夏休み、子供がずっと家にいます。


引きこもりではないけれど、家でTV見たり、ネットしたり、ゲームしたりでもう半月。


高校生なので、もう親が連れ出さないと、という年でもないと思うんですよ。





自分を振り返って...どうだったろう?? 実は思い出せない...情けない...


ただイメージとしては部活もやってたし、プールにも行ったと思う。





今はこんな風に、人とのつきあいが苦手な人間になってしまったけれど、高校の頃はそんなこともなく、遊んでいた。





心配なのは、夫婦のつながりの薄さが原因でそうなってしまってるのではないかということ。


人とのつながりかたがわからない(目の前に見本がないから)、そしてむしろ夫婦の会話を聞くと、緊張している感じがするので、逆にそういうことに一歩ひいてしまうのかもしれない。


そんなことを危惧します。





これから就職で大変だというのに、そして就職では人とのコミュニケーション力が問われるというのに、すごく心配です。


どうして社会を、こんな風に寛容さのない形にしてしまったのだろう。





親が生きているうちは住むには困らないのかのしれないけど、それだけでは人生の本当の幸せを全然知らないってこと。


人を好きになり、信頼しあったなかで一緒に生活する...私自身の夢でもあるし、子供はそれを味わってほしいし、そういう人を見つけてほしい。


苦労はあるだろうけれど。


そのためには人と接することを恐れてはいけないのに...親の悪い見本を見ているからかな...






どうして好きになれないのか。


起きた途端に子供に注意をはじめ、早くしろと言う...


本人は子供にだけ言っているつもりなのかもしれないけど、私の頭の中にもその言葉がいっぱいになって入ってくる。


何もしないんだから、尻拭いばっかり、「xxしたらいいでしょう」と自分の思うように動かそうとする...子供に対してのことかもしれなけど、そんな風に思うんだなと、私の頭のなかもいっぱいになる。


それをずっと繰り返してるうちに、声を聞くだけで、嫌だなと思うようになってしまった。





そんななかに一緒にいる子供がかわいそうとは思う。


男女がお互い惹かれあっている場面、信頼しあっている場面を知らないのだから。


ごめんね。 でも、別れることもまた子供にとってショックなこともわかっている。


こんなこと書くと、たくさんのクレームがあるかもしれないけど...

この状態を変えようと、自分の思っていることを相手に言うことは、相手を傷つけることになるので、できません。実際に、相手は涙します。 それが嫌です。 だから、もう一度言いたくても言えません。


では自分が変わること? 変わることは、嫌だなと感じなくなるように自分を変えるということ。


麻痺させるということ。 それでは自分が、自分から離れていってしまう感覚が強くなってしまいます。



会社でもそう。 自分の思うようにしてほしいという気持ちはあるけれど、相手に納得してもらうことが大事です。 それが感じられないことを無理にさせようとはできません。


なのに、じゃあちゃんと説明をできるかというと、下手なので...だからリーダーとしては失格なんでしょうね。



無理に何かをさせたくないというのは、反対に、嫌われたくないという思いからなんですね。


相手から嫌われたくないというよりも、嫌われている自分が自分で嫌という感覚。


こういう精神的な症状、きっとあるでしょう。




TV朝日の「うちごはん」の江角マキコが好きです。


本人の本当の姿はわからないけれど、TVで見せる、素直に感じる色んな仕草が素敵です。


そして料理も参考になります。


子供っぽい発想だけれど、実際のつながりでなくても、「思い」でつながっているという実感って持てないものなんだろうか。


この思いが届けば、この思いによって何かを相手に気づかせることができればいいのに。


こんな風な気持ちが自分のなかにあるうちは進んで行ける。

でもあきらめてしまったとき、私にはもう休める場所がない。

「静」の状態でいるしかない。


川洋子と石田衣良との対談に興味があって読んだ本です。
自画自賛ではないけれど、この二人との対談の内容は、よかったと思います。

小川洋子さんの小説の中の男女の関係の描き方は、彼女が見つけたひとつの描き方だと思うし、そういう描き方で世の中を見ている彼女だからこそ発見できる雰囲気、呼吸というものがあると感じます。
FMで本の紹介をしているけれど、彼女のコメント、見方、感じ方がとても好きです。

石田衣良さんは、彼自身と恋愛、性愛と結びつくイメージはないけれど、NHKのハーバード白熱教室に出ていた時の頭の回転の良さ(自分の気持ちをササッとうまくまとめて話せる)を感じたけれど、同じ印象を読んでて持ちました。

ところで何人かとの対談を読んでいて、恋愛や性愛について書く時、自分の空想でも実体験でもいいけれど、その時の「自分」というもの限界を越えては書けないことの苦しみというものを感じました。
特に女性作家は、小説の中のこと=実体験ではないと言いながらも、実際の「自分」のイメージからあまりに違うことを書きにくいのかなと。
「こんなことを経験した人かもしれないんだ」、「こんなことを想像している人なんだ」ということや、結婚していれば結婚を通じて家族や社会とのつながりが、書きたいことや思いを表現することの足かせになるのではないでしょうか。
例えば、唯川恵さんが小池真理子さんの書かれる小説について、「私もストレートに書ければいいけれど、なかなかそこまでは...」と言いたげな感じを持ったのは違っているでしょうか?

辟易は高樹のぶ子さんとの対談。 こういう値踏みするようなノリはやめてほしい・・・って読まなければいいのだけど・・・