はやったんです。で、待たせた彼女にちゃんと答を出して上げたいんです。それが今一番やりたい事です』

 

ゴールデンウイークは、黒部別山南尾根と丸山東壁、剣岳源次郎尾根、同八つ峰だった。参加して楽しい登山だった。

 

 

ゴールデンウイークが過ぎたある日、茂子が東京に来た。待ち合わせ場所は下北沢トロワシャンブルだった。

 

茂子は外が歩きたいと言った。

 

二人で数カ月一緒に暮らしたアパートに向かった。

 

もうあのアパートはなく、ビルが立っていた。

 

『変わっちゃったのね。寂しいわ』

 

『形があるものは変わるよ』

 

『私達は?』

 

『変わる訳ないだろう!』

 

『最初に会った時、新宿に向かう山手線で私に言った事覚えてる?』

 

『大人しくない女の子が好きだって。。。』

 

『違うわ。“君は大人しそうなのに、きっと大人しくないよね。そういう子って俺好きなんだ”って言ったのよ』

 

俺ははっきり覚えていた。

 

『ああ、そうだったな』

 

『その次の日、“好き”って言ってキスしたでしょう。

 

それなのにヒマラヤに行くって言った。

 

訳がわからなかった。

 

それなのに“着いて来い”って言ったわよね?』

 

『ああ』

 

『訳がわからなかったけど、つかさは真剣だった』

 

『俺は、初めてあった時に“ああ。この子だ”と思ったよ。ポン女の正門で会った時に思ったんだ』

 

『つかさが好きになってくれて、私も好きになった。なのにヒマラヤから帰って来たのに直ぐに電話をくれない奴だったから、嘘だったら一発殴ってやろうと思って、ここに来てつかさの顔を見たらやっぱりつかさが好きだとわかったの。そしたら、それからつかさはずっと私だけを見ててくれた。だから貧乏でも構わなかった。つかさは幸せをくれた。何故この人はそんな事が出来るのって言うくらいに私を一番に思ってくれた。でも、もう私はダメなの。もう

つかさとは一緒にいられない』

 

『何それ?いきなりなんだよ?訳がわからない。何故そんな事を言うのかサッパリわからない。飽きたのか?』

 

『そんなんじゃないわ。あなたには飽きないわ。でも、そう言うだろうと思ってたわ。でもダメなの』

 

『もう山は、俺がやりたい事は済んだんだ。だからこれからはシオンと一緒にいたいと思ってたんだ』

 

『この前、上田に来た時わかったわ』

 

『なのにどうして?』

 

『つかさには山をやる為に私が必要だったのよ』

 

『なんだって?何を言ってるんだ?』

 

『山が終わったら私も終わると思ってたわ』

 

『違う違う、絶対にそんな事はない。今まで寂しい思いをさせた分、これからは横にいて幸せにしたいんだ』

 

『私はつかさのおかげで幸せよ。普通の恋人達が経験するよりもいっぱい経験して、おかげでいっぱい成長したわ』

 

『わからないよ』

 

茂子は京王プラザに泊まろうと言った。

 

何故そうなるのか全くわからなかった。

 

京王プラザに電話して部屋を取った。

 

1215室が取れた。

 

ご飯を新宿で食べて部屋に入ったが、茂子が理解出来なかった。

 

茂子は今日で最後だからいっぱいしてと言った。

 

茂子はキスをしてきたが、俺はそんな気になれなかった。

 

いったい何がどうなってるのか全くわからなかった。

 

『今まで一番わかり合えてると思っていた女が一番わからなくなった』

 

『そんな事ないわ。今も一番わかり合えてるわ』

 

『なのに何故別れなきゃいけないのかわからないよ。お前は言い出したら引かないから。だけど理解させてくれよ』と俺は泣いた。

 

『わかるの。つかさは女だけじゃダメな人なの。自分の追い掛ける物があって、それでも横にいる女が合うの。最初は私もそんな女だった。でもつかさと一緒にいて私は変わったの。つかさが羨ましかった。妬みもあったわ。田口さんや渡辺さんから電話を貰ったわ。つかさが結婚したいって言ってたって。結婚して後もつかさのやりたい事を支えてくれとも言ってたわ。でも変わったの。ごめんなさい。私もやりたい事が欲しいの。だから別れたいの』

 

『でも、俺はお前じゃなきゃダメなんだ』

 

その夜は、あの狭いアパートで冬の夜、身を寄せ合っていた時の様に抱き合って寝た。

 

キスさえもせずに。

 

翌日は、ホテルをゆっくりチェックアウトした。

 

最後に俺に付き合えと言って、初めてデートした代々木公園に行った。

 

その後、緒方漣がいる原宿のレストランに寄った。

 

緒方漣には事情は何も話さなかった。

 

『なんか久しぶりじゃん』と今風の口調ではあったが、相変わらず訛っていた。

 

茂子と俺はお互いに笑い合い、楽しんだ。

 

その後、表参道から青山通りへ出て、ベルコモンズでお茶を飲んだ。

 

『やっぱり、つかさといると楽しいわ』

 

『そうだろう』と自慢げに俺。

 

『つかさは私にとって麻薬よ』

 

『禁断症状が出たら会いに来いよ』

 

『そうするわ。やっぱり楽しいわ』

 

青山墓地を突っ切って行こうと言った時は、もう青い帳が下りていた。

 

宵やみが迫っていた。

 

すぐそこまで来ていた。

 

だが、空は光を残し青かった。

 

乃木将軍の大きな墓標を左手に見ながら、街灯が途切れた辺りで茂子は立ち止まった。

 

『して』と茂子は言った。

 

俺は優しくキスをした。

 

何度も、何度も、何度も。そして茂子と立ったまました。

 

その後、上野駅まで見送ろうと言ったが、茂子はいいよと言った。

 

青山一丁目の交差点で別れた。

 

出会ってから5年が経っていた。

 

青い帳は俺達の5年間を包んで、暗闇へと運んで行った。

 

 

 

 

それから2年くらいの間に茂子とは数回会った。

 

でも、いつどこで会ったか覚えていない。

 

会う度に茂子は誰かと恋をしたと言った。

 

会う度に戻りたいと言った。

 

智子からもそんな内容の電話を貰った事があった。

 

茂子に会った時に俺も恋をしたと言った。

 

それから俺は戻れないあの日々が懐かしいと言った。

 

二人の言葉は過ぎた日をさまよっていた。

 

傷は癒えたと思っていたが、二人共癒えてはいなかった。

 

そして心がすれ違った事がやっとわかったと言った。

 

茂子は俺の山への情熱に嫉妬し、情熱が傾けられる何かを欲しがった。

 

それを見つける為に俺と別れる必要があったらしい。

 

それが見つからなかったから戻りたいと言う茂子を再び俺は受け入れられなかった。

 

あの時、青山で離さなければ良かったと何度思った事か。

 

しかし、時の流れと人の心は変えられるものではない。

 

悲しみを抱えながらも俺はまた山に向かった。

 

茂子と別れて、アンデスに行った。

 

南米の最高峰アカンコグアに友達と登った。

 

アンデスは茂子との別れの後だったから今でも哀愁がある山になっている。

 

竹中さんを失った時に茂子は俺を支えてくれた。

 

あいつは側にいるだけで俺を理解して、支えてくれた。

 

そして、茂子を失った。

 

竹中さんを失い、茂子を失った。