告知と受容 | 老年科医の独り言

老年科医の独り言

認知症治療にかかわって30年目になります。
今回心機一転、題名を変更して、ぼつぼつ書いていきたいと思います。

「転移性骨腫瘍」と私が告知した時、

「私が先か」と妻が答えたことは、先の記事に書いた。

妻はこの時、自分の病気について受容していたと考えている。

 

主治医の対応で、二人とも「悪性の病気」と、

主治医から説明がある前に覚悟していたことも、

この様な会話になった要因だと思う。

 

コメントでも頂いたが、この様な対応が可能なのは、

二人が医療関係の仕事をしていた為であろうか?

 

私は、それだけではないと思う。

妻は、看護学校時代に父親が亡くなっている。

30歳代で、親しい人が複数なくなるなど、

身近な人の死の経験が多かったのは一つの要因だと思う。

しかしそれだけではないと、私は考えている。

 

妻は、看護学校を出て国立がんセンターの呼吸器内科で、看護婦人生を歩み始めた。

主に肺がんの治療を行う病棟である。

今でも肺がんの治療は、難しいケースが少なくない。

当時は、手術出来ても長期生存が難しいケースが珍しくなかった。

3年ほど勤務したが、この間多くの「患者の死」に向かい合って来ている。

この時の体験が、彼女の死に対する考えを作り上げたのだと思う。

 

私が入局した第二内科は、「循環器」・「呼吸器」・「血液内科」が担当であったが、

妻は、第二内科担当の看護師として勤務していた。

「白血病」等で若くして亡くなるケースもいた病棟である。

 

彼女は、人生において前向きに生きてきた。

その事と上記の経験が、彼女の死生観を作り上げていたのであろう。

国立がんセンター(今の

 

 

私はと言うと、私が沿いの恐怖を覚えたのは、幼児期~小学校低学年であった。

私は、特殊な環境で生まれ育った。

祖父はお寺の住職であり、私は祖父のお寺で生まれ育った。

 

父は医者・母は看護師と言う環境でもあった。

父が、勤務先の病院の入院患者のトラブルで、夜中に呼ばれた事があった。

戻ってきた父に、母が

「どうせした?」と聞いた時、父が「ダメだった(亡くなった)」

と記憶が、鮮明に残っている。

 

祖父は、最高位の緋の衣(赤い)を許されていた。

このため市内の寺院から、檀家の葬儀の時導師として招かれることも多かった。

そのたびに、料理の折りを私に持ち帰ってくれた。

 

私の遊び相手は、近所の高齢者が多かったが、

遊び相手を失う理由は、相手の死だった。

私が子供のころは、土葬であった。

墓地は私たち子どもの遊び場の一つである。

一度埋葬されると、かなりの期間それが判る状態であった。

この様に、私は「人の死」を身近に感じて育ったのである。

 

この様な体験から、それぞれの死生観が形成されたのだと考えている。

著名人が「癌でなくなった」と言うニュースは、最近は日常的になってきた。

私たち夫婦は、

「自分が癌になったらどうしたい」

「私がなくなったら、どうする?」など折に触れて、話すことがあった。

お互いに、「自分が、いつガンになっても可笑しくない」と言う認識で生活していた。

 

最近妻が言ったこと!

「いつ自分が癌になっても可笑しくないという認識はあったが、

まさか自分がその立場になるとは、思わなかった。」

と言った。

その後で、

「なったものは仕方がないけど。受け入れ前向きに治療していくしかないけど」

とも言っていた。