「大門に行かねば」という思い
とは裏腹に、たいして何もなかった
と思いつつ…

 




そろそろUターンして帰ろうかと
大門を左に見ながら、元来た方向
に進路を向けた時、道を挟んで
右側にあった四角い「何か」が
僕の視界に飛び込んで来た。



良く見ると…



一瞬、「お化けなんちゃら?」とか
書かれている客寄せの看板か何か
の様なものに見えたのだが、良く
見ると「なんじゃこら?」っと感じる
ほどのその重厚さに正直、驚いた。




それが…これ。







『お助け地蔵尊』???

板に単にペンキで書いたのではなく
わざわざ石を彫って作られているという
この石碑は恐らく…安く見積もっても
およそ数十万円はするだろう。
(しかも御影石っぽかった)




「なんでこんな所に石で???」




誰かがこのお地蔵さまの為に、大金を
はたいて作ったのは間違いのないところ
なのだが・・・そこにも興味を持ちつつ
まるで導かれる様に、そのお地蔵さま
がおられる方向へ歩き出した。






林の中を抜けるように歩いて行くと
やがて少し広くなった場所があり
そこにステンレスを使った、少し
近代的とも言える祠が…




後から調べてわかったのだが…
どうやら、ひとつだけ『願い』を
聞いてくれるお地蔵さまだった。


ちなみにそれを知らずに何故か
ひとつだけ、ある『願い事』をした
のだが…果たして。(※内容は内緒です)





この場所がとても大切にされている事
は、すぐわかったのだか何故か女性…
というか、母性を強く感じるお地蔵さま
だった。

祠の周りにもいくつかのお地蔵さま
がおられ、どなたかがとても丁寧に
お世話をされている様に見えた。





そして、全てのお地蔵さまにご挨拶をし
奥へ行くと、左手に獣道の様な小さな
道がさらに奥へと繋がっている。

普通の「ハイキングコース」?の様にも
見えたその分岐点に何やら立札が…。



よく見ると「女人道」と呼ばれる山道に
関する説明書きと地図がかかれていた。

何気なく読み終えた時にハッとした。


弘法大師様が高野山を拓いた頃から
1906年までの約千年以上は「女人禁制」
とされていた為、女性はお参りする事が
許されてはいなかった。

例え、それが…
弘法大師の母親であったとしても。



母親は息子の身を案じ、立入を許され
なかった奥之院の燈籠堂から大門までを
すっぽり囲む範囲の外側の山道を巡礼
しておられたらしい。


今日、奥之院の近くから数分間
バスに乗ったものの、そこから大門まで
は全て歩いたのだが、はっきり言って
もうヘロヘロになる位の距離はあった。

しかし、この女人道はその4~5倍の
距離はあったはず。



子を思う母、大切な人を想う女性の愛は
何にも勝るのだと思った。



ご自身よりも偉く、尊い存在と
弘法大師様が本当に伝えたかった事。


歴史の中でスポットライトを浴びた人物
だけではなく、たとえ陽があたらずとも
時代を支えた人々が確かにいた事
そして、それは現代に於いても違わず
同じなのだという事を感じずには
いられなかった。


大切なのは我々の想い。


さらに混沌としていく世界の中で
決して諦める事無く、「希望」という
光の存在と「祈り」を忘れずに生きよ
という「メッセージ」を感じながら…
お助け地蔵さまを後にした。








祠を背に、もと来た道を歩いていると
右手に例の「石の案内板」が見えた
のだが、その奥に何故か、全く気付か
なかった小さな祠があった。







「お地蔵さまか…」と思いつつ
祠の左側にあった、お地蔵さまの名前
を見て鳥肌が立った。






その名は…










「延命地蔵尊」



最後のダメ押しと言んばかりに
「生きて成せ」と弘法大師様が
おっしゃられたのだと思った。








高野山での学び。



ある者には…決して自身の立場に

驕る事なく、謙虚な思いを持つ

必要性を説き。

ある者には…決して他人事ではなく
真摯に受け止める必要性を説き。

ある者には…決して人任せではなく
正義を主張する必要性を説き。

ある者には…決して我欲だけでなく
人を思いやる気持ちの必要性を説き。


そして


私には…決して楽を選ぶのではなく
生きて「何か」を成す必要性を説いて

下さった。





良くも悪くも、この高野山での出来事を
お参りを勧めて下さった方にお話しした
ところ、あなたが感じたままにブログに
書く様にとおっしゃられた。


賛否はあると思うのだが…

弘法大師様のメッセージは厳しくも

愛に満ちているものだった。

 

 

 

 

あなたも奥之院のその奥で

弘法大師様を感じ、メッセージを

受け取りたいと願うのであれば…

 

霊的な力や宗教的な立場の優位性

など全く関係なく、善くも悪くも

自らの今までの行いを認めた上で

心静かに自らを見つめ、ただただ

手を合わせることが大切なのだと

感じたのだった。

 

 

 

弘法大師様はきっと今日も

誰かを待っておられる。

 

もしかして…

それはあなたかも知れない。