東京45年【13】ヒマラヤ | 東京45年

東京45年

好きな事、好きな人

【13】

 

 

 

1981年春、アンナプルナ南壁
 

 

3月末にネパールに入いりキャラバンの準備をする。


アンナプルナ。


1950年に人類が初めて達した8000m峰だ。

 

その未踏の南壁。

 

頂上直下まで真っ直ぐに3000mに渡り切り立った壁。

 

岩と雪と氷で覆われた壁。
 

 

しばらく、じっと見つめて『行こうか』と田口さんが言った。

 

男4人で重い荷物を分けて登り始めた。

 

竹中、田口、原、島谷。早稲田OBと現役チームだった。

 

何度も一緒に山を登り、気心も実力もわかりあえていた。

 

この登山は厳しく、楽しく、この上なく素晴らしい山登りだった。

登り始めて1週間後にまた同じ場所に戻った。

 

とてつもなく速い登攀だった。

 

やっと出来たと思った。

 

モンブランで確信して始まった俺の理想とする登山が実現出来た事を確信した。
 

 

 

 

1950年の初登頂時には40人の登山隊で2ヶ月半もかかり、2人しか頂上に達していない。

 

しかし、その登山がなければ我々の登山もなかっただろう。
 

頂上ではあるがままに風に吹かれた。

 

人知がおよばない大自然の中で自分の幼さと小ささを感じて、登頂する事は征服する事ではなく、大自然と同化する事だとハッキリと知った。

 

 

何かを求める事の中にしか幸せは無いと思っている人が多くいるが、今の自分を溶かして今の風に吹かれる事が自分を高める事だと感じた。

 

登山の文化レベルがもっと上がり、登山が進化と分裂を繰り返しても世界の登山界が発展する事を切に願ってやまない。

 

そして登山を通して知り合った人々と俺を鍛え育て続けてくれる山に感謝の意を表する。

 

感謝、感謝だ。

 

ありがとう。

 

 

そして、こんな勝手でわがままな俺に着いて来てくれる茂子と彼女に巡り逢えた奇跡にありがとう。
 

 

 

 

【アルピニズム憲章】
『より未知、より高く、より遠く、より困難を』
 

 

アンナプルナ8091m
無酸素登頂、南壁初登攀
アルパインスタイル

アンナプルナ=豊穣の女神
 

3年前にポン女の正門で初めて茂子に出会った日だった。
 

 

 

 

俺も茂子も大学4年生になっていた。

 

でも俺は名ばかりの大学4年生で、実質は大学1年生だった。

 

そろそろ卒業する為に大学に行かなきゃいけないと思っていた。
 

 

 

 

ニューデリーに行き、親父とおかみさんにそろそろ店を締める話をした。

 

親父の名前はリン・ガングリ、おかみさんはデパリ・ガングリ。

 

リンさんとデパリさんは40才を過ぎていた。

 

16才で結婚したらしい。

 

子供も大きくなっていた。

 

お店からの収入はガングリ家を潤わせていた。

 

大きな家を建てていた。

 

慎ましやかに暮らしていたが、リンさんの商売が思う様に行っていないらしくお店からの収入が無くなると困るといった。

 

その時点で結論を急ぐのも良くないと思い、継続する方向で検討してみると言って家に帰った。

 

お店の商品を整理したり、銀行に行ったりして数日間を過ごして日本に帰った。
 

 

 

 

日本に帰るとゴールデンウィークが過ぎていた。

 

茂子に会い、上田に行きお母さんに会い、山岳部の先輩や後輩、OBの方々、ヤマケイの編集長、日本山岳協会の副会長、黒部の衆の渡辺さん、玲子さん、そして緒方漣、諸々の人達に会ってお礼や土産話やこれからの事を話した。

 

これから大学を卒業する為にしばらくは海外の山に行かない事、『shion』をいずれ誰かに譲りたい事等々を話した。

海外に行かずに、また上井草の寮に転がり込んでいた。

 

アパートを借りようと思えば十分な資金はあった。

 

茂子は高田馬場のマンションで弟と3人で暮らそうと言ってくれたが、断った。


過去寮母さん達にはとてもお世話になっていた。

 

だから恩返しのつもりで寮母さん達の手伝いをしようと思った。

 

要するに食事の住み込みと掃除のお手伝いさんである。

 

だが無給だった。

 

やってみるときつい仕事だった。

 

中でも食事の準備が大変だった。

 

朝食と夕食を月曜日の朝から土曜日の朝までを準備していた。

 

朝は4時に起きて調理場の掃除に始まり、学生100人の朝食の準備、食事は5時半から7時半まで。

 

学生が朝食を済ませると食器の洗い物。

 

それが終わると食堂やトイレ、お風呂、共有部分等々の掃除、これが終わるのが10時頃。

 

但し、取れていない単位だらけだったので毎日授業がギュウギュウ詰めにあり、全部を手伝う訳にはいかなかった。

 

毎日4時に起きて朝食の準備と給仕をして、食器の洗い物の途中で大学に行き、7時頃に寮に帰って夕食で使った食器の洗い物を手伝い、風呂に入り、10時頃に寝るといった生活パターンだった。

 

今から思うとまるで修行僧の様な生活だった。
 

 

 

 

俺の仕事は月曜日から金曜日の朝食までとして貰い、金曜日の夜から日曜日にかけては山に行く。

 

但し、天気が悪いと山には行かずに茂子と会うか登山仲間と会ったりした。

 

たまに茂子のアパートに泊まったりした。

 

雨の日にしか会わないこの頃の俺を評して、茂子は『雨男』と呼んでいた。
 

 

 

 

茂子の弟、ひろちゃんは早稲田の理工学部に入学していた。

 

だから一般教養の課目は一緒の授業になる事があった。

 

サッカーが好きで小学校からやっていた。

 

大学では同好会に入って草サッカーをやっていたので土日は雨の日でも試合や練習に行っていた。

 

だから雨の日には高田馬場のマンションで茂子と一緒に過ごした。
 

 

 

 

その頃の茂子はニュートラやハマトラファッションに凝っていた。

 

ポロシャツに膝上のチェックのスカート、デッキシューズにハイソックス、冬はスタジアムジャンパー、略してスタジャン。

 

確か、そんな格好だった。

 

黄色やピンクのポロシャツを好んで着ていた。
 

 

 

 

ある雨の日に新宿の伊勢丹の下着売り場に行った事がある。

 

俺は白か黄色やベージュの下着姿の茂子が好きだったが、このころからデパートにいろんな柄物やどぎつい色の下着が並び始めていたと思う。

 

いや、もっと前からあったかも知れない。

 

山にばかり行っていたので浦島太郎状態だったのかかもしれない。

 

とにかく、そんな事に気がついたのはその頃だった。

 

ハートの柄物のブラジャーとパンティーを買って上げると
 

『今日はこれ着てする?』と無邪気に言ったが、あまりにそのデザインが女の子女の子していたのであまり燃えそうもなかった。
 

 

 

 

梅雨のはしりの雨が激しい日だった。

 

大学の部室に行くと何やら騒いでいた。

 

竹中さんが山で遭難した。

 

ショックだった。

ヒマラヤを登山中だった。

 

状況を聞くと例年にない悪天候で、登頂の為のルート工作の途中だったらしい。

 

40年経った今も遺体は発見されておらず、行方不明のままである。
 

 

 

 

日本に帰ってきたのはベースキャンプに置かれていた登山用具だけだった。

 

その中に大学ノートの日記帳があった。

 

山への思いや玲子さんだらけの日記だった。

 

それを読むと別れた後も玲子さんだけを想い続けていた。
 

 

 

 

数ヶ月後に葬儀が執り行われたが、竹中さんの父親から玲子さんにそのノートが手渡された。

 

玲子さんはそのノートしばらく読んでいたがみるみる涙が溢れて、化粧が崩れるのも気にせずに顔をクシャクシャにしてそのノートを抱きしめてずっと泣いていた。

 

俺も茂子も泣いた。
 

俺は竹中さんに一緒にヒマラヤに行かないかと誘われたが、大学に通う事を理由に断った。
 

俺が行っていればこんな事にならなかったのかも知れないと竹中さんの両親と玲子さんに詫びた。
 

玲子さんは竹中さんからこれが最後のヒマラヤだと聞かされていた。

 

だからこれが終わったら大学は二部に転部して、昼は働くから結婚しようと言われていた。

 

玲子さんは竹中さんに答えなかったらしいが、ヒマラヤから帰って来たら是非一緒に居て欲しいと伝えるつもりだったらしい。


玲子さんが都内の結婚式場を勝手に回っていたらしい事は後で知った。


そして玲子さんは竹中さんのノートをご両親に帰し、その代わり付き合い始めた頃に玲子さんが竹中さんにプレゼントしたハーケンの形をしたシルバーのペンダントを形見として貰った。

 

アルプスを一緒に登った時、凍える夜に壁の中でそれを見せながら静かに話してくれた。

 

ヒマラヤを一緒に登った時は、玲子さんにフラれた直後だったので思い出したくないとそのペンダントを実家に置いてきたと言っていた。


俺は大事なザイルパートナーを亡くしたばかりではなく、道標となる8つ年上のお兄ちゃんを亡くした想いだった。


それからしばらく俺は山から遠ざかった。

 

遠ざかっても茂子と山を思いながら、そして『何故死んだんだ』ばかりを繰り返しながら竹中さんを想った。


40年経った今も、ふと竹中さんの事を想い出すと涙が出てくる。

 

それから数年の間に俺は竹中さんを含めて7人の友達を山で失った。

 

竹中さんの死は俺に悲しみと悔しさとたくさんの涙を残したが、その後の友の死では泣けなくなっていった。

 

これは登山をやる者にとっての影だった。

 

まばゆいばかりの光を放つ様な登山をした者が山で死ぬと、その光が強烈であればある程影はより一層濃かった。

 

 

 

 

6月末になって茂子の就職活動が終わった。

 

就職先は上田から遠くない場所にある製薬会社に決まった。

 

郷里にした理由は俺が卒業するまでは親孝行をすると言っていたが、今から思うと俺が勝手で寂しかったんだろうと。

 

とにかく決まった夜は二人でお祝いをした。


京王プラザホテルの1215号室を予約した。

 

あのホテルに行くとホスピタリティーと言う言葉を思い出す。

 

親身になってお客様の用事を受ける、その姿勢が素晴らしかった。

 

レストランで食事を取り、部屋に入った。

 

あの時と変わらない部屋だった。

 

そしてあの時と変わらない二人がいた。

 

上田の就職はショックだったが、茂子は私は変わらないと言ってくれた。

 

抱きしめた。キスをした。

『愛してる』と初めて口にした。


『嬉しい。私もよ』と茂子は言った。


どこにいても茂子とキスをした。

 

喫茶店でも、道を歩いていても、横断歩道で信号待ちの時も、山手線でも。

 

だから『キス魔』と言っていた。

 

どこにでもキスをした。

 

茂子の体でキスをしていない場所は無かった。

 

愛していた。
 

 

 

 

7月に入り前期試験の季節が来た。

 

俺は寮母さんを手伝いながら一生懸命3年間の遅れを取り戻そうとして毎晩の様に遅くまで勉強した。

 

試験が終わり夏休み入ると山岳部の夏合宿があった。

 

北海道合宿だった。

 

60名の部員を5つのチームに分けて大雪山を交差縦走しようという計画だった。

 

山のどこかで必ず4つのチームと交差する計画だった。

 

北海道ワイド周遊券と言う切符を学割で買った。

 

1万2千円くらいだったかと思う。

 

3週間北海道の電車・バス乗り放題の切符だった。

 

青色の急行で青森に総勢60名で向かった。

 

青森から青函連絡船で北海道に渡った。

 

函館からまた電車に乗った。

 

美瑛と言う駅に行った。

 

そこから美瑛富士を登り大雪山系を10日間かけて縦走をした。

 

厳しい登山ばかりしていた時期であり、竹中さんの死の後だったので、この登山は俺に癒しと愁いをもたらした。

 

高山植物の花が今が盛りとばかりに咲き乱れていた。

 

エゾリスやエゾウサギ等の動物も顔を出してくれた。

 

遠くに熊も見た。


本当に楽しくて山登りの原点を再発見させてくれた合宿だった。

 

縦走しながらいろんなものを見る度に茂子に見せて上げたいと思った。

 

今までは闘争心剥き出しで、時には悲壮感を漂わせて山を見つめていたが、この北海道の山旅は今までにないくらいに茂子を思い出させた。

 

 

 

 

合宿の打ち上げを支笏湖のモーラップキャンプ場でやった。

 

ジンギスカンの肉をこれでもかと言うくらいに買い込んでみんなでこれでもかと言うくらいに食べて酒を飲んだ。

 

キャンプファイアーもした。


キャンプファイアーの火を見ていると茂子を思い出して何故か涙が出てきた。

 

そして竹中さんを思い出していた。


翌日、俺は真っ直ぐに東京に帰らずに同期の原と利尻に渡った。

 

利尻西壁を調査する為だった。

 

夏の西壁は灌木や這松が多くて登れないが、冬は雪がたっぷり付くと登る可能性はあると考えていた。

 

一通り壁を見て回り地形を把握した。

 

帰りの電車では原と一緒に冬の状態を想像しながら夜行列車で東京に帰った。