私の学生時代、昭和でいうと50年代の中頃以降ですが、学校の先生で戦争に行った、という人が定年間際でしたがまだ在職していました。 

 

広島出身のその先生が若いころ実際戦艦大和に携わったとのことで 

「大和が沈んだ、と聞いた時、どうやってあんな大きな船が沈んだんじゃろ、と不思議に思った」

 と言っていたのを今でも思い出します。

 

 現在、広島には大和ミュージアム(令和7年現在改装のため長期休館中)という所があり、10分の1スケールの大和があったり、 その近くには実物大の大和の甲板をイメージできるような公園があったりしますが、 フルスケールで戦艦大和の大きさを体感できることはできません。 

 

それが川西能勢口の駅構内または外側を歩くことで戦艦大和の大きさを体感することができるのです!

 

詳しくは動画で↓↓

 

 

みんなの0円物件に掲載されていた

亀岡市の土地を見に行ってきました。

 

写真でも斜めになっているな、とは分かりますが

実物を見ると物凄い傾斜でした。

 

詳しくは下の動画をご覧ください↓↓

 

 

 

元宅建の先生(宅建太郎氏)、元山口組顧問弁護士山之内幸夫氏

 

元ヤ〇ザ(池田組元副本部長田中勇次氏・西村まこ氏・観客の殆ど)

 

が集まりチャリティイベントに参加。

 

 約27万円ほどが集まり、恵まれない子供達にと

元ポ〇中で現在は作家兼新聞配達員(本人弁)の中林和男氏(サムネ左から二人目)

が社会福祉法人に全額寄付されました。

 

その後、会場だった千年町から宗右衛門町、法善寺横丁をぶらっと歩きました。

 

 

 

前回、多太神社の動画(ブログ)を上げましたが

「小戸、鴨、と来てやっとこさ「古代イスラエル」と言わなくなってホッとした」

 

と思われたリスナーさんや読者さんがいらっしゃったと思います。

これは多太神社の御祭神が「オオタタネコ」ということで

 

どちらかというと三輪明神大神神社の記事で取り上げようと思っていたのですが

おそらく小戸、鴨よりはもっとぶっちぎりでキツイ古代イスラエルが色濃く残るものだと思われます。

今回、多太神社の記事を書いていまして、私の旧ブログを見る機会がございました。

ランドホーム旧ブログ
その中に多田神社の参道を歩くというのがあり、年月を見ると2007年8月ということで

今から約18年前のものとなり、当時はまだストリートビューというものも無く

(ストリートビュー自体は有ったと思いますが、この通りはカバーされていませんでした)

その違いを見るべく原付で散策してみました。

 

(その様子は動画をご覧ください)


多田神社に入ると笹川良一氏の名前がドーンと目に飛び込んできます
他にもヤクザの親分衆の名前も刻まれています。

おそらく先祖が源氏系列の親分さんだったのでしょう。

 

 

 

多太神社ですが、1736年頃までは「平野明神」と呼ばれていました。

これは延喜式神明帳に記載されている多太神社(たふとのかむやしろ)がいつしか忘れ去られ

長い間、この神社がまさか多太神社とは気づかれず時だけが過ぎていったのです。

あるとき(1729年頃)お上から調査するようにとのお触れが出て

ここが延喜式に記載されている「多太神社」と判明したのです。

また、昔このあたりは大神郷(おおむちごう)と呼ばれていました。

大神(おおむち)とは大和、現在の奈良桜井市の大神神社の御祭神「大物主」の子「オオタタネコ」の住むところと古文書(和名抄)に書かれています。

現在の桜井市と川西市とでは相当距離がありますので、住んでいたかは別として、私の旧ブログ
https://landhomeinc.livedoor.blog/archives/954498.html
にも書いたことがありますが、この一帯は「間歩」といって金属が取れるところが多数あったということから、この辺を押さえておこう、という事になったのではないでしょうか。

そしてこのあたりは神人氏(みわひと)という氏族が住み、多太神社の御祭神がオオタタネコ命で神人氏の氏神であったとされています。

現在公表されている御祭神ヤマトタケル、イザナギ、イザナミ等は後付けと思われます。