ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

近内悠太さんの著作、

 

世界は贈与でできている

 

世界は贈与でできている 書籍カバー

 

から、

私の印象に残った箇所を、

紹介・解説しております(^^;

 

前回、「贈与」とは時に、

「呪い」となってしまうことがある。

 

では、呪いをかけない「贈与」とは、

いかなるものか?

 

それは、

「受取人に贈与だと気づかれないもの」

「受け取った時には分からずに

後になって分かるもの」

 

だと述べましたが、

今回はそれについて解説しますね。

 

こんな事例があります。

引用の引用になりますが・・・

 

 

その男性の母親は

認知症を患い、

毎日16時になると

外へ出て行ってしまうという。

 

いわゆる「徘徊」だ。

 

男性は、

必死になって

その外出を止めようとすると、

母親はわめき、

暴力をふるう日々が続いた。

 

「母さん、

どうして毎日16時に

外出しようとするの?」

 

尋ねてもはっきりした

返事はない。

 

どうすることもできなくなり、

彼はベテランの介護職員に

相談した。

 

すると介護職員は

何を思ったか、

母親の兄に連絡を取った。

 

そして「16時」

というキーワードで

何かヒントは無いかと尋ねる。

 

すると叔父は

「16時」とは

幼かったころの息子が

幼稚園からバスで帰ってくる

時間ではないかと言う。

 

その話を聞いた介護職員は、

母親にこう告げた。

 

「今日は息子さん、

幼稚園のお泊り会で、

帰ってきませんよ。

バスも今日は来ませんよ」。

 

おまけに

ニセモノの「お泊り会」の

案内状まで作って

母親に見せた。

 

するとどうだろう、

母親は、

「そうだったかね?」

といって

部屋に戻っていった。

 

その日を境に、

同じように

「今日は帰ってきませんよ」

という説明をしてあげるだけで、

「16時に外へ出てしまう」

という行為はなくなった。

 

 

認知症の母親にとって、

16時の徘徊は

息子を迎えにいくという

「贈与」をしているつもり

だったのですね。

 

息子はその贈与に

気づいていなかった・・・

 

 

もしその男性が

「16時」という

不合理の合理性に気づかず、

 

母親の振る舞いが

非合理なもの、

意味のないものだと

見なしたままだったとしても、

 

母親の

「息子を迎えに行く」

という贈与の行為は

この世に存在したでしょうか。

 

母親という差出人と

その贈与は、

受取人である男性が

それに気づく前の時点では

存在しなかった。

 

「実はこの私を

迎えに行っていたのか」

と気づいた時点において、

 

母の行為が

数十年の時間を飛び越えて、

今ここに贈与として

立ち現れたわけです。

 

ではこの贈与を

受け取ったのは

いつなのでしょうか。

 

もちろん、

贈与に気づいたのは

今現在です。

 

僕は男性は

この贈与をずっと

受け取り続けていたのではないかと

思います。

 

贈与はすでに届いていた。

 

ただ、それを見落とし、

気づかず、

数十年の時間が経っていた。

 

しかし、だからこそ、

その贈与は呪いになることなく、

男性のもとに届いたのです。

 

この「16時の徘徊」の

エピソードには、

本書が目指す贈与論の

モデルの一つが隠されています。

 

他者の不合理な

振る舞いの中に、

差出人としての姿が

隠されている。

 

僕らは不合理性を通じて、

他者からの贈与に

気づくことができるー。

 

 

なるほどです・・・

 

本書の

「世界は贈与でできている」

というのは、

そういうことなんですね。

 

つまり、

差出人も分からないし、

その時には贈与だと気づかないことが、

実は世の中にはけっこうあるのではないか、

ということです。

 

差出人が分からない、

すなわち、

名乗らない贈与者の代表例としては

「サンタクロース」が挙げられています(^^)

 

たしかに、

差出人が親だと分かるのは、

だいぶ後ですよね。

 

ほぼ確実にバレますが(^^;

 

 

贈与に気づくためには、

受取人の「想像力」や「知性」が

必要だといいます。

 

 

受取人においては、

贈与は過去の中に

あるのでした。

 

ですが、

もちろん

「過去そのもの」は

もはや存在しません。

 

だから、

そこには

想像力が要請されます。

 

贈与は差出人に倫理を要求し、

受取人に知性を要求する。

 

これは本書の贈与論において、

決定的に重要な主張です。

 

そして、

倫理と知性は

どちらが先かと問われれば、

それは知性です。

 

つまり、

受取人のポジションです。

 

なぜなら、

過去の中に埋もれた

贈与を受け取る主体だけが、

 

つまり、

贈与に気づくことのできた

主体だけが

再び未来に向かって

贈与を差し出すことが

できるからです。

 

その主体は

「もし私が気づかなかったら、

この贈与は存在しなかった」

ということを

痛いほど理解しています。

 

つまり

「この贈与は

私のもとに届かなかったかも

しれない」

と直覚できているからこそ、

 

今から差し出す贈与も

他者へと届かない

可能性が高く、

 

届いてくれたなら

これほど

素晴らしいことはないと

分かっているからです。

 

この贈与は私のもとへ

届かなかったかもしれない。

 

ということは、

私がこれから行う贈与も

他者へは届かないかもしれない。

 

でも、いつか

気づいてくれるといいなー。

 

かつて受取人だった

自身の経験から、

そのように悟った主体だけが、

 

贈与が他者に届くことを待ち、

祈ることができるのです。

 

 

なるほど・・・

 

自分はたまたま

気づくことができたけれど、

贈与とは、

そもそも他者には気づかれにくいもの。

 

だから、

自分がする場合でも、

おそらく気づかれない、

 

気づいてもらえればラッキー!

 

ぐらいに考えておけば、

贈与が「交換」や「呪い」に

なることはないのですね(^^)

 

そして、

その「贈与」というものは、

贈与とは気づかないだけで、

実は、日常に溢れているという・・・

 

次回に続きますね(^^;

 

 

 

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今回も最後までお読みくださいまして、

有り難うございました😊

 

次回もこの本の紹介・解説を続けます(^^;

 

 

 

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おまけ写真集(^^;

 

シルバーウィークは、

台風通過後、

山梨県甲州の金峰山に行きました!

 

せっかくなので、

前日に近隣の神社仏閣、ぶらっと巡り(^^)

(渋選です)

 

文化財 清白寺 仏殿

 

清白寺。

 

 

清白寺仏殿 国宝 山梨

 

仏殿。

山梨県に2つしかない、

建造物の国宝だそうです!

 

 

清白寺の参道に咲く彼岸花と山並み

 

参道には彼岸花。

いつのまにか、そんな季節ですね~

 

 

差出磯大嶽山神社の風景

 

差出磯大嶽山神社。

 

 

赤い鳥居と山並みを望む街並み

 

高台にあるので、

絶景でした!

 

なで猫像と黄色い旗

 

もちろん、撫でました(^^;

 

 

清白寺の仏殿と彼岸花

 

窪八幡神社。

 

 

清白寺 仏殿 山梨国宝

 

 

差出磯大嶽山神社の扁額と垂れ幕

 

 

清白寺の仏殿と赤色の柵

 

少し寂れた感がありましたが、

歴史を感じさせる立派な神社でした(^^)

 

それぞれの地方には、

私が知らない魅力的な神社仏閣が、

まだまだありますね~

 

・・・車中泊して、

いざ翌日の登山へ!