誰もが、それなりに
大人になっていくのだ。
少なくとも外見だけは変わっていく。
皺のひとつが、
やがて深い溝となって、
身体に生きた証を刻んでいく。
あとは内面、つまり、
理性をどこまで保って、
嫌なことでも平静でいられるか、
それを維持できるかだろう。

僕はみなに囲まれるようにして
グラスを持つ洋二郎を見ながら、
「俺もけっこうさ、
大人になったと思うんだけど…」
そう、子どもじみたことを言った。
彩花はくすっと笑って、
僕の顔をじっと見たかと思うと、
「そうかなあ…」
「え、俺だって」
僕は口をかすかに尖らせた。
彼女はまた少し笑って、
「翔太は、」
僕は目を見張った。
彩花は、僕を下の名で呼んだことなど
今まであっただろうか、
いや、意識していなかっただけだろうか、
それで、彼女はふいに話すのをやめて、
「なあに?」
「いや、なんでも…、それで、」
「やだあ、じっと見るからびっくりしたよ、
翔太はね、
全然変わってないって思ったよ、」
「え~」
僕は大げさに手を広げた。
彩花は続けて、
「こないだ結婚式、久々会った時、
私ね、びっくりしちゃったもん、
みんなちょっとずつ、大人っていうかね、
老けてくるじゃない、
なのに、あなたは、」
彼女は僕を見上げるような仕草になって、
「全然変わってないな、てね、
悪い意味じゃないよ、なんか、
1人だけ時間止まっちゃったみたいな、
変な感じした…、」
「変な感じ?」
彼女はそれで口を噤んだ。
僕は言葉の意味を考えていた。
何を言いたかったんだろう。
それで、ふいに、
息ついてから笑った。
考えすぎだと思ったから。

 

プロジェクト718日目。

 

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恋愛に最終帰結的で、
これでよかったなんて
結論なんてないだろう。
誰もがそれを
求めているのも知っている。
僕自身だってそうだ、
少なくとも興奮剤が
適度に胸をくすぐっている間、
その成就以外、
なにも考えていないし、
その成就が、
希求すべき大正解だと
思っているのだから。

彩花への思いは、
すぐにぽうっと
火が点いたような気分になった。
長く軽やかな髪にふちどられた、
華奢で、薄幸にも見える
ほっそりとした輪郭。
思慮の深さを思わせる、
澄んで深遠な色味を帯びた瞳。
慎重に、そっと薄氷を歩いて、
もし足元がもつれたら、
そのか細い手足をなげうって、
僕に抱きついてきて欲しい。
そんな夢想に耽りながら、
僕は彼女との
再会の日を待っていた。

僕の大学時代の
無二の親友だった洋二郎は、
本当に彼女とはまるで無縁だった。
僕が電話で、
彩花も誘ったことを切り出すと、
最初は全然、
思い出せなかったくらいだった。
これは無論、
僕が彼女に
会いたいための口実だった。

そして、披露宴の再会から2週間後、
僕は再び
彩花に会うことが出来た。
結婚式では
ドレスアップしていたから、
ライトな格好した彼女も、
また新鮮に感じられた。

新宿から私鉄で2駅行った、
繁華街の中の、
どこにでもある飲み屋で、
旧友たちと落ち合った。

「洋二郎くんも、
ずいぶん大人っぽくなったね」
僕のとなりに座った彩花は、
小声になって言った。
「そう」
僕は首を少し振った。
彼女は
何を憶えていたというんだろう、
そして、僕自身については、
どう考えているんだろう、
そんなこと考えた。

 

プロジェクト717日目。

 

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「再来週の日曜さ、
洋二郎が来るんだ」
僕は二次会、三次会を経た、
さすがにお開きになりそうな
同期たちとの飲み会の、
その帰り際に
彩花に言った。
きょとんとする彼女に、
僕は続けて、
「洋二郎、
就職長崎行っちゃったから、
たまに東京帰ってくるんだ」
洋二郎は
同じゼミのクラスメイトである以上に、
僕とは親友だった。
彼がたまに上京すると、
家に泊めたり、
近しい友人らで飲んだりしていた。

かといって、彩花にとっては、
それほど仲の良かったわけでもないし、
唐突だっただろう。
僕は、もうこれきり会えない気もして、
なにかきっかけが
ほしかったのかもしれない。

彩花はほんの少しだけ
考える仕草して、
すぐに大きく頷いて、
「え~、久しぶりだね、会いたいね」
そう答えてくれた。

終電が近づいている。
みなでがやがや騒ぎながら、
渋谷駅へと歩いている。
そういえば、この段になって、
僕は日中にだれか女友だちが、
誰かに話していた言葉を
思い出していた。

披露宴でだったか、
花嫁がひな壇で
話しているのを見ながら、
「次は、彩花だよね、」
そう言っていた。
それってどういう意味だろう、
僕は友人に紛れて歩く
彩花の背中を盗み見ながら、
そんなこと考えていた。
酔ってほてった頬に、
5月の夜の、涼しい風が、
ひたひたと心地よく流れていた。
 

プロジェクト716日目。


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彩花と僕は大学の同級だった。
しかし、学生の頃は
何10人もいる
同じゼミの仲間くらいの関係だった。
大学に通っていた頃は、
会話したのも
数えるくらいのものだった。

大学を卒業して、
もう5年も経っていた頃だろう。
同じゼミ仲間同士が結婚した。
その結婚式で、
僕は彩花と、卒業以来で再会した。

披露宴で久しぶりに再会したその瞬間に、
目を一瞬重ねて、
この人とは特別な関係も
あるかもしれないと思いもした。
彩花はふいを打たれたように、
口を丸くして、じっと僕を見つめ、
すぐに照れたように俯いた。
ただ、それだけのことだった。

僕ら大学の旧友たちはその日、
披露宴の後の2次会を経て、
渋谷に繰り出して、
終電近くまで飲んでいた。

カウンターで2人並んで
話す時間を持った。
社会人になって見違えたと、
本当はそんなこと口にしかけた。
しかし綺麗になったとか、
それは、
以前はそう思っていないとか、
意識していなかったとか、
そんな類の話も
野暮っぽいだろう、
僕は口を噤みがちになって、
お互いの近況を話したがる彼女に、
頷いたり、
言葉少なに自分のこと話した。

「会社のこと愚痴ったりして、
お互い大人なったねえ」
少し酔って、
頬を薄く赤らめた彩花は、
そのほっそりとした指で
細いカクテルグラスを弄びながら、
宙に目をやって言った。
「会社の愚痴言ったらおとな?」
「だってえ、想像できないじゃない、
学生の頃だったらないじゃない」
僕はそれを聞いて、
乾いた短い笑いの後で、
「そりゃそうでしょ、学生なんだから」
「でもお、あの頃そんな話しなかったから」
「そもそも、」
僕は息をひとつ吐いて、
「俺たち、あの頃だって
そんな話とかしてないし」
そう言ったら、会話が止まった。
店内の静かなBGMと、
仲間たちの静かな話し声が耳につく。
彩花はじっと僕を見つめたかと思うと、
「まあ、そうだね」
と口を少しとがらせて言った。
 

プロジェクト715日目。

 

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彩花は、一瞬ハッとした顔をして、
そのまま、俯いてしまった。
僕は乾いた声になって、
「中絶したってこと?」
彼女が何も答えないので、
続けて、
「いつ?それ、いつ?」
彩花は固く口を噤んだ。
僕は向かい合っていた
椅子から立ち上がり、
彼女に顔を近づけて、
「俺、そんなの聞いてない…」
彩花は首を何度も激しく振って、
「言ったよ、前に、付き合う前に」
「いや、」
僕はまたバタンと音を立てて
椅子に座る。
気が抜けたようになって、
「聞いてない、そんなの知らなかった」
「怒らないで」
僕の声は怒りを露わにしていた。
彩花はさえぎるように言った。
「俺、怒ってない、そういうんじゃない、
ただ、知らなかったよそんなこと」
「怒ってるよ」
「いや」
僕は力が入らない腰を
深く背もたれにもたげた。
「私だって…、後悔してる、
でも、あの時どうすることもできなかった、
あなただってそうでしょ、
あなただって、私が相談したら、
きっと中絶しろって言ったでしょ」
僕は彼女の懸命な
その言葉を聞いていて、
胸から熱湯が上がってくるような
感じを覚えた。
それは、
僕の知るところだったんだろうか、
彩花は、
そう言っている気がした。
「あの時って」
声が震えてしまった。
彩花はただ黙って、
涙をいっぱいためた強い目で、
こくりと頷いた。

僕の口元に、緩い痙攣がうまれ、
それから、声に出して、
「ふふふ」力なく笑って、
「岡崎さんでしょ?」
そう彼女に言った。
また彩花は、
さらに瞳に力を込め、
深く頷いた。
「ふふっ」
僕はまた抑えきれぬ笑い声を上げ、
「知らなかったよ、
まさかそんなことだったなんて」
「うそ…、私、全部言ったよ」
僕は彼女がそう言いかけてる途中から、
強く首を振って、
「いや、俺は何も知らなかった」

 

プロジェクト714日目。

 

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僕は動物たちがそうしたように、
ただ自然に
生きてきた気がしていた。
と、彼女の言葉を聞くまでは思っていた。
ところがどうだろう、
彼女の発言は、
その根底を
根本から疑わせる意味があった。
人間が叡知の元に
築き上げた文明だって、
そもそも人間が
自然に発展したと
言い表せるのかもしれない。
彼女が女性として、
ただただ子どもを求め、
それに文明が機会が与えること、
それだって、
自然だといえば自然な気もしてきた。
それじゃあ、非自然なんて、
この世にはないことになって、
自然の反意語は、
存在しないことになる。

「それじゃあ、自然にって、
一体どういうことなんだろう…」
僕は自問自答するように
思わず口にしていた。
「だから、私を否定しないで、
お願い…、」
彩花は僕が納得したと
捉えたんだろう、
言い諭すように言った。
僕はただ黙って、
白地が暗闇に変わっていく
グラデーションをおって、
天井に視線を投げかけた。
しばらく2人は、黙ったままだった。
かすかな鼻をすする音が、
彩花の泣いていた
余韻として残っていた。
数分して、彼女は、
「私、こうなっちゃったの、
ずっと後悔してる、
でも、こんなことになるなんて
あの時は、全然思ってなくて、」
何のことだろう、
僕は俯きがちに話す彩花の方を見た。
彩花は、ゆっくりと顔を上げて、
「やっぱり、子ども下ろしたら、
妊娠しづらいなんて、
そんな思わなくって」
唐突だった。僕の動悸が、
小刻みに早くなる。
「それ、どういうこと?」
おそるおそる、そう口にした。

 

プロジェクト713日目。

 

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「これは、誰のせいとかじゃなく、

自然の成せるもので、
俺が言いたいのは、そういうことで、」
僕は、多少言い訳がましく聞こえていても、
自分には
そうとしか思えないことを言った。
彼女は泣き止みそうになかった。
小さな嗚咽が、
薄暗い部屋に響いた。

「翔太のいう自然ってなに?」
「だから…、」
これは、
ただ堂々巡りになる会話のパターンだ。
僕は確たることを言っているつもりで、
それを理解する以前に、
理解しようと試みない彼女に
苛立ちを覚えていた。

「人間は自然に科学って言葉繋げて、
それで人工的なものを作ってきたんだ。
人間が勝手に作り出したもの、
それが非自然でしょ、だからさ、
自然的に恵まれなかったら、
それを何とかしようとしちゃ、
それは自然じゃない」
「どうして?」
彼女は鼻を啜りながら言った。
僕は深く息を吸って、
「この世に、自然にないことだからだよ」
「ほんとに?ほんとにそう?」
「ああ」
僕は少しイライラしている気分を隠さず、
投げやりな言い方で答えた。
彩花は、
「でも、全部この自然にあるものから
作ったんでしょ」
「まあそうだけど…、」
「お猿さんだって、
道具作ったりするでしょ?
あれも全部、人工的だってこと?」
「それは…、」

僕は言いよどんでしまった。
そんなこと考えたこともなかったから。
猿も確かに、蟻塚をほじるために、
棒切れを使ったりする。
それは、
きわめて自然なことに思えた。

「翔太の言う、
どこからが自然で、
どこからが不自然なの?」
その涙声を聞いて、
僕は思いあぐねて
かすかに顔を落とした。
さらに彩花は、
「私が、私がね、赤ちゃん欲しいって気持ち、
これは自然なことじゃないの?」
涙に濡れたその声に、
僕の胸がぐっと締め付けられた。
確かに、そうだとも思えたから。

 

プロジェクト712日目。

 

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その話は前にもしたことがあった。
その時にも、僕は拒んだのに、
彼女がまた同じ話を持ち出すことに、
多少の驚きがあった。
「俺、絶対やだって、
前も言ったじゃない」
「でも…、どうしてなの?
翔太だって子どもほしいなら、」
「そういう問題じゃない、
子どもがほしいからそうしましょ、て、
そんなんじゃないでしょ」
彼女にどう伝えればいいんだろうか、
僕は少し考えてから、
「自然じゃないんだよ、人工的っていうか、」
「そんなことないよ、最近はね、
不妊治療に国から援助だってでるんだよ、
みんな、それが普通になってるから」
「違うでしょ!」
僕は少し興奮した口調になって、
「国が援助するから?
みんなが普通に思うから?
それが自然なことなんてなんないよ全然」
「どうして、みんなやってるのに」
「あのね、」
彼女に、僕の何をわからせようとするのか、
僕にも、分からなくなっていた。
これは、思想に違いない。
個別的な、僕の思想に違いない。

2020年の現在、
デンマークにある世界最大の精子バンクの、
日本人利用者は
150人いるという。
第三者の卵子、精子を、
150組が利用したということだ。
親子関係を明確化するために、
法整備も進んでいる。
民法の特例法案が参院で審議入りしている。

しかしそんなこと、
僕には遠く縁のない話だ。
いや、縁のない話でありたいと、
切に思っている。

下唇を強く噛んで、
じっと見つめている彩花を見ながら、
僕は、
「俺はね、もし俺たちが、
そういう、なんというか、子どもが出来ない
身体的なものを持っていたとしたら、
それはそれで、構わないんじゃないかって、
そう思ってる」
「うそ!」
彩花は叫んだ。そして、
「翔太は、ほんとは子ども欲しくないからでしょ!」
「違うよ、どっちでもいいんだよ、
自然に任せて、ないならないし、
あるならあるがいい、
ただそう思うから…、」
「いやだよわたし」
彩花の頬を大粒の涙が、
1つ、2つと落ちていった。

 

プロジェクト711日目。

 

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心を見透かされた気がした。
僕には、確かに、
彼女が抱く想念の、
その深い意味なんて、
わかろうはずがなかったから。
それでも僕は、
「わかるって、」
そう繰り返して、
「俺だって、今日はずっと考えてたんだ、
子どもが出来たら、どんな子なんだろうとか、
俺が親になるってことは、
一体どんな気分なんだろうとか、
本当に大丈夫なんだろうかって考えたら、
急に自分は、
まだまだ子どもなんじゃないかなんて、
そんなふうに思っちゃったりして、
親になる、そういう自覚っていうか、
心構えみたいなこと、
自分に問いかけたりしちゃって、」
半分本当で、半分は、でたらめだった。
だけど、ダメなんだろう、わかっている。
男は自分の身に命を宿す女ほどには、
それを実感として受け止めることなんて
しょせんできやしない。
腹なんだ、このお腹の中に、
自分とは違う別の生命体が生きているなんて、
どうして想像できるだろうか。
「ねえ!」
彼女はそう言って、
とりとめなく喋っていた僕をさえぎると、
「そういうんじゃなくて、翔太は、
本当に子どもが欲しいって思ってない、」
「そんなことないよ」
僕は立ち上がりかけた。
しかし彩花は、
それを手で制すように振って、
「わたし、聞いたことあるの、
お互いが欲しいって思ってる、その気持ちが、
子どもに繋がるんだって」
「そんな馬鹿なこと…、」
僕は諦めたように
また椅子に腰を落とす。
「お互いだよ、それがないと」
「じゃあなんでだよ、子だくさんのやつ、
テレビでよくやってんじゃん、あれって、
欲しくなくても出来てんじゃないの」
「なんで翔太にそんなことわかるの?」
「…」
確かに、それはわからないけれど、
僕は黙った。
「ねえ、ほんとに、
あなたも欲しいって思ってる?
わたしね、それを聞きたい」
「ああ」
なぜだろう、強い返事が出来なかった。
「じゃあ、ちゃんと協力してほしい」
僕は、口元に皮肉な笑みを浮かべて、
「コロナになるリスクあっても、
ばんばんセックスしようってこと?」
彩花はさっと身を乗り出す。
平手が、僕の頬を目がけて飛んでくる。
僕はそれを避けもせず
彼女の手のひらを受けた。
パチンと小気味いい音がする。
「真面目に聞いてよ!」
「聞いてるよ」
頬を打たれた感触は、すうっと消えて行った。
「協力して、ね、お願い」
「…」
「不妊治療ね、わたしやっぱり、受けたい」
僕はしばらく黙った後、
「それはいやだ」
そう答えた。
 

プロジェクト710日目。

 

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「帰ってたんだ?どしたのさ、
真っ暗にしてえ、ご飯食べたの?」
僕はそれで、
全てを悟った気がした。
だから、つとめて平静な感じで言った。
彩花は照明に
眩しそうな目を上げた。
泣いているわけではなさそうだったけれど、
思いつめて、考え込んでいた余韻が、
表情には充満していた。
「ご飯、食べてないよ、忘れてた…、」
「そっか、なんか食べいく?」
僕は微笑を浮かべながら、
彼女の向かいに座る。
「翔太も、忘れてたの?」
そう言いながら、見る見る彼女の瞼に、
涙が溢れてくる。
僕は笑い声を上げて、
「ふふっ、俺も忘れてたよ、」
本当に、晩飯のことなんて頭になくて、
彩花から連絡がないことが、
ずっと気になっていた。
「わたし、お腹空いてない…、」
「そう…、あそこの中華あるじゃん、
今塩タンタンメンやってるよ、
えび塩、みたいなやつ
期間限定だから、寒いしあったまるよ」
「そう…、」
別に食べたくなさそうな答え。

僕は少し空腹を覚えたけれど、
そのまま黙った。
沈黙の時間が、1秒ごとに、
僕らの胸を圧迫するようだった。

口の中が乾いてくる。
僕は唾の鳴る音をたてて、
「具合、大丈夫だった?」
やっと、そう口にした。
彼女はこくりとうなずき、
「全然、大丈夫。健康そのもの、
ちょっと胃腸こわしただけって」
とうとう、彩花の瞼で
今にも零れ落ちそうだった雫が、
その丸みを帯びた頬を伝っていった。
僕は呻くように、
「ごめん」と口にした。
「どうして謝るの?」
「いや、」
何かから逃れるみたいに、
喘ぐように天井を見上げ、
「変なこと聞いちゃったから」
「変なこと?」
「いや」
首を大きく横に振った。
子どもが出来なかったことじゃない、
なぜ、彼女がこんなにも悲嘆にくれるのか、
それが悲しくて、
僕の目にも、
伝播するような潤みがあった。
それを辛うじて抑えながら、
僕は、
「また、機会あるからね、
そう焦らなくても」
「翔太に、わかるの?」
「なにが?」
「わたしの、この気持ちが…」
僕は彩花の、
潤んで、照明に照らされきらきらしている
大きな瞳をのぞきこんだ。
何を、わかるというんだろう、
それでも僕は、
「わかるよ」
と答えた。
少しの間のあと、彩花は、
「あなたには、なにもわからないと思う」
そう口にした。

 

 

プロジェクト709日目。

 

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