東京45年【14】黒部 | 東京45年

東京45年

好きな事、好きな人

【14】

 

 

 

1981年夏から冬、上田から黒部
 


上野からあさま号に乗り換えて上田に行った。

 

茂子は高校時代の友達と出かけていて留守だった。

 

お母さんに北海道の土産物を渡すと、私これが好きなのと貝柱の佃煮を喜んで見ていた。

 

お母さんは思い出した様にお風呂に入ればとお湯を張ってくれた。

 

気持ちが良かった。

 

のんびりと湯船に浸かっていると茂子が帰ってきたらしくワイワイとお母さんとの話し声が聞こえた。

 

ガラッとお風呂のドアが開き、
 

『お帰りなさい』
 

『ただいま』と俺にキスをした後、服を脱ぎ始めた。

 

『ちょっと待てよ。それはまずいだろう?』と言うと、『お母さんに話したわ』と。
 

ボーボワール親子だと思った。
 

一緒に湯船に浸かった。

 

キスをした。
 

マンションの時と同じ行動だった。

 

マンションの時と同じようにセックスをした。

 

出来るだけ静かにした。

 

茂子の口を押さえてした。

 

その夜もした。

 

部屋に入って来るのを待ちわびて、入ってきた茂子をいきなり襲う様に裸にした。


『最近、ハングリーアルピニストがお留守だったわね』と茂子が言った。
 

『ああ。でももう大丈夫だよ』
 

『竹中さんね、つかさと一緒にヒマラヤのアンナプルナに行く前の日に私に電話してきて、“島谷君をちゃんと戻しますから安心して下さい”って言ったの』
 

『泣かすなよ』と言いながら俺は涙を流していた。
 

『つかさはそうならないでね』と横にいる裸の茂子を見ると茂子も泣いていた。

 

『大丈夫だよ。俺にはお前が居るから、そうはならないよ』
 

『絶対だよ』
 

『ああ、絶対だ!』
 

『じゃあ、約束だよ』
 

『ああ、約束だ』
 

『じゃあ、もう一回して』と茂子。
 

『指切りじゃあないんだ。。。』と俺は笑ったが、言った時にはもう茂子の股間に触れていた。

 

茂子のあそこは濡れていた。

 

柔らかだった。

 

一層激しいハングリーアルピニストが登場した。
 

 

 

 

何日か上田で過ごした。

 

茂子のお母さんが茂子の名前を梓にしたかったと言った。

 

お父さんと行った上高地の梓川が清らかで好きだったと言った。

 

でもおばあさんに字画が悪いと言われて諦めて、人生が明るく栄えて繁る様にと茂子と付けたという事だった。

 

俺は思い付きで見に行きましょうと言うと、話はトントン進んで三人で上高地に行く事になった。

 

 

 

 

早朝、茂子が運転する車に乗った。

 

楽しかった。

 

上高地は何度も行ったが、観光で行ったのはこの時以外にない。

 

大正池、立ち枯れの木を見てから梓川を遡る。

 

河童橋から水面を見ると魚がたくさん泳いでいる。

 

お母さんが言う通り清らかな梓川だった。

 

梓川は太古の昔から変わらない姿を今に留めている。

 

毎年、雪解けの春が来て、雪解け水が川を被う。

 

初夏の木々の新緑、夏の涼しげな風、秋の川面に映る紅葉、誰一人いなくなった雪に閉ざされた凶暴な冬。

 

川面は雪に覆われる。

 

この姿を毎年繰り返している上高地。

 

山に登る為に来る時は、俺は登る事ばかりを考えていて、自然の美しさを見ていなかった事に気が付いた。

 

一つの同じ物を見てもその時の心のあるところに因って、違う物に見える事を知った。

 

良く見える時もあれば悪く見える時もある。

 

何も感じない事もあれば、無性に心に響く事もある。

 

梓川を無心で見たら心が動いた。

 

心をからっぽにして人に出会うといい出会いが生まれる事が多い。

 

茂子と出会った事もそうだった。

 

その前に大学に入ってすぐの頃、オリエンテーリングの時に緒方漣が俺の横に座らなければ茂子との出会いは無かっただろう。

 

ダウラギリを登らなければ田口さんとも出会えてはいないし、竹中さんや渡辺さん、ヤマケイの編集長にも…露店商の親父リン・ガングリさんにも…あのコップを買っていなければ、shionも始まってはいない。

 

そして3畳での同棲が無ければ、茂子への愛はこんなに深くならなかっただろう。
 

貧乏でなければ…、もっと広いアパートに住んでいたら…、あの日、代々木公園でキスしてなければ…、豊沢と智子がいなければ…、俺は今の俺ではなかっただろう。
 

 

 

 

梓川を見ながら俺は泣いていた。

 

茂子が横に来て、俺の手を握った。
 

ああ、茂子。

 

お前は素晴らしい女だよ。

 

全く。

 

俺の心をこんなにも掴んで放さない。

 

お前が欲しいと本当に思う。

 

一緒にいるのにお前が欲しい。
 

『つかさ、3年間半突っ走って来たわね』
 

『ああ、そうだな』
 

『でも変わらずに、いつも私を考えて、想っててくれて、私を見ててくれてありがとう』
 

『お前もそうだろう?ありがとう』
 

『つかさは大人になったわ』
 

『ああ、お前も良い女になったよ』
 

『嬉しい』
 

『愛してる。しおん』
 

河童橋の上でキスをした。

 

抱き合って何度もキスをしていると、お母さんが熱いわねと寄って来た。
 

『ここでそれ以上はダメよ!いったい何処に親の見ている前でそんな事したり、お風呂に一緒に入るって言う子供がいるのかしら。しかもお風呂で…』
 

『ばれてたか!』と茂子。
 

『当たり前でしょう。ドタバタとうるさかったから』

 

『すみません』と俺。
 

『って言いながらするんでしょ!』
 

『はい、多分』と俺。
 

お母さんは微笑みながらうらやましいわと言った。

 

俺と茂子は笑った。
 

夏の暑さの無い爽やかな梓川の頃だった。
 

 

1981年、夏だった。
 

 

 

 

上田から東京に帰ったのは8月終りになっていた。

 

部室に行くと一年生が一人いた。

 

田中と言う奴だった。

 

山の話をしたり、彼の両親の話をしたりした。

 

彼は帰国子女だった。

 

父親の仕事の関係で5才から18までイギリスやドイツで育っていたので日本語が変だった。

 

政経学部に在籍していた。

 

小学生の頃にスイスアルプスの避暑地に家族で旅行した折りに目にした大自然に感動して中学生の頃から始めたらしい。

 

しかし、早稲田山岳部は良いが、日本になじめないと言った。

 

暗くふさぎ込んでいる事があったのはそういう事だったのかと思った。
 

俺は店が心配だったので夏休み中に行くつもりだったが、ついでに気晴らしにニューデリーでも行くかと話したら行くと言う。

 

すぐにでも行きたそうだったからデパリさんに切符を手配して送って貰った。

 

 

 

 

ニューデリーに着いたのは9月になっていた。

 

リンさんとデパリさんを紹介した。

 

田中には翌日から店を手伝って貰った。

 

テキパキとして飲み込みも早かった。

 

インドヒマラヤの6000m弱の小さな山にも一緒に行った。

 

悠久の大自然を満喫した様だった。

それから10日くらい滞在して、日本に戻る飛行機の中でニューデリーに住みたいと言い出したのにはびっくりした。そして店で雇って欲しいと言う。

 

 

 

 

俺以外に物好きがもう一人いた。

 

親にちゃんと了解を貰えれば構わない事を言うと、なんと10月には早稲田を中退して本当にニューデリーに行った。

 

親父とおかみさんは店が安泰だと喜んだ。
 

田中は早稲田を中退したが、優秀な奴で翌年にはインド工科大学に入学した。

 

インド工科大学は日本の東大にあたる大学で入試倍率は60倍を越えていた。

 

元々英語とドイツ語はネイティブだったが、2年程でヒンディ語もマスターしていた。

 

田中は40年経った今もニューデリーに住んでいる。

 

奥さんは早稲田在学中に知り合った人だった。
 

 

 

 

日本に帰って大学の授業が始まるとあの修行僧の生活が再び始まった。
 

12月は茂子の誕生日を初めて二人でお祝いをした。

 

茂子は22才になった。

 

またいつもの京王プラザに泊まった。
 

年末から正月は山岳部の合宿で剣岳に登った。

 

帰りには上田に寄った。

 

正月過ぎになっていた。

 

茂子の家に着いて早々にいつもの様に一緒に茂子とお風呂に入った。

 

お父さんは見て見ぬ振りをしていた。

 

ボーボワール女史の応援があった。

 

 

 

 

翌日、茂子と善光寺に初詣に行った。

 

振り袖を着た茂子は綺麗だった。

 

茂子はいつ留め袖にしてくれるのかとニコニコして聞いた。

 

あと2年かな?と答えるとだいぶ先だと言って怒った。

 

もっと早くしてと言った。

 

ちゃんと卒業してからだと言うと渋々わかったと言った。

 

善光寺でおみくじを引いた。

 

俺が大吉で、茂子は中吉だった。

 

すると茂子は交換してと言った。

 

二人で4分の3吉だと言ったが、聞かなかった。

 

いつもそんな子供の様な事を言う奴だった。

 

でも、いつも譲ってやった。

 

 

 

 

その時、初めてラブホテルに入った。

 

円形の回転ベッドと天井の鏡が刺激的だった。

 

茂子は着付けはバッチリだと言っていたので、初めてのラブホテルを楽しんだ。

 

しかし、帰る際に着れないと良い、振り袖が悪いと言い出した。

 

こんな時の茂子には優しくするに限る。

 

手伝って着せようとするが、ダメだった。

 

結局、ホテルに頼んで着付けの人を呼んで貰った。

 

その着付けのおばさんいわく、やる事だけやって着物が自分で着れない若いお嬢さんが多いから正月は毎年休みなしだと言っていた。

 

その一言に頭にきた茂子は東京に帰って大学卒業までの間、着付け教室に通っていた。

 

その時のセックスは良く覚えいないが、恥ずかしそうにおばさんに着物を着せて貰っている茂子は印象的で1枚の写真の様に記憶に残っている。

 

 

 

 

東京に帰るとすぐに後期試験が始まった。

 

自信が出る程勉強したので成績は良く、履修した課目は全て単位を取得した。

 

あと2年で卒業出来そうだった。
 

 

 

 

その冬の事だった。

 

試験終了後に黒部峡谷にある奥鐘山を登りに行った。

 

壁の大きさは日本で最大で標高差1200mだった。

 

宇奈月温泉までバスで入る。

 

そこから雪が積もったトロッコ電車の線路を歩き峡谷に入って行く。

 

3時間程歩き、トロッコの線路を離れて細い道を歩く。

 

峡谷の両側は切り立っていて、空が狭かった。

 

峡谷の幅は狭いところで100m、広いところで150m程あり、両岸が1000m程真っ直ぐに壁が立ち上がっている。

 

そのコントラストで空が狭く感じる。

 

黒部川下の廊下の上流に向かって右側を行く。

 

右側の岩壁をくり抜いて作った道を歩く。

 

目指す岩壁は川の反体側にある。

 

道と言っても人一人がやっと通れる道だ。

 

左手は黒部川に向かって真っ逆さまに100m程落ちている。

 

だから細い道でつまづくと100m下まで落ちる。


石原裕次郎が主演した黒部の太陽と言う映画があったが、その原作となった高熱ヅイドウにこの道を作る苦労が書いてあった。


慎重に進み、岩が凹んで落ちている岩肌をザイルを伝いながら懸垂下降で下りる。

 

100m下りるとそこは゛黒部川下ノ廊下゛の川床だった。

 

川幅は20m程ある。

 

切り立った両岸からは雪崩が引っ切り無しに起きている。

 

流れが緩いところを選んで川を渡らなければならない。

 

冬の黒部、雪の降る中で轟々と流れる川を渡る。

 

登山靴を脱ぎ、服を脱ぐ。

 

パンツ一丁になって腰にザイルを結び反対側を岩に結んで渡る。

 

川の深さは深いところで2m、流れに流されながら斜めに泳いで渡る。

 

川の水は切る様に冷たく、ドンドン体温を奪っていき、体が痺れてくるのがわかった。

 

かなり流されながらやっとの事で対岸に泳ぎ着いた時は唇が青くなっていただろう。

 

荷物を取りに川を渡り返さなければならないので、その準備をする。

 

腰のザイルを解き、岩に結ぶ。

 

出来るだけピンと水面から離して張る。

 

短いシュリンゲを腰に結び、メインザイルにカラビナを取り付ける。

 

要するに一本のザイルを橋としてそれにぶら下がって渡るのだ。

 

体温が落ちて低体温症になる前に早くしなければならない。

 

我慢してもう一度川に入る。

 

今度は流される事もなく、元の岸に着いた。

 

体を手の平で叩いて血流を戻す。

 

裸でザックを背負って、さらに川を渡る。厳冬期の水泳が終わった。

 

水から上がると髪の毛は直ぐに凍り付いてくる。

 

直ぐに水を払い服を着る。

 

上方からも対岸からも雪崩が来ない場所を選んで、簡易テントを張り、中に入ってコンロを焚く。

 

紅茶を作り体を温めた。

 

もう夕暮れが迫った時間だった。

 

両岸の壁は黒いので闇が迫る早さはあっという間だった。


目的の奥鐘山西壁は黒光りして遥か上方まで延びている。

 

高さは1200mもあるが、途中のオーバーハングで遮られて壁の全体は見えなかった。

 

 

 

 

翌朝、寒い中、登攀を開始する。

 

単独登攀は、まずザックを背負わずにザイルの長さ40mいっぱいに登り、次に張ったザイルを伝って下りて荷物を背負って登り返す。

 

つまり、同じところを登って下りて登る事になる。

 

登り下りを繰り返して大きなオーバーハングの下にたどり着く。

 

オーバーハングはひさしの様に10m張り出している。

 

虚空に身を翻し、足は空気を掻きながら進む。

 

オーバーハングの端では、海でボートに這い上がる様に虚空を蹴ると、また垂直の壁に戻る。

 

指の第一関節のみを引っ掛けて、足のスタンスは数ミリの出っ張りにアイゼンの歯を引っ掛けて登る。

 

なんとか片足の半分が置ける場所に着いて、ピッチを切る。

 

ふくらはぎと二の腕が破裂しそうな程にパンパンに張っている。

 

そのままの恰好で少し休んだ後で下り、その日は虚空でのビバークをする。

 

川床は遥か下にあり、股の間から除くと雪で霞んで水面は見えなかった。

 

ただ両岸からの雪崩がドーンドーンと深夜まで響いていた。