「転移性骨腫瘍」と私が告知した時、
「私が先か」と妻が答えたことは、先の記事に書いた。
妻はこの時、自分の病気について受容していたと考えている。
主治医の対応で、二人とも「悪性の病気」と、
主治医から説明がある前に覚悟していたことも、
この様な会話になった要因だと思う。
コメントでも頂いたが、この様な対応が可能なのは、
二人が医療関係の仕事をしていた為であろうか?
私は、それだけではないと思う。
妻は、看護学校時代に父親が亡くなっている。
30歳代で、親しい人が複数なくなるなど、
身近な人の死の経験が多かったのは一つの要因だと思う。
しかしそれだけではないと、私は考えている。
妻は、看護学校を出て国立がんセンターの呼吸器内科で、看護婦人生を歩み始めた。
主に肺がんの治療を行う病棟である。
今でも肺がんの治療は、難しいケースが少なくない。
当時は、手術出来ても長期生存が難しいケースが珍しくなかった。
3年ほど勤務したが、この間多くの「患者の死」に向かい合って来ている。
この時の体験が、彼女の死に対する考えを作り上げたのだと思う。
私が入局した第二内科は、「循環器」・「呼吸器」・「血液内科」が担当であったが、
妻は、第二内科担当の看護師として勤務していた。
「白血病」等で若くして亡くなるケースもいた病棟である。
彼女は、人生において前向きに生きてきた。
その事と上記の経験が、彼女の死生観を作り上げていたのであろう。
国立がんセンター(今の
私はと言うと、私が沿いの恐怖を覚えたのは、幼児期~小学校低学年であった。
私は、特殊な環境で生まれ育った。
祖父はお寺の住職であり、私は祖父のお寺で生まれ育った。
父は医者・母は看護師と言う環境でもあった。
父が、勤務先の病院の入院患者のトラブルで、夜中に呼ばれた事があった。
戻ってきた父に、母が
「どうせした?」と聞いた時、父が「ダメだった(亡くなった)」
と記憶が、鮮明に残っている。
祖父は、最高位の緋の衣(赤い)を許されていた。
このため市内の寺院から、檀家の葬儀の時導師として招かれることも多かった。
そのたびに、料理の折りを私に持ち帰ってくれた。
私の遊び相手は、近所の高齢者が多かったが、
遊び相手を失う理由は、相手の死だった。
私が子供のころは、土葬であった。
墓地は私たち子どもの遊び場の一つである。
一度埋葬されると、かなりの期間それが判る状態であった。
この様に、私は「人の死」を身近に感じて育ったのである。
この様な体験から、それぞれの死生観が形成されたのだと考えている。
著名人が「癌でなくなった」と言うニュースは、最近は日常的になってきた。
私たち夫婦は、
「自分が癌になったらどうしたい」
「私がなくなったら、どうする?」など折に触れて、話すことがあった。
お互いに、「自分が、いつガンになっても可笑しくない」と言う認識で生活していた。
最近妻が言ったこと!
「いつ自分が癌になっても可笑しくないという認識はあったが、
まさか自分がその立場になるとは、思わなかった。」
と言った。
その後で、
「なったものは仕方がないけど。受け入れ前向きに治療していくしかないけど」
とも言っていた。