ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

最近、天候が荒れることが多いですが、

皆さんの地域は大丈夫ですか。

 

私は金曜日の帰宅時、

大雨の影響で

いつもの路線が不通になってしまい、

激混みの中、

何とか遠回りして帰宅しました(^^;

 

臨床心理士・公認心理士、

カウンセラー東畑開人さんの、

 

なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない

 

 

から、

私の印象に残った箇所を中心に、

紹介・解説しています(^^)

 

この本の帯には、

「読むセラピー」

というキャッチコピーが

大きくうたわれています。

 

セラピーというだけあって、

文体は、とても読みやすいのですが、

内容は、かなり歯ごたえのある

深~いエッセーといった感じです。

 

エッセーといっても、

中身の半分くらいは、

「ミキ」と「タツヤ」

を中心とした物語で、

占められています。

 

ミキは、

外資系コンサル企業の

管理職として活躍する、

いわばエリート。

 

人生の嵐の中を、

小舟でサバイブしてきた彼女。

 

不眠症に悩み、

カウンセリングの門をたたきます。

 

カウンセリングを重ね、

やがて、ミキは、

タツヤと出会うことになり、

しだいに親密になっていきます。

 

しかし、

ミキの裏切り行為が発覚し・・・

(それにはもっともな理由が

あるのですが)

 

・・・ネタバレになるので、

これ以上は止めておきます(^^;

 

このあとの、

2人の揺れ動く関係と、

カウンセリングの展開が、

とてもリアルに描かれています。

 

もちろん、

そう簡単に順風満帆とはいかず、

山あり谷ありの展開になるのですが・・・

 

物語の後半、

タツヤの側の心境、

引用します。

 

 

おお、人間を信じるとは

なんと困難なことなのでしょうか。

 

まして

一度壊れてしまった関係を

信じ直すことが

いかに大変なことか。

 

無限の力をもつ神を

信じるよりも、

有限の人間を信じる方が

ずっと難しい。

 

現実のこんがらがった

人間関係は、

映画やドラマの

人間関係のようには

解決されません。

 

あるのは地味な

時間の流れだけです。

 

 

そうですね。

こじれた人間関係は、

簡単に解決されるものでは

ありません。

 

 

しかし、

それこそが

人間を信じるための

唯一の力になります。

 

納得いかないこと、

矛盾に満ちていること、

絶対に許すことができないこと。

 

つまり

論理的思考では

答えの出ないことを、

時間がゆっくりと

溶かしてくれる。

 

 

たしかに、

時間がゆっくりと溶かしてくれることは、

ある・・・

 

 

不毛に見える時間は、

タツヤさんの心の奥底で

ひそかに地道な作業を

続けてくれていました。

 

変化は見えないほどに

ゆっくりと起こっていた。

 

時間をかける。

 

難しいものを

心に抱え続ける。

 

すると、ある日、

それがストンと落ちる。

 

白と黒が混ざり、

灰色になる。

 

そのとき、

タツヤさんの心に、

以前とは違う視界が

広がります。

 

不純なネガティブが

姿を現す。

 

 

時間をかけて

難しいものを抱え続けると、

ストンと落ちる。

 

白と黒が混ざり、

灰色になる。

 

不純なネガティブとは。

 

これは、

白か黒か、といった

極端な分離思考、

 

たとえば、

人を、善と悪の

いずれかに決めつけるのではなく、

 

人には、

正しい部分もあれば、悪い部分もある、

見方によっては、逆になることもある、

 

つまり、どちらか純粋なものではなく、

人は不純、すなわち灰色の存在だと

いうことですね。

 

私は、過去、

どちらかといえば、

灰色のまま抱えていることは

優柔不断で、弱い人のやること、

 

白か黒かはっきりさせることは、

決断力があって男らしく、強い証拠、

 

だと考えていた時期もありましたが、

実はそうではないんですね(^^;

 

灰色のまま抱え続けることは、

心が成熟していて、

心の器がしっかりしていないとできない。

 

言い方を変えれば、

灰色のまま抱え続けることがつらいから、

早く白黒はっきりつけたがるんですね(^^;

 

もちろん、

現実には(特にビジネスの世界などでは)

白黒はっきり決断してから、

先に進まなければならない時もありますが、

 

心の成熟度という観点で見ると、

灰色を抱えられるということは、

成熟しているということなんです。

 

灰色を抱えられる

しっかりとした心の器を作る一助となるのが、

カウンセリングなのだと考えます。

 

 

悲しむことを通じて、

タツヤさんは

理想的なミキさんを諦め、

 

最悪のミキさんから離れ、

現実のミキさんを

発見することができました。

 

消化不良を起こしていた

白と黒を、

悲しみが灰色へと

溶かしてくれたのです。

 

そういうとき、

世界は複雑さを取り戻します。

 

現実は本当のところ、灰色です。

 

白と黒が入り混じった

曖昧な色彩こそが

世界の本格的なありようだと

思うのです。

 

 

同感です・・・

 

 

だから、

悲しむことができたとき、

 

僕らの心は

以前よりも少しだけ、

広く、深くなる。

 

心に複雑なものを

置いておけるだけの

スペースができる。

 

これを僕は

「ネガティブな幸せ」

と呼びたい。

 

 

そうですね・・・

 

人生、喜びもあれば悲しみもある、

 

言い換えれば、

悲しみがあるからこそ、

喜びを感じられるわけであって、

 

仮に、この世界に喜びしかなければ、

それを喜びだと実感することが

できませんし、

 

悲しみという、

世界の半分を味わうことも

できなくなってしまいます。

 

この人生で、悲しみという感情も

十分に味わえるように、

 

広く、深い、

心の器を作っていきたい・・・

 

 

もちろん、

それはつらい時期です。

 

悲しみは気持ちのいいものではなく、

心を落ち込ませます。

 

でも、そういう時間がなければ、

僕らの心はシンプルで、

狭く、浅いままに

とどまってしまう。

 

目の前の複雑な現実と

触れ合えないままに、

白と黒しか存在しない

自分だけの世界に

閉じこもるならば、

世界は貧しくなってしまう。

 

悲しみには豊かさがある。

 

そこには世界の複雑さと、

他者の複雑さと、

自分の複雑さのための余白がある。

 

そういうものを実感できたとき、

僕らはネガティブなことが

起こり続ける人生というものを、

それでも生きるに足るものだと

思える。

 

それを世間では

「大人になる」というのでしょう。

 

 

世界は、白もあれば黒もある

灰色のグラデーション、

複雑な存在です。

 

複雑なのは、

他者もそうだし、自分だってそう。

 

自分の中には、複雑な自分、

すなわち、

立派な自分もいれば、ダメな自分もいれば、

真面目な自分もいれば、アホな自分もいる。

 

「いい奴」の自分、「やな奴」の自分、

理性的な自分、感情的な自分、

努力家な自分、だらしない自分、

優しい自分、意地悪な自分、

腹黒い自分、打算的な自分、

ポジティブな自分、ネガティブな自分・・・

 

そんな複雑な自分を

そのまま受け容れることができたら、

豊かな人生を歩めるだろうし、

 

ひいては、複雑な他者の存在も、

受け容れることができるようになる。

 

それが、

「大人になる」ということ。

 

なかなか険しい道のりですが(^^;

 

(次回に続きます・・・)

 

 

 

*******************************************

 

 

今回も最後までお読みくださいまして、

有難うございました。

 

次回もこの本の紹介を続けます(^^;

 

 

*******************************************

 

 

おまけ写真集(^^;

 

少し前にになりますが、

(8月下旬)

念願の南八ヶ岳、

編笠山、権現岳に登りました!

 

 

 

いざ!

 

 

 

途中で、富士山ちらっと、

今日の天気は史上最高かも!

 

 

 

巨石を超えて・・・

 

 

はしごを乗り越えて・・・

 

 

ううっ、ここ登らせるか!

 

 

 

振り向くと、おおっ!

 

 

 

もう少しで頂上・・・

 

 

 

着きました!編笠山2,524m

(親切な方が写真撮ってくださいました)

 

 

富士山バック!

 

 

 

南アルプスの、

北岳や甲斐駒ヶ岳もばっちり!

 

 

 

八ヶ岳最高峰、赤岳・・・

 

 

 

富士山アップ!

 

 

 

 

 

それにしても、みごとな快晴!

 

しばらく頂上貸し切り状態、満喫・・・

ああ、ありがたや😊

 

 

 

青年小屋方面に向かいます。

すごい岩場(^^;

 

 

 

遠い飲み屋?(笑)

 

 

 

まだまだこれから・・・

 

 

振り返ると、

青年小屋と、

さっき登った編笠山!

 

 

 

よし、いざ権現岳へ!

 

(次回に続きます(^^;)

 

 

ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

まだまだ猛暑が続いております・・・💦

皆さまどうぞご自愛くださいね。

 

今回紹介する本は、

臨床心理士・公認心理士、

カウンセラー東畑開人さんの、

 

なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない

 

 

東畑開人さんは、

何というか、

とても味のある文章を書かれる方で、

著書も何冊かあり、

ベストセラーになっています!

 

この本の帯には、

現代の「こころの処方箋」

と書かれていますが、

 

河合隼雄さんの名著、

「こころの処方箋」

 

(過去ブログで紹介しました。

よかったらご参照ください)

 

が書かれた時とは、

時代背景も違います。

 

もちろん、

「こころ」には時代に左右されない

普遍的な部分もありますが、

やはり、

多かれ少なかれ

その時代の影響を受けるわけであって、

 

そういう意味で、

東畑開人氏の著作は、

時代性を感じるといいますか、

今の時代をしっかりと直視したものが

多いような気がします。

(だから、支持されているのかと)

 

で、この、

なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない

は、文庫化された本なのですが、

 

私たちの存在は、

まるで人生の大海原に放り出された

「小舟」のようだといいます。

 

 

「社会の小舟化」

が進んだということです。

 

かつては違いました。

 

僕らは大船に乗り合わせて、

みんなと一緒に航海していました。

 

「部族」とか「親族」とか

「村落」とか「会社」とか、

 

時代時代で

大船の形は違うにせよ、

 

人類はその乗組員になるよう

プログラムされている

動物なのだと思います。

 

実際、僕らの祖先であるサルたちは

群れで生活していたわけですしね。

 

窮屈なこともあったでしょうし、

不自由なこともあったでしょう。

 

だけど、

何か事故が起きたときには

リスクと責任を

みんなでシェアしてきました。

 

大船とは、

脆弱な個人をフォローし、

助け合う仕組みであったわけです。

 

 

そうですね・・・

 

昭和の高度経済成長期から、

バブル崩壊くらいまでの時期は、

特にそうだったようですね。

 

しがらみこそ多かったと思いますが、

護送船団方式で、

大企業に入れば

まずは人生安泰といった感じで(^^;

 

たとえば、

会社で社員旅行は当たり前だったし、

社員運動会までやったりして、

ずいぶん家族的だったと聞きます。

 

 

時代を経る中で、

人々は少しずつ大船を離れて、

小舟で航海するように

なっていきました。

 

最初に小舟になることを

望んだのは、

大船の窮屈さから逃れたい

少数の人たちだけでした。

 

自由になりたい。

そう望み、

そうやって生きることに

チャレンジした人がいたのです。

 

その流れは

多くの人を巻き込んでいきました。

 

今では望むと望まざるとに

かかわらず、

誰もが小舟で

社会に放り出されるように

なってしまった。

 

 

これは鋭い洞察だと思います。

 

最初に「小舟」になることを望んだのは

チャレンジングな

一部の人たちだったんですね。

 

それがいつのまにか、

大きな流れになり、

望む望まないに関わらず、

「小舟」になることが当たり前の

社会になってしまった。

 

「小舟」という名の「孤独」社会。

 

 

小舟は危険です。

 

小さな波や

ちょっとした風で、

船体はぐらつき、

ひどいときには

転覆してしまいます。

 

舵取りを少し間違えただけで、

取りかえしのつかないところにまで

流されてしまう。

 

なにより危険なのは、

そうやってしまったときの

リスクと責任を、

全部自分で負わないと

いけないことです。

 

危険も、損失も、

誰も肩代わりできません。

 

小舟で航海する以上は、

外界にセンサーを張り巡らし、

リスクを把握して、

それらをひとつずつ

回避していく必要がある。

 

 

そうですね・・・

 

たしかに、今の私たちは、

リスクを把握して回避することに

かなりのエネルギーを

使っているような気がします。

 

どこか不安で、

脅えているような・・・

 

「小舟化」

は特に働く世界で顕著です。

 

 

ここ数年

トレンドになっていたのは、

起業・副業・転職でした。

 

大船を降りて

自分の小舟だけで生きていくのが起業で、

 

大舟に乗りながら

小舟も同時に走らせるのが副業、

 

大舟と大舟の間を

小舟で渡ってくのが転職です。

 

いかに小舟でサバイブするか。

それがみんなの関心ごとに

なったわけです。

 

すると、

「愛すること」は

小舟化する「働くこと」に

飲み込まれてしまいがちになる。

 

サバイブすることに

必死になると、

すべての時間を

「働くこと」のために

使うようになるからです。

 

 

なるほど・・・

 

ここでいう

「愛すること」とは、

他者を「敵ではない」と感じられること、

他者が「安全である」と信じられること

を指します。

 

サバイバルな世界、

生き残ることに必死だと、

つい、

他者は敵である、安全を脅かす存在だと

感じてしまいますね・・・

 

 

趣味は自己投資の時間になり、

 

誰かと食事を楽しむはずの時間は

仕事のための人脈を広げるための

時間に、

 

学校は自分の

商品価値を上げるための場所になり、

 

結婚は商取引のようになる。

 

これまでビジネスとは無縁だった

領域まで、

ビジネスの言葉で語られるようになる。

 

大舟に乗っていたころには

存在していた

「働くこと」のオンとオフが

消えてしまう。

 

僕らはありとあらゆる

プライベートなことまで、

すべて仕事に役立つか否かで

考えるようになっている。

 

 

そうですね・・・

 

確かに今の時代、

社会全体がビジネス化しているようにも

感じます。

 

 

それだけじゃない。

 

「働くこと」そのものの意味が

変化してしまったのも

見逃せません。

 

「働くこと」は本来、

お金にならない「する」も含めた

ものであったのに、

 

今ではお金と結びつかないものは

無価値なものに見えてくる。

 

 

家事労働や、家族のケア、

自治会の活動などがそうでしょうか、

 

それらのお金に結び付かないものが、

無価値に思えてくる。

 

私の中にも、

「コスパ」「タイパ」

を意識する自分がいるのは事実であって・・・

 

ちょっと耳が痛い(^^;

 

 

「それで食っていけるの?」

 

他者からも自分からも

そんなツッコミが

入ってしまうくらいに、

 

「働くこと」の意味は

貧しくなってしまいました。

 

「愛すること」は

飲み込まれやすく、

 

「働くこと」は

お金とばかり結びつきやすい。

 

僕らは今、

人生がシンプルになりやすい

社会で生きている。

 

 

そうですね・・・

 

私たちが豊かに人生を歩むには、

もちろん、

一定の経済的な豊かさが必要です。

 

そういう意味では、

まずは、失われた30年を取り戻す、

景気を良くすることは大切だと思いますが、

 

しかし、一方で、

それだけでいいのかという気もします。

 

「愛すること」

すなわち、

他者は敵ではなく、

安全な存在であると思えること、

 

それが実感できるためには、

ひたすら働いて

金を稼がなければ生きていけないという

サバイバルな世界だけではなく、

 

やはり、

「安心」「安全」を感じられる場というものが

必要になってくるのだと思います。

 

そのひとつとして、

カウンセラーという存在が

あるのではないかと・・・

 

・・・次回に続きますね(^^;

 

 

 

**********************************************

 

 

 

今回も最後までお読みくださいまして、

有り難うございました😊

 

次回もこの本の紹介を続けます(^^;

 

 

 

**********************************************

 

 

 

おまけ写真集(^^;

 

翌日の南八ヶ岳登山の前に、

甲斐の国ぶらり旅・・・

 

 

武田氏ゆかりの、

武田八幡宮。

 

 

 

趣のある門です。

 

 

 

四つ菱は、

甲斐源氏武田氏の家紋ですね。

 

 

 

美しい本殿でした・・・

重要文化財。

 

静かで趣のある神社でした。

 

 

 

こちらは新府城跡。

 

汗だくになりながら

長~い階段を登ると・・・

 

 

 

神社がありました!

 

 

 

本丸跡・・・

 

 

 

未完成だったようですが、

かなりの規模だったようです。

 

ここでは織田の大軍を支えきれないと考えた

武田勝頼は、この城を捨てますが、

 

その先には家臣の裏切りもあり・・・

 

 

 

明日登る八ヶ岳(?)が見えます(^^)

 

 

 

東出構の跡、

しっかり残っていました!

 

 

 

こちらは、

小淵沢の大滝神社。

 

 

 

湧き水がすごい勢いで!

(冷たくておいしかったです)

 

 

 

白蛇伝説。

ほんとにいたそうです!

 

 

 

おおっ、白蛇の抜け殻!

(本物)

 

湧き水パワーをいただけた神社でした(^^)

 

道の駅で車中泊して

明日はいよいよ、南八ヶ岳へ!

 

 

 

ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

中村哲さんの自伝、

 

天、共に在り アフガニスタン三十年の闘い

 

 

を紹介・解説しています(^^)

 

中村哲氏は、

もともとは医師として

アフガニスタンに赴き、

ハンセン病の治療などに

従事されていたのですが、

 

干ばつの進む中、

診療所を訪れる人の多くの病気が、

十分な食料、清潔な水があれば

防げることに気づきます。

 

そこで、

砂漠地帯に井戸を掘り、

灌漑用水路の開拓に

取り組むようになるのですが、

 

土木工事の技術者としては素人ですので、

苦労の連続です。

 

しかし、

現地の人々や日本人の青年たちと

試行錯誤をしつつも、

井戸は1,600か所、

灌漑用水路は25Kmを超えるものが

完成します(^^)

 

 

小高い丘から望むと、

砂漠に囲まれる緑の人里は、

壮大な天・地・人の構図だ。

 

厚い砂防林の森が、

砂漠と人里とを、

くっきりと分けている。

 

苛酷な自然の中で、

人間は身を寄せ合って

生きている。

 

生殺与奪の権を持つ

大自然の前に、

つつましく生命を営む様子に、

 

改めて

「天、共に在り」

という実感と、

安堵を覚えるのである。

 

自然は喋らないが、

人を欺かない。

 

高く仰ぐ天が、

常にあることを実感させる。

 

絶望的な人の世とは無関係に、

与えられた豊かな恵みが

在ることを知らせる。

 

 

本書には、実際、

用水路ができる前と後の写真が

掲載されていますが、

 

砂漠が緑の大地に

劇的に変わっているさまが

一目瞭然です!

 

ちなみに、興味深いのは、

用水路の取水堰には、

氏の地元の筑後川(朝倉市)で

江戸時代に作られた

山田堰(斜め堰)の技術が

使われていることです。

 

江戸時代の治水技術の高さを

物語るとともに、

素人ながらも、そこに目を付けた

中村哲氏の眼力はスゴイですね!

 

必死の思いがあったからこそ、

そのアイデアを導き出せたのだと思います。

 

では、なぜ、

専門家ではない中村哲氏が、

国家予算規模の治水工事を

完遂することができたのか。

 

もちろん、

多大な寄付金が集まったことや、

日本の専門家や技術者の

知恵を借りたこともあると思いますが、

 

やはり、

内戦、空爆、テロの続く中でも、

現地の人たちと、

現場で泥まみれになりながら

一緒に汗を流したからだと考えます。

 

 

現地三十年の体験を通じて

言えることは、

 

私たちが己の分限を知り、

誠実である限り、

天の恵みと人のまごころは

信頼に足るということです。

 

 

机上論者ではなく、

実践の人であった中村哲さんの発言は、

説得力があるというか、

重みがありますね(^^)

 

本書の最終章は、

「日本の人々へ」

というメッセージです。

 

考えさせられるメッセージですが、

その一部を引用します。

 

 

今、周囲を見渡せば、

手軽に不安を忘れさせる

享楽の手段や、

大小の「権威ある声」

に事欠かない。

 

私たちは過去、

易々とその餌食に

なってきたのである。

 

このことは

洋の東西変わらない。

 

一見勇ましい

「戦争も辞さず」

という論調や、

国際社会の暴力化も、

その一つである。

 

経済的利権を求めて

和を損ない、

「非民主的で遅れた国家」

や寸土の領有に目を吊り上げ、

不況を回復すれば

幸せが訪れると信ずるのは

愚かである。

 

人の幸せは別次元にある。

 

人間にとって

本当に必要なものは、

そう多くはない。

 

少なくとも私は

「カネさえあれば何でもできて

幸せになる」という迷信、

 

「武力さえあれば

身が守られる」

という妄信から自由である。

 

何が真実で何が不要か、

何が人として

最低限共有できるものなのか、

 

目を凝らして見つめ、

健全な感性と自然との関係を

回復することである。

 

 

この本の初版は、

2013年ですので、

もう10年以上前のメッセージですが、

 

今の時代の私たちが

問われているような気がします。

 

 

「天、共に在り」

 

本書を貫くこの縦糸は、

我々を根底から支える

不動の事実である。

 

やがて、

自然から遊離する

バベルの塔は倒れる。

 

人も自然の一部である。

 

それは人間内部にもあって

生命の営みを律する

厳然たる摂理であり、

恵みである。

 

科学や経済、

医学や農業、

あらゆる人の営みが、

 

自然と人、

人と人との和解を探る以外、

我々が生き延びる道は

ないだろう。

 

それがまっとうな文明だと

信じている。

 

その声は今小さくとも、

やがて現在が裁かれ、

大きな潮流とならざるを

得ないだろう。

 

これが、

三十年間の現地活動を通じて得た

平凡な結論とメッセージである。

 

 

実際、

アフガニスタンの大干ばつ、

砂漠化の進行は、

地球温暖化の影響が否めないといいます。

 

今の日本の異常気象もご多分に漏れず。

 

紛争が続く世界情勢しかり。

 

自然と人、

人と人との和解を探る以外、

我々が生き延びる道はないというのは

その通りだと思います。

 

 

いま、きな臭い世界情勢、

一見勇ましい論調が横行し、

軍事力行使をも

容認しかねない風潮を

眺めるにつけ、

言葉を失う。

 

平和を願う声も

かすれがちである。

 

しかし、

アフガニスタンの実体験において、

確信できることがある。

 

無力によってこの身が

守られたことはなかった。

 

防備は必ずしも

武器によらない。

 

1992年、

ダラエヌール診察所が

襲撃されたとき、

 

「死んでも撃ち返すな」と、

報復の応戦を引き止めたことで

信頼の絆を得、

後々まで私たちと事業を守った。

 

戦場に身をさらした兵士なら、

発砲しない方が

勇気の要ることを知っている。

 

 

そうですね。

 

あらゆる争いは、

正義と正義との戦い。

 

やり返せば、

報復の連鎖が続くわけです。

 

もっとも、

中村哲氏は、現実には、

凶弾に倒れてしまったわけで・・・

 

やはり、

最低限の武力による防備は

必要だったのではないか、

 

・・・実際、

そうかもしれません。

 

しかし、

中村哲氏が30年以上に渡って

アフガニスタンの人々から信頼を得て、

偉大な治水工事を完遂できた最大の要因は、

 

力に頼らなかったからだと思います。

 

 

「信頼」は

一朝にして築かれるものではない。

 

利害を超え、

忍耐を重ね、

裏切られても

裏切り返さない誠実さこそが、

人々の心に触れる。

 

それは、

武力以上に強固な安全を

提供してくれ、

人々を動かすことができる。

 

 

この本を執筆した3年後の2019年、

中村哲氏は車で移動中に襲撃され、

亡くなります。

 

亡くなりましたが、

彼の「生き様」は、

 

影響を受けた内村鑑三氏の

「後世への最大遺物」として、

 

アフガニスタンの人々や、

日本人の心の中に生き続け、

 

そして、

永遠に語り継がれると思います。

 

 

 

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以上、

中村哲さんの自伝、

 

天、共に在り アフガニスタン三十年の闘い

 

 

私の印象に残った箇所を

2回にわたって紹介してきました。

 

氏のような生き方は、

私には、とてもできないのですが、

 

同時代の日本人に、

このような人が実在したという事実は、

 

「人間捨てたもんじゃない」

という思いを呼び起こさせます。

 

ご一読をおすすめします😊

 

ちなみに、

アマゾンプライムで、

中村哲さんを描いた

ドキュメンタリーが公開されています。

 

良心の実弾 医師・中村哲が遺したもの

 

48分のドキュメンタリー番組。

こちらも、おすすめします!

 

 

 

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今回も最後までお読みくださいまして、

有り難うございました(^^)

 

次回は別の本を紹介する予定です(^^;

 

 

 

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おまけ写真集(^^;

 

 

ヤビツ峠から、

さくっと大山登山。

 

 

 

ううっ、

ちょっと曇り気味ですが(^^;

 

真夏は登りで汗だくになるせいか、

意外と空いてました。

 

 

 

山頂は、標高1,200mを越えているので

下界よりも-10℃!

 

そんなに暑くなかったです(^^)

 

 

 

山頂の神社の中?に、

鹿がいましたよ!

 

 

 

三の塔や塔ノ岳方面を臨む・・・

 

気持ちいい~(^^)

 

 

 

亡き父の墓参りの際に、

近くの武蔵陵墓地に立ち寄りました。

 

昭和天皇の武蔵野陵。

 

パワースポットといわれるだけあって、

神聖な雰囲気でした・・・

 

 

 

そして、八王子城跡、

本丸を攻略!

 

 

 

30分くらいの

汗だく💦登山のあと・・・

 

山頂付近の八王子神社が見えてきました!

 

 

 

本丸跡・・・

 

 

 

ぐるっと山歩きした後、

御主殿跡の広場に。

 

礎石がけっこう残っています。

 

 

 

なかなか立派な虎口。

 

 

 

多くは復元とはいえ、

関東では珍しく、

石垣に迫力のある戦国時代の山城です!

 

私は遠藤周作さんの影響もあり、

山城を味わうようになりました(^^)

 

当時の人たちは、

どんな様子だったのか・・・

 

妄想を膨らませます。

 

八王子城跡。

山城好きな人におすすめです😊

 

 

 

 

ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

地域によって不安定な天候が続いています。

どうか被害が拡大しませんように・・・

 

今回、紹介させていただく本は、

中村哲さんの自伝、

 

天、共に在り アフガニスタン三十年の闘い

 

 

中村哲さんといえば、

アフガニスタンの人々のために

生涯を捧げた方。

 

2019年12月に

凶弾に倒れたというニュースは、

まだ記憶に新しい気がしますが、

 

私は以前から、

中村哲さんの生き方には興味があり、

一度、自伝を拝読したいと思っていました。

 

その中村哲氏。

井戸を掘ったり、

用水路を開拓したことが有名ですが、

実は、医師なんですね。

 

もともとは医師として

アフガニスタンに赴き、

ハンセン病の治療などに

従事されていたのですが、

 

診療所を訪れる人の多くの病気が、

十分な食料、清潔な水があれば

防げることに気づきます。

 

そこで、

井戸を掘り、用水路の開拓に

取り組むようになるのですが・・・

 

内戦、空爆、テロが続き、

さらには、

大干ばつも進むアフガニスタンの地。

 

常に命の危険にさらされている中で、

30年以上もアフガニスタンのために

力を尽くされた。

 

その原動力とは、いったい何なのか。

 

興味深く読み進めました。

 

中村哲氏は、

1946年福岡県生まれ。

 

少年期は「昆虫」が大好きで、

ファーブル昆虫記を読み、

将来は農学部の昆虫学科に

進みたいと考えていましたが、

 

西南学院中等部時代に、

キリスト教に出会い、

内村鑑三氏の「後世への最大遺物」

に感化されて、

九州大学医学部に進みます。

 

精神科医ビクトール・フランクル

の影響もあり、

卒業後は佐賀県の療養所の

精神科に勤務します。

 

そこでの

「生きる意味」

にまつわるエピソードが、

なかなか興味深いです(^^)

 

引用します。

 

 

ある時、

受け持ちの統合失調症の患者が

自殺しようとして止めたとき、

患者から尋ねられた。

 

「生きることの意味感が

ないのです。

先生はなぜ生きているのですか」

という。

 

だが、

改めて問われると、

自分もよく分からない。

 

「仕事や昆虫の興味で」

というのも

まともな答えにならないし、

 

「与えられた生命の意義」

を説くほど宗教的でもない。

 

結局、

その時々の状況の中で、

義理や人情に流されながら

生きているだけで、

 

確たる信念を

貫いているわけではない。

 

 

「義理や人情に流されながら

生きているだけ」

 

何とも、正直というか、

謙虚というか(^^)

 

でも、考えてみたら、

私も含めて、

多くの人はそうかもしれません(^^;

 

 

このとき悟ったのは、

「自分」や「個人」

という実態が

あやふやなものだと

いうことである。

 

ヒトという生物個体としての

自分はあるが、

精神生活においては

「自分」や「自我」

というものが、

甚だつかみ所がない。

 

「人間とは関係である」

という難解なことばを

理解したような気がした。

 

哲学者で精神科医の

ヤスパースは明快に述べている。

 

「一人で成り立つ自分はない。

自分を見つめるだけの人間は滅ぶ。

 

他者との関係において

自分が成り立っている」

 

 

そうですね・・・

 

自分を見つめることは

とても大切なことだと思いますが、

それだけだと、

たしかに、

行き詰ってしまうことがあります。

 

自分というものは、

やっぱり、

他者との関係で試行錯誤する中で

見えてくる部分があると思います。

 

 

それ以上の細かい議論は

よく分からないが、

少なくとも

臨床医としての立場に立つとき、

 

「意味は人間に隠されている。

その隠された意味を

人間が無理に意識しようとすれば、

それは人為の造花になって

虚構から免れない。

 

不安は意識されることによって

現実化する。

 

悩む者に必要なのは、

因果関係の分析で

無意識を意識化することではなく、

意識を無意識の豊かな世界に

戻すことである」

 

と、フランクルは

近代的な精神分析の罠を

警告している。

 

そしてこれらの発見は、

当時の私としては

何かを納得させるものがあった。

 

 

ちょっと難解な感じがしますが、

私なりに読み解いてみますと・・・

 

いわゆる、

フロイトの精神分析では、

「無意識」、つまり、

抑圧された感情や記憶、欲求などを

「意識化」することを重視します。

 

無意識に光を当てることは、

クライアントの気づきにもつながるので、

それはそれで、

大切なことなのですが、

 

一方で、

それがいきすぎると

無意識を無理矢理に解釈する、

たとえば、性の抑圧に強引に結び付けたり

することにもなりかねない。

 

そういうことを

警告しているのではないかと。

 

 

理屈はさておき、

「空の空、一切は空である」

(伝道の書)

と聖書記者が述べるとき、

 

「現象は即ち空、空は即ち現象」

(般若心経)

と仏教徒が唱えるとき、

 

同様のことが

述べられているのである。

 

空とは虚無ではない。

 

そこに

「豊かさと神聖さを

秘めたなにものか」

なのである。

 

 

「色即是空」ですね。

 

ここでいう「空」とは、

さきほどの精神分析でいうと

「無意識」のことだと考えます。

 

無意識すなわち空は、

個人の抑圧された感情なども含まれますが、

それよりも、

 

「豊かさと神聖さを秘めたなにものか」

 

ではないかということですね。

 

 

では、

人間に隠された神聖なものを

どうして人間が分かるのか。

 

精神科医フランクルは、

「良心が意味を感ずる器官だ」

と言い、

 

神学者カール・バルトは

神と人の厳然たる序列と一体性、

万人に通ずる恩寵の普遍性を説き、

 

人間中心の

近代の自由神学を否定している。

 

『論語』は最も明快で、

「これを知るを知るとなし、

知らざるを知らずとなせ」、

「温故知新」だと、

この消息を伝えている。

 

 

無意識の中にある

「神聖」なるものを、

どうして人間が分かるのか。

 

それは、

人間には「良心」があり、

それを通じて、神聖なるものに、

触れることが出来るからだ。

 

人間は、あらゆることを

知性で考えて理解できるわけではない。

 

無意識の中には、

人知では計り知れない

神聖なるもの、大いなるものがある。

 

だから、

人間はもっと謙虚になるべきだし、

現代の科学を駆使すればすべて解決できると

思い上がってはいけない。

 

ということでしょうか。

 

 

いささか理屈っぽいが、

以上が精神科医生活で得た

最大のもので、

迷い多き青年期の思想の

総決算だったと思っている。

 

後にペシャワールや

アフガニスタンで

イスラム教に接したとき、

 

特別な違和感を持たず、

むしろ自分の思いが確認され、

誰とでも共通の土俵で

話しができたうように思う。

 

 

中村哲氏は、青年期から、

「人間には、隠された神聖なものがある」

と、心の底から信じていたからこそ、

 

宗教や人種を超えて、

アフガニスタンの人々と

信頼関係を結ぶことができたのではないかと

感じました・・・

 

・・・次回に続きますね(^^;

 

 

 

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今回も最後までお読みくださいまして、

有り難うございました(^^)

 

次回もこの本の紹介を続けます(^^;

 

 

 

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おまけ写真集(^^;

 

久々に宮音(みやお)くん登場です!

 

 

夏になると増えるポーズ!

 

おっぴろげ~😸

 

 

 

ここでも(^^;

 

 

 

うが~

 

 

 

毎年恒例。

三浦半島荒井浜でのシュノーケリング遊び!

 

波高めでしたが、

おかげさまで、

魚たちとたくさん出会えて楽しめました😊

 

 

ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

沢木耕太郎さんの

旅文学ノンフィクション、

 

天路の旅人(上)(下)

 

 

から、

私の印象に残った箇所を、

紹介・解説しています(^^)

 

この本は、

第二次世界大戦中、

密偵として、中国北部からチベット、

インドまで苛酷な旅を続けた、

西川一三氏のノンフィクションなのですが、

 

なかなか示唆に富む文章があります。

 

苛酷な砂漠地帯を越えたあと、

西川氏はこんな感慨を抱くようになります。

 

 

もしかしたら、

困難を突破しようと

苦労をしているときが

旅における

最も楽しい時間なのかもしれない。

 

困難を突破してしまうと、

この先にはまた新たな困難が

待ち受けているのではないかと

不安になる。

 

困難のさなかにあるときは、

ただひたすら

それを克服するために

努力すればいいだけだから、

 

むしろ不安は少ない、と。

 

 

なるほど・・・

 

困難に直面しているときは、

早くこの状態から脱したいと、

ただひたすら

願うような気もするのですが(^^;

 

でも、一方で、

 

この旅のような

生きるか死ぬかの苛酷な状況下だと、

そもそも、そんな余裕がないというか、

 

とにかく、

眼の前の困難を克服することに必死で、

余計なことを考える暇もない、

 

だから、

「無心」になれる

ということなのかと思います。

 

変に余裕が出てくると、

私たちは、あれこれ妄想をし、

悲観的になってしまいがちですが(^^;

 

苦労や困難を克服するために集中すれば

それは、

「無心」になれるチャンスともいえる。

 

そう考えると、

苦労や困難の経験も、

悪くはないかもしれませんね😊

 

ちなみに、

私の趣味のひとつが山歩きなのですが、

 

もっとも、何日もかけて縦走したり、

ハードな雪山には登ったりはしない

せいぜい初級~中級レベルの登山なのですが、

 

それでも、鎖場やザレ場、

道が狭く崖になっている箇所など、

多少、危険なところを通ったりもします。

 

私は人が少なめのコースが好きなので、

その分、熊に遭遇するおそれ?もあります😲

 

で、そんな山歩きをすると、

気分がすっきりすることが多いのですが、

それは、

そのような多少のリスクを抱えている中で、

感覚を研ぎ澄まし、

「いま、ここ」に集中して、

「無心」になる瞬間があるからかもしれません。

 

もちろん、

気分がすっきりするのは、

やっぱり、自然に触れ合うことができるのが

大きいとは思いますが、

 

「いま、ここ」に集中して、

「無心」になれる瞬間があることも、

少なからず影響しているような気がします。

 

実際、たまに滑ったり、コケそうになって

冷や汗をかくことがありますが、

 

だいたいその時は、

目の前に集中せずに、

余計なことを考えていたり、

周りの人に気を取られている時です(^^;

 

ある心理カウンセラーは、

山歩きは「歩く瞑想」

だとおっしゃっていましたが、

言い得て妙だと思います😊

 

 

・・・さておき、

本書の内容に戻ります(^^;

 

西川氏は、ラマ僧に扮して、

旅の後半はインドを訪れるのですが、

いろいろなところで、

人々から親切にされることが続きます。

 

何故なのでしょうか。

 

 

― いまの自分は、

綺麗に欲がなくなっている。

 

何をしたいとか、

何を得たいとか、

何を食べたいとかといったような

欲望から解放されている。

 

一日分の食糧があれば、

どこで寝ようがかまわないと

思っている。

 

水の流れに漂っている

一枚の葉と同じように、

ただ目の前を歩いている。

 

その欲のなさが、

人の好意を

誘うのかもしれない・・・。

 

 

なるほど・・・

 

八年もの間、

苛酷な旅を続けた西川氏は、

ラマ僧に扮していたとはいえ、

 

本物の修行僧のような境地に

達していたのかもしれませんね。

 

「欲のなさが人の好意を誘う」

 

実際に私も、

人の好意を受ける時というのは、

無欲の時が多いような気がします。

(もっとも、

そんなに頻繁にあるわけではないのですが(^^;)

 

もっと正確にいえば、

無欲というよりも、

どこか感謝の気持ちを抱いている時でしょうか。

 

西川氏はこう述懐します。

 

 

旅における駝夫の日々といい、

シャンでの下男の日々といい、

カリンボンでの

物乞いたちとの日々といい、

デブン寺における

初年坊主の日々といい、

新聞社での見習い職工の日々といい、

この工事現場での苦力の日々といい、

 

人から見れば、

すべて最下層の生活と

思われるかもしれない。

 

いや、実際、

経済的には最も底辺の

生活だったろう。

 

しかし、

あらためて思い返せば、

その日々のなんと自由だったことか。

 

誰に強いられたわけでもなく、

自分が選んだ生活なのだ。

 

やめたければいつでも

やめることができる。

 

それだけでなく、

その最も低いところに在る生活を

受け入れることができれば、

 

失うことを恐れたり、

階段を踏みはずしたり、

坂を転げ落ちたりするのを

心配することもない。

 

何と恵まれているのだろう、

と西川は思った。

 

 

「自由」

 

選択する自由があるということは、

とても恵まれていることなのだと思います。

 

自由がないということは、

たとえ経済的に豊かであっても、

それは、奴隷と同じかもしれない。

 

自由は、

あると当たり前に感じてしまいますが、

実は、とても有り難いこと。

 

自由に感謝する。

そして、

自分の人生は、自分で選択をするということ。

 

忘れずにいたいです😊

 

 

 

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以上、

2回にわたって、

 

沢木耕太郎さんの

旅文学ノンフィクション、

 

天路の旅人(上)(下)

 

 

から、

私の印象に残った箇所を、

紹介・解説してきました(^^)

 

まるで西川氏になったように、

実際に中国北部からチベット、

インドを放浪したような気分になれる、

 

そして、

自分らしく生きる勇気が湧いてくる本。

 

ご一読をおすすめします😊

 

 

 

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今回も最後までお読みくださいまして、

有り難うございました(^^)

 

次回は別の本を紹介します。

 

 

 

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おまけ写真集(^^;

 

前回の富士登山から、

続きです・・・

 

 

 

ヘロヘロになりながらも・・・

 

 

 

山頂の奥宮(久須志神社)

着きました!

 

 

 

頂上限定お守りゲット😊

 

 

 

せっかくなので、

お鉢巡りにもチャレンジ!

 

 

噴火口・・・

大迫力でした😲

 

 

 

・・・反対側の、

浅間神社奥宮まで来ました!

 

 

 

富士宮方面、

雲海・・・

 

 

 

これが、

3,776mのホントの頂上、剣ヶ峰・・・

 

この登りきつかった💦

 

 

 

何とか着きました\(^o^)/

 

 

 

下ります・・・

 

 

 

山中湖を見下ろしながら・・・

 

 

 

須走の砂走ルート!

 

靴が小石の砂の中に埋もれながら下るという、

他の山では味わえない感覚・・・

 

ヒザは楽ですが、

靴の中が小石まみれ(^^;

(ゲイター・スパッツつけた方がいいです)

 

 

 

シャトルバス停まで、

もう一息・・・

 

 

 

古御岳神社、

無事下山できました。感謝!

 

富士登山・・・

いい思い出になりました。

またいつか、別のルートから登りたいです!

 

おつきあいいただきまして、

有り難うございました😊

 

自由に遊ばせてくれる、

妻にも感謝(^^)