京の人口は、
平安初期で55,500人、
そこから400年経った
鎌倉時代で68,000人
応仁の乱を経た
戦国末期で122,000人
時代が安定した
江戸期に333,000人
そこからは急激に増え、
現在で100万人を超えています。
京の大きさも一定でないので、
一概には言えませんが、
世界的な人口増と歩調を合わせ、
幾多の困難をものともせず、
ずっと都市でありつづけたわけです。

この場合の都市というのは、
商業的機能を持っていて、
生産性がなくとも、
生活必需品の供給がなされ、
消費されるだけの人口を抱え、
おまけに政治的機能ももっている、
という意味です。

これは地の利にあわせた
交通の弁がいいわけでもなく、
京都という自然に、国内があわせた機能として、
人工的都市としては、
まさに歴史的な意義を感じられるものです。

いったい述べにしたら、
どれだけの人間が、
この1200年の都で生活を営んできたのか、
単純には計算できませんが、
人生50年として、
1200年÷50年=24世代

平安京遷都から鎌倉までを
400年=8世代
人口6万として、
6万×8世代=40万人[a]

室町期を
400年=8世代
人口10万として、
10万×8世代=80万人[b]

江戸期を
250年=5世代
人口30万として、
30万×5世代=150万人[c]

これを全部足してみますと、
[a]+[b]+[c]=270万人
となるわけです。

あ、僕が何を言いたいのかと申しますと、
明治以前までに、
京の都で生を営み、
その生を終わらせた人
つまり、
この1200年の都に屍を埋めた人の数です。

もちろん、一概には言えませんが、
少なく見積もっても、
この京都の地中に、
少なくとも270万以上の人たちが、
骨を埋めたってことがわかります。

さて、その屍、
そのお墓はどこにあるのか、
ということが気になったわけです。

答えは、
嵐山に近い化野(あだしの)周辺と、
そして、
東山に南北に延びる寺院界隈、
ということになるのです。

すごくまどろっこしいかもしれませんが、
僕は初めて京都を訪れ、
金戒光明寺から現在の京都の市街地を見下ろし、
そして、低地までびっしりと続く、
無数の苔むした墓石を眺めながら、
そんなことを、
なんだかしんみりとした面持ちで、
つくづくと考えていました。
プロジェクト602日目。
 

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2020/3/2 602日目

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『僕を知らない君へ』オープニング 1日目

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