ご訪問くださいまして、
有り難うございます。
れっつごうです(^^)
世界的なスピリチュアルリーダー、
さんのロングセラー、
の内容で、
私が「なるほど」と思ったところを、
私の考えも交えながら、
紹介・解説しています。
今回で4回目となります。
前回は・・・
「感情」とは、
「思考」が鏡のように
体に反映されたものだということ。
そして、
「感情」に操られないためにも、
(思考と同じく)
それを観察してながめる。
ただし、
「怒り」のような
二次感情には浸らずに、
直前の一次感情に気づいて、
それを受容し、感じて味わう。
そうすれば、
感情の痛み(ペインボディ)
は、解消される。
それが、
「感情」に自分を乗っ取られない、
主導権を渡さないためのカギである。
ということを述べました。
今回は、
「時間」は幻である
という考え方を紹介します。
エックハルト・トールさんは、
思考(感情も含めます)は、
「ほんとうの自分」ではないと述べますが、
そのためには、
「時間は幻だと、さとること」
がコツだといいます。
えっ、時間は幻???
これは、にわかには信じがたい。
現に、私たちは、
時間の中に生きていますが・・・
どういうことなのでしょうか。
時間と思考は、
いわば「一心同体」。
お互いに離れることが
できません。
頭から時間の概念を
とりはらうと、
思考活動は、
ぴたりとやみます。
つまり、
「思考とひとつになる」
ことは
「時間のわなにはまる」
ことなんです。
そうすると、
ほぼ自動的に
「記憶」「期待」「不安」
だけを糧にして
人生を送るようになります。
過去と未来に
四六時中没頭し、
「いま、この瞬間」
というものを貴ばず、
ありのままに
受け入れもしません。
過去をアイデンティティの
よりどころとし、
未来を目標達成の道具に
してしまうために、
執着心を抱くようになります。
「過去も未来も幻である」
―これが真実なんですよ!
う~ん・・・
たしかに、
あまりにも思考にとらわれると、
自動操縦状態になって、
「いま、ここ」
を感じられなくなるというのは、
わかる気がします。
何かで読んだのですが、
「時間」というものは、
チョークで書いた線のようなもの
だといいます。
チョークの線は、
一見繋がっているように見えますが、
よくよく拡大してみると、
点(ドット)が並んでいるだけなんですね。
「時間」もそれと同じで、
連続して線で繋がっているようですが、
冷静に見つめてみると、
「いま、この瞬間」
が並んでいるだけである。
つまり、
「いま」の集合体が、
「時間」というものなんですね。
わたしたちが
過去だと思っているものは、
頭に保管された、
かつての「いま」
の記憶の断片にすぎません。
わたしたちは
過去を思い出すとき、
記憶の断片を
よみがえらせています。
それをおこなうのは
「いま」です。
未来というのは
思考がつくりだした
想像上の「いま」です。
未来がやってくる時には、
「いま」として経験されます。
未来について
考えるとき、
わたしたちは
「いま」おこなっているのです。
過去も未来も、
それのみでは、
現実になりません。
過去と未来は、
ちょうど月にたとえられます。
月そのものは、
発光体ではありません。
太陽の光を反射して、
はじめて輝くことができます。
同様に、
過去も未来も、
「光」であり、「パワー」であり、
「現実」であり、「永遠」である
「いま」
のおぼろげな影でしか
ないのです。
なるほど・・・
あくまで、
「いま」が発光体。
「いま」がどれだけ輝くかによって、
「過去」「未来」の輝きが
変わってくるんですね。
私自身でいえば、
おかげさまで、
「過去」への思考にとらわれることは、
少なくなってきましたが、
「未来」への思考には、
まだまだ、とらわれることが多く、、
「いま」がおろそかになってしまうことが、
けっこうあります(^^;
たとえば、
「もうすぐ連休があるから、
それまでの辛抱だ」
「それまでは、心にフタをして過ごそう・・・」
「10月から組織の再編があるから、
どうせ、今がんばってもムダ」
「それまでは、適当にやり過ごせばいいや・・」
「定年後はどうしよう」
「何だか、不安だなあ・・・」
・・・やばい、
「いま」
を生きていないですね(笑)
未来を目的にしてしまうと、
それまでの「いま」というプロセスを、
ついつい軽視してしまいます。
「いまの輝きが、未来を照らす」
「いま、ここ」
を充実させるべく、
過ごしていきたいです(^^;
一方で・・・
そうはいっても、
やっぱり、
私たちは、現実問題として、
「時間」の概念から、
完全に解放されて生きることはできません。
日々の仕事は、時間で動いていますし、
計画を立てて、実行することは、
限られた人生を充実させることにも
繋がると思うのです。
では、現実の中で、
いったいどのように、
時間というものを捉えればいいのか。
著者は、
「時計時間」と、
「心理的時間」
があるといいます。
実用的な目的で、
時間を活用し
(これを「時計時間」
と呼ぶことにします)、
用事がすんだあとは、
ただちに
「いまに在る」
意識に戻る方法を、
身につけましょう。
こうすれば
「心理的時間」を
心に積もらせたりしません。
「心理的時間」とは、
過去と未来を
アイデンティティーに
使ってしまうことです。
「時計時間」は
予約をしたり、
旅行を計画したり
することだけでは
ありません。
二度と同じあやまちを
くりかえさないように、
過去の経験から学ぶことも、
そのひとつです。
ゴールを定め、
それに向かって
邁進することも同様です。
過去に学んだことを
考慮に含め、
パターンや法則で
未来を予測し、
的確な手段を講ずることも、
またしかりです。
なるほど、
実用的な目的で活用する
「時計時間」は、
むしろ有益なんですね(^^;
ただし、
過去と未来なしに、
物事を進められない場面でさえ、
「いま」
という時が中心になります。
過去で学んだ
いかなるレッスンも、
「いま」に関連し、
「いま」に適用されます。
いかなるプランニングも
ゴール達成に向けての努力も、
それをするのは
「いま」です。
いずれにせよ、
「いま、ここ」
に焦点を当てることは、
大切なんですね。
さとりをひらいた人の意識は
常に「いま」に注がれています。
しかし、
このような人たちも、
意識のかたすみに、
ちゃんと時間をおいています。
言いかえるなら、
「時計時間」
を活用しているものの、
「心理的時間」
にまどわされていないのです。
うっかり
「時計時間」を
「心理的時間」に
すりかえてしまうことがないように、
注意しましょう。
たとえば、
過去に失敗をして、
「いま」
そこから学ぶのであれば、
それは
「時計時間」
を使っていることになります。
ところが、
精神的に失敗にひたりきって、
批判、後悔、罪悪感などで、
自分を責めているようなら、
あやまちを
「自分の一部」
にしていることになりますから、
「心理的時間」
を使っているのです。
「心理的時間」
はいつも、
にせのアイデンティティと
結びついています。
人や出来事を許せないという、
こわばった心は、
必ずと言っていいほど、
心理的時間にとらわれている
証拠です。
思考が、過去の失敗に浸りきってしまうと、
「心理的時間」になってしまい、
「いま」の自分を見失ってしまう・・・
目標を定め、
それに向かって努力するなら、
「時計時間」
を使っていることになります。
自分がどこに向かっているかを、
よく認識したうえで、
「いま、この瞬間」、
自分がとっているステップに、
全意識を集中させるのです。
一方、
もし幸せ、充実感や、
立派なアイデンティティ
などを求めて、
ゴールだけに焦点を絞ると、
「いま」は
なおざりにされてしまいます。
「いま」は、
未来に到達するための、
価値のない、
ちっぽけな踏み台に
なってしまいます。
「時計時間」は、
「心理的時間」に
姿を変えます。
人生の旅は、
もはや「冒険」ではなくなり、
味気の無い
「義務行為」になり果てます。
プレゼントの包みを
開ける時のような、
わくわくした気持ちは失われ、
道ばたに咲く花々に
目をとめたり、
その甘い香りを
かごうとしたりすることも
なくなります。
「いまに在る」
時には、
自分の周りで、
万華鏡のように
くりひろげられる美や、
生命の奇跡に
気づくものですが、
そんな経験も
できないでしょう。
ゴールだけに焦点を絞ると、
「いま」が単なる踏み台になってしまう。
味気ない義務行為になってしまう・・・
そんなのいやですよね(^^;
私は、
特に若い頃、
(いや、今でもその傾向はありますが)
「人から認められたい」
「ひとかどの人物になりたい」
という思いが、強くありました(^^;
それはそれで、
「時計時間」として活用すれば、
よかったのですが、
私の場合、
「心理的時間」になってしまい、
「いま、ここ」
をあまり意識しなかったせいで、
今、考えても、
ずいぶん、味気ない日々を過ごしてきたという
自覚があります。
今でこそ、
道端に咲く花々に、
少しは目をとめるようになりましたが、
2~30代の頃は、
気にもとめなかったなあ~(^^;
子どものころは、
短い通学路の中にも、
春夏秋冬、日々たくさんの発見があったのに・・・
「いま、ここ」
のプロセスこそが人生。
大切にしていきたいです😊
次回に続きます。
今回も最後までお読みくださいまして、
有り難うございました(^^)
