桐野夏生 「白蛇教異端審問」


エッセイ自体はたわいもない内容で、結構、読み飛ばしてしまったし、蛇に例えた後半の文章も読み飛ばしてしまった。



でも書評の部分は、まるでスイッチのON/OFFのように、エッセイとは全く違い、別人が書いたような表現が続く。



普通の人が書いているのは「感想」であり、「書評」を書くには感性、言葉、周辺知識、すべてが必要な、高い能力が要求されるものなんだと感じさせた。



すごい。




蛇足:彼女は職業としての作家の大変さについて書いていた。そして図書館の弊害(本を貸す。特に、人気ある新刊書を多数揃えて貸し出すようなことだろうか)も書かれていたが、使っている側からすると、図書館が、彼女が気にするほどのインパクトを与えているかなぁと思う。


使う人はよく使うけど、ほとんどの人は忙しくて行ってられないという感じではないでしょうか。

私はナショナル・ジオグラフィックの壁紙を使っています。

大体はアメリカのサイトから落としていますが、今回、日本語のサイトを見てました。

そうすると、7月の壁紙として 画面にたくさんの種の写った壁紙がありました。

でも、これはパッと見、種には見えず、例えばぞうりむしがたくさんいるように見えるのです。

信じられない...これを壁紙だなんて。

会社に、男っぽくサバサバした性格で、洋服も女性っぽいものはまず着ないという女性がいます。
女性と接すると緊張してしまう私も、その人とはリラックスして接することができます。

この間、たまたまその女性がこちらに背を向けて書棚の整理をしていたんです。
その時、その女性の耳から首筋のあたりが、丁度私の目線のあたりにきたのですが、何故かそこは女性っぽくて、びっくりでした。
でもまた次の瞬間、振り返り、ごく普通の会話と、いつもの印象に変わり、まさに瞬間で終わってしまいました。

結局、わがなんだろうと思う。


寂しいと感じる気持ちは、単に甘えてるだけとわかっている。わがままだとわかっている。


それに第一、寂しいなんて言える資格がない。





この寂しさを埋めてくれる人がいたら...ではその人に私は何か恩返しができるだろうか。


いや、きっとそんな人が現れたら...その人の気持ちは本当のものなのだろうか、と心配でしょうがないに違いない。











家族を容れるハコ 家族を超えるハコ
上野千鶴子

私のような、半分壊れた家族を持っているものには、ピンごこない内容でした。
うちの家族は[家族はこうでなければ]とそれぞれが主体的に手を伸ばしあうような関係ではない。 運命を受け入れ、そこに いる ことは割り切っているけれど。
だから、最近は[家族]が変化していると指摘されても…

また、住むことや婚姻とセックスの関係のことが出てくる。
ひとつは婚姻はセックスの契約というような意味あい。
住居は共同生活の場でもあると共に、プライベートなセックスの空間でもある。 そう思うと、何気なくそれを日々、当たり前のように切り替えて暮らしていることを不思議に感じる。

切り替えなんて必要のない私には関係ないことだけど…

夫婦がお互いの主張をぶつけ合うような、どっちを取るかみたいな関係になってしまったうちは、普通の視点で家族というものの問題を考えようとしても無理なんです。

ただ思うのは、家族同士の関係が小さくなったために、曖昧さを許さなくなってしまい、結果、ギスギスしてしまうけれど、大家族であったら夫婦の相性がそのまま家族全体の雰囲気には拡大しなかっただろうということ。
多対多なら、もっと曖昧でも許されたと思う。間におばあちゃんやおじいちゃんが入ることで、色んな意見が出て、考え方にはAとBしかないのではない、とわからせてくれそうだし、はっきりさせないままでも結構何とか物事は進むとわからせてくれそう。

あー何を書いているのか…わかりますか?