ご訪問くださいまして、
有り難うございます。
れっつごうです(^^)
早いもので、
今年も、もう僅かですね(^^;
歴史学者・哲学者、
ユヴァル・ノア・ハラリさんの、
世界的なベストセラー
から、
私の印象に残った箇所を、
紹介・解説しています。
今回で5回目、
最終回です(^^;
この本は、
サブタイトルに、
「文明の構造と人類の幸福」
という文言が入っているように、
単に時系列に
文明の歴史を辿っていくだけでなく、
「人類の幸福」
について、
ハラリさんなりの
様々な考察が述べられています。
第19章は、
ずばり、
「文明は人間を幸福にしたのか」
というテーマですが、
ハラリさんの見解は、
必ずしも、
そうは言い切れないという感じです。
これまで私たちは、
健康や食事、富など、
おおむね物質的要因の産物で
あるかのように
幸福を論じてきた。
より豊かで健康になれば、
人々はより幸せにも
なるはずだ、と。
だがこれは、
本当にそれほど自明なことなのか?
哲学者や聖職者、詩人たちは、
幸福の性質について
何千年も思案を重ねてきた。
そしてその多くが、
社会的、倫理的、精神的要因も
物質的な条件と同じように、
幸福に重大な影響を与えるという
結論に達した。
ひょっとすると、
豊かな近代社会に生きる人々は、
繁栄を謳歌しているにも
かかわらず、
疎外感や空しさに
苛まれているのでは
ないだろうか?
そして、
私たちよりも貧しかった
祖先たちは、
コミュニティや宗教、
自然との絆に
大きな満足を
見出していたのでは
ないだろうか?
実際に心理学者や生物学者が、
多くの人への質問表を集計した、
研究結果があるといいます。
それによると・・・
興味深い結論の一つは、
富が実際に
幸福をもたらすことだ。
ううっ、
やっぱりそうなのか~
だがそれは、
一定の水準までで、
そこを超えると
富はほとんど
意味を持たなくなる。
なるほど・・・
ウェルビーイングで有名な、
前野隆司先生は、
日本円でいうと、
年収800万円くらいが、
この一定の水準だといいますが、
逆にいえば、
800万までは、
幸福度は上がっていく・・・
もちろん、
持て余すほど持っても意味はないですが、
やはり、
一定のお金は、
あるに越したことはないですね(^^;
興味深い発見は、
まだある。
病気は短期的には
幸福度を下落させるが、
長期的な苦悩の種となるのは、
それが悪化の一途をたどったり、
継続的で心身ともに
消耗させるような
痛みを伴ったりする場合に
限られるという。
そうですね・・・
私も慢性の持病があって、
ずっと薬を飲み続けているのですが、
だからといって、
あまり不幸とは感じないですね。
もちろん、
おかげさまで特に悪化していないことが、
大きいとは思いますが(^^;
家族やコミュニティは、
富や健康よりも
幸福感に大きな影響を
及ぼすようだ。
緊密で協力的な
コミュニティに暮らし、
強い絆で結ばれた
家族を持つ人々は、
家庭が崩壊し、
コミュニティの一員にもなれない
(もしくは、
なろうとしたことのない)
人々よりも、
はるかに幸せだという。
これは、
実感としても分かりますね。
結婚生活は
とりわけ重要だ。
良好な結婚生活と
高い主観的厚生、
そして劣悪な結婚生活と
不幸の間に、
きわめて密接な
相関関係があることは、
研究によって
繰り返し示されている。
どきっ・・・
やはり結婚生活は大事なんですね(^^;
ちなみに、
完全に敵対している夫婦よりは、
独身でいるほうが、
まだマシだといいます。
だが、
何にも増して重要な発見は、
幸福は客観的な条件、
すなわち富や健康、
さらにはコミュニティにさえも、
それほど
左右されないということだ。
ええっ、
それほど左右されない?
幸福はむしろ、
客観的条件と
主観的な期待との
相関関係によって決まる。
あなたが
牛に引かせる荷車が欲しい
と思っていて、
それが手に入ったとしたら、
満足が得られるだろう。
だが、
フェラーリの新車が
欲しかったのに、
フィアットの中古車しか
手に入らなかったら、
自分は惨めだと感じる。
幸福は、
客観的条件と主観的な期待との
相関関係によって決まる。
つまり、
主観的な期待が満たされれば、
幸せを感じるし、
それが満たされなければ、
不幸を感じるということですね。
主観的な期待値が高ければ、
なかなか満たされずに
幸せは感じにくくなり、
主観的な期待値が低ければ、
満たされやすくなり、
幸せを感じやすくなる。
・・・ということは、
持てるものに満足する。
つまり、それに、
「感謝」できれば、
幸せが感じられるということですね。
「感謝」の心は、
幸福の鍵を握っているといえそうです😊
現代人は、
期待が満たされることや、
快い感情を味わえることを
幸福だと捉えがちですが、
対して、
ハラリさんは、
本書で、仏教の考え方を、
紹介しています。
仏教によれば、
たいていの人は
快い感情を幸福とし、
不快な感情を
苦痛と考えるという。
その結果、
自分の感情に
非常な重要性を認め、
ますます多くの喜びを
経験することを渇愛し、
苦痛をさけるようになる。
脚を掻くことであれ、
椅子で少しもじもじ
することであれ、
世界大戦を行うことであれ、
生涯のうちに
何をしようと、
私たちはただ
快い感情を得ようとしているに
すぎない。
・・・たしかに、
そうかもしれません。
だが仏教によれば、
そこに問題があるという。
私たちの感情は、
海の波のように
刻一刻と変化する、
束の間の心の揺らぎにすぎない。
五分前に
喜びや人生の意義を
感じていても、
今はそうした感情は消え去り、
悲しくなって
意気消沈しているかもしれない。
だから
快い感情を経験したければ、
たえずそれを追い求めるとともに、
不快な感情を
追い払わなければならない。
だが、
仮にそれに成功したとしても、
ただちに一から
やり直さなければならず、
自分の苦労に対する
永続的な報いは
決して得られない。
(中略)
苦しみの真の根源は、
束の間の感情を
このように果てしなく、
空しく求め続けることなのだ。
そして感情を追い求めれば、
私たちはつねに緊張し、
混乱し、
不満をいだくことになる。
この追求のせいで、
心はけっして
満たされることはない。
喜びを経験しているときにさえ、
心は満足できない。
なぜなら心は、
この感情が
すぐに消えてしまうことを
恐れると同時に、
この感情が持続し、
強まることを
渇愛するからだ。
いわゆる、
「執着」というやつですね(^^;
瞑想するときには、
自分の心身を念入りに観察し、
自分の感情がすべて
絶え間なく沸き起こっては
消えていくのを目の当たりにし、
そうした感情を追い求めるのが
いかに無意味かを悟るものと
されている。
感情の追求をやめると、
心は緊張が解け、
澄み渡り、満足する。
喜びや怒り、
退屈、情欲など、
ありとあらゆる感情が
現れては消えることを
くり返すが、
特定の感情を渇愛するのを
やめさえすれば、
どんな感情もあるがままに
受け容れられるようになる。
ああだったかもしれない、
こうだったかもしれない
などという空想をやめて、
今この瞬間を
生きることができるように
なるのだ。
なるほど・・・
瞑想をするとスッキリするのは、
こういうことなんですね(^^)
そうして得られた安らぎは
とてつもなく深く、
喜びの感情を
必死で追い求めることに
人生を費やしている人々には
皆目見当もつかない。
一生喜びの感情を
追求するというのは、
何十年も浜辺に立ち、
「良い」波を腕に抱きかかえて
崩れないようにしつつ、
「悪い」波を押し返して
近づけまいと
奮闘するのに等しい。
来る日も来る日も、
人は浜辺に立ち、
狂ったように
この不毛な行ないを繰り返す。
だがついに、
砂の上に腰を下ろし、
波が好きなように
寄せては返すのに任せる。
何と静穏なことだろう!
「感情」=「波」のたとえは、
分かりやすいですね。
この境地に達するのは、
なかなか難しいですが(^^;
仏教をはじめとする
多くの伝統的な哲学や宗教では、
幸せのカギは
真の自分を知る、
すなわち自分は本当は何者なのか、
あるいは
何であるのかを
理解することだとされる。
たいていの人は、
自分の感情や思考、好き嫌いと
自分自身を混同している。
彼らは怒りを感じると、
「私は怒っている。
これは私の怒りだ」
と考える。
その結果、
ある種の感情を避け、
ある種の感情を
追い求めることに
人生を費やす。
感情は
自分自身とは別のもので、
特定の感情を
必要に追い求めても、
不幸に囚われるだけで
あることに、
彼らはけっして
気づかない。
特定の「感情」に執着することは、
苦しみを生みますが、
様々な「感情」に気づいて、
それを、
感じて、味わうことは、
大切だと私は思います。
そうすることで、
結果的に、
「感情」から解放され、
とらわれなくなるからです。
ということは、
私たちは、
「感情」そのものではない。
心理学で、観察自我、
メタ認知などともいいますが、
「感情」を感じる側の
存在だといえます。
では、
私たちはいったい何者なのか?
冒頭にも同じ言葉がありますが、
本書は、最後、
こんな言葉で締められています。
私たちが直面している
真の疑問は、
「私たちは何になりたいのか?」
ではなく、
「私たちは何を望みたいのか?」
かもしれない。
私たちは何を望みたいのか?
そうですね・・・
「神との対話」シリーズの姉妹本、
「明日の神」という本に、
こんなメッセージがあります。
(翻訳は古宮昇先生)
自分はどういう人になるか、
どういう人でいるか、
それを決めるのが人生です。
そして、
前の自分より
さらに大きな自分になること、
さらに進化した自分になること、
そこに肉体を持って
生まれてきた目的があります。
どういう人になるか、
どういう人でいるかは、
自分で決める。
それが、人生。
(人との比較ではなく)
前の自分よりも、
大きく、進化する・・・
それが、生まれてきた目的。
人間関係や、
恋愛や結婚の真の目的は
幸せを「見つける」
ことではありません。
その真の目的は
幸せを「創る」ことです。
(中略)
見つけよう、探そう、
とするとき、
あなたはそれが
自分にはないものと信じています。
だから、
その信念通りの結果になり、
幸せではなくなります。
それに対して
「創ろう」とするとき、
あなたは自分のもっているものを
その関係性に持ち込もうとします。
つまり
自分にすでにあるものを
使おうとしているのです。
幸せとは、
人間関係において、
自分の中に
すでにあるものを使って
「創る」もの。
なるほどです(^^)
・・・だとしたら、
皆さんは、
いったいどんな幸せを
「創り」ますか?
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以上、
計5回にわたって、
歴史学者・哲学者、
ユヴァル・ノア・ハラリさんの、
世界的なベストセラー
の内容から、
私の印象に残った箇所を引用しながら、
紹介・解説してきました。
私が取り上げなかった箇所でも、
たとえば、
「ベルトコンベアー上の命」
すなわち、
動植物の機械化の問題や、
今後のAIの進化に関してなど、
興味深い問題提起が多くなされています。
「私たちは何を望みたいのか?」
年末年始、もしお時間があれば、
ホモ・サピエンスの、
悠久の歴史を辿りながら、
じっくりお考えになるのも
いいかもしれませんね😊
おすすめします!
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今回も最後までお読みいただきまして、
有り難うございました😊
次回(来年)は別の本を紹介します。
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本年も大変お世話になりました。
来年も皆様にとって、
幸せな年でありますように・・・
よいお年をお迎えください😸


