ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

東京、横浜は、

だいぶ寒くなってきました(^^;

 

臨床心理学の大家!

河合隼雄先生の著書、

 

中年危機

 

 

を紹介しています。

 

この本には、

河合隼雄さんが、

「中年危機」に関する小説、

 

 

夏目漱石「門」

 

山田太一「異人たちとの夏」

 

広津和郎「神経症時代」

 

大江健三郎「人生の親戚」

 

安倍公房「砂の女」

 

円地文子「妖」

 

中村真一郎「恋の泉」

 

佐藤愛子「凪の光景」

 

谷崎潤一郎「蘆刈」

 

本間洋平「家族ゲーム」

 

志賀直哉「転生」

 

夏目漱石「道草」

 

 

を取り上げて、

解説をされているのですが、

 

小説のネタバレをしないように

あえてそのストーリーは紹介せずに、

 

私が河合隼雄さんの解説で、

印象に残った部分を引用しながら、

 

「中年の危機」について、

皆さまと一緒に考えていきたいと

思います(^^)

 

今回は、

谷崎潤一郎「蘆刈」

(この小説はミステリアスで

なかなか味わい深い感じですよ)

 

に入る前の解説部分から・・・

 

 

中年も少し

年をとってくると、

 

あらためて自分という存在に

目を向けることになる。

 

いったい自分というのは

何者なのか

 

 

そうですね・・・

特に新型コロナ後は、

内省することが

多くなったような気がします。

 

 

もちろん、

そんなことは誰しも

若いときから、

ある程度考えているものだ。

 

若いときだって、

自分というものを

大切に思い、

自分を生かして

ゆきたいと思う。

 

そして一般的にいえば、

自分のやりたい職業とか、

結婚したい相手などが

見つかり、

 

その中で自分を確立して

ゆくことになる。

 

 

若い頃は、

一般的には

社会的な役割の中で、

自分を確立していくわけですね。

 

 

それがある程度成功したとして、

そのときに自分とは何かを

考えてみると、

 

それを支えてくれるものが、

社会的な地位や

自分の能力や財産や・・・

 

いろいろあるにしても、

それを測定する尺度が

外側にあって、

 

そのことによって

相当明確に

自分の位置を

見定められることがわかる。

 

自分は

「○○会社の××課長である」

と思うとき、

その会社に対する

世間一般の評価や、

課長職というものに対する

会社内での評価などに

支えられて、

 

「俺もたいしたものだ」

とか、

「まあ、そこそこやっている」

などと感じることができる。

 

このようにして

「私」とは何か、

 

に相当応えることが

できるのだ。

 

 

そうですね・・・

 

現実問題、

 

外側の基準、すなわち、

組織に所属していたり、

役職があったりすることによって、

自分を確立できるということは

ありますよね(^^;

 

そこで頑張ることで、

少しずつ自信がついていくことも

ありますし・・・

 

 

このような考え方の

便利な点は、

他と比較することが

容易なことである。

 

たとえば

「年収」

などということを

尺度とする限り、

 

その人がどのような職業に

ついていようと、

どこに住んでいようと、

 

ともかくピッタリと

順位をつけることが

できる。

 

その尺度は

どこにも適用できる

という意味で、

普遍性をもつ。

 

これがこのような考えの

強みである。

 

 

たしかに、

数字で表せるものは、

明確に「比較」できますので、

はっきりしますよね。

 

ただし、

「比較」の世界は、

必ず勝者と敗者を生むことになる。


常に勝者でいられる人は、

ごくわずか。

 

勝者になれればともかく、

敗者になった時は、みじめ・・・


そう考えると、

「比較」の世界では、

けっきょく、多くの人が、

幸せを感じにくくなるような

気がします(^^;

 

 

しかし、

人間が「私」とは何かを

考えるとき、

 

これとまったく異なる

考え方もある。

 

たとえば「私」とは、

今ここに一人で

山小屋の前に座って、

 

高い山々の峰を見ている。

 

それだけでまったく

十分なときがある。

 

これが「私だ」と

感じることができるのだ。

 

そんなとき、

その山や空気や、

そして自分の体の状況や、

それらすべてが

渾然一体となり、

「私」の感覚を支える。

 

 

これ、分かります。

 

私も(低山専門ですが)

山に登るのが好きなので、

この感覚が分かるのですが、

 

特に、山頂に辿り着いて、

運よく(?)、

他に登山者が誰もいない時、

 

おおっ、ラッキー!

山頂独り占め状態(^^)

 

空や雲や太陽や、周りの山々、

草木や、野鳥、トンボや蝶・・・

 

すなわち、

「大自然」と私が、

一体となったような感覚になります(^^)

 

ああ、至福の時・・・

 

 

と、この感覚を味わっていると、

 

たいてい、中高年の団体登山者が、

ワイワイガヤガヤ登ってきたりして(^^;

 

至福の時は、

終わりを告げるのですが(笑)

 

この感覚、

すなわち、

これが「私だ」という感覚は、


もちろん山以外でも、

味わえると思います。

 

人によっては、

旅行先での、

何気ない風景や、

 

近所で普段は

気づかなかった場所で

感じたり・・・

 

心に残る、

思い出の土地や、

故郷の風景で

感じたり・・・


神社仏閣や、

あるいは、

やっぱり自宅がいい、

という人も・・・

 

それぞれ人によって違う。

 

 

このような感覚が

わからない人には、

 

自分がそのときに見た山が

「海抜何メートル」

であるのか、

 

自分がそこに行くために

どれほどの費用を使ったのか、

 

その場所は

「有名」かどうか、

 

などを強調する。

 

こうした人は、

同じように山を見てる

「私」について考えるとしても、

 

その尺度は

先に述べた一般的尺度に

頼っている。

 

 

「一般的尺度」

に頼っていると、

自分の「感覚」に気づきにくくなる

ような気がします・・・

 

 

一般的・普遍的尺度は

わかりやすいし、

他人に対して

説得力を持ち、

他と比較することが

容易なので、

 

多くの人が

それに頼ることになる。

 

しかし、

それだけで十分であろうか。

 

「年収」が

どれだけ多くとも、

「年収」を

大きい支えとしている人は、

 

他の非常に多くの人々と

同じ人生を歩んでいるわけで、

 

特に「私」というものの

独自性を示すことには

ならないのではなかろうか。

 

それに対して、

ある場所である時に、

自分のみが

 

「ウン、これが私だ」

と感じたことは、

 

他との比較を超え、

一般的尺度に

還元しがたいものとしての

独自性をもつと言える。

 

 

世の中には、

「比較」が蔓延していて、

特にビジネスの世界、

それに、少し薄れてきたとは思いますが、

教育の世界も、

現実的には、それを原動力にして、

動いている要素が強いと思います。

 

業界内での売上シェアが~%とか、

偏差値ランキングとか(^^;

 

もちろん、

「比較」は分かりやすし、

競争することで成長できる部分もあります。

 

しかし、

「比較」の世界にどっぷり浸かり過ぎると、

何より、

「自分」を見失うことになる。

 

そして、

「独自性」というものが失われていきます。

 

人生の後半、

中年以降こそ、

 

人との「比較」ではなく、

「独自性」

 

すなわち、

「自分らしさ」

 

大切にしていきたいですね😊

 

 

 

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今回も最後までお読みくださいまして、

有り難うございました。

 

次回は、別の本を、

紹介させていただく予定です(^^;

 

 

 

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おまけです(^^;

 

 

おお、誰もいない・・・

至福の時(笑)

 

 

 

足柄の矢倉岳山頂です(^^)

 

低いけど・・・あっいかん、

比較しない(^^;

 

 

 

パノラマ富士山、頂部分だけ(^^;

 

 

 

拡大しました!

(翌日からは雪化粧されましたよ)

 

 

 

小田原方面(?)の海を臨む。


ああ、大自然との一体感・・・

 

 

 

帰路、洒水の滝。

すっと美しい流形でした(^^)

 

夕方、既に薄暗かったのに、

滝の周辺だけ妙に明るかったです。

(摩可不思議・・・)

 

 

 

 

まだまだ青い(私?)