ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

前回から、

なんと200万部突破!

(これはすごい数字です)

のミリオンセラー

嫌われる勇気

 

 

を、紹介、解説しています(^^)

 

この本、

哲人(岸見一郎先生)と、

悩み多き青年(古賀史健さん)

の対話形式で進みます。

 

前回は、

 

「世界はどこまでもシンプルである」

「人は変われる」

「誰もが幸福になれる」

 

そして、それには、

「勇気」

が必要であると述べました。

 

それに関連するのですが、

今回は、

「目的論」

という考え方を紹介します(^^)

 

例として、

引きこもりの友人のケースが

挙げられています。

 

 

<哲人(岸見先生)>

ご友人は

「不安だから、外に出られない」

のではありません。

 

順番は逆で

「外に出たくないから、

不安という感情を

つくり出している」

 

と考えるのです。

 

<青年(古賀さん)>

はっ?

 

<哲人>

つまり、

ご友人には

「外に出ない」

という目的が先にあって、

その目的を達成する手段として、

不安や恐怖といった感情を

こしらえているのです。

 

アドラー心理学では、

これを

「目的論」と呼びます。

 

 

「目的が先にあって、

それを達成する手段として、

感情をこしらえる・・・」

 

う~ん、

 

最初、これを読んだとき、

いまいちピーンとこなかったのですが、

たしかに、よくよく考えてみると、

こういった面はあると思います。

 

たとえば、

私の場合、

妻や部下に対して、

怒りの感情を

ぶつけてしまうことがありますが(^^;

 

それは、

「湧き上がる感情だから

どうにもならないもの」

というよりも、

怒りによって、

「相手をコントロールしよう」

とか、

「なめられないようにしよう」

または、

「自分のみじめさや、

無力さといったネガティブ感情を

感じたくない」

といった、

いわば、隠れた「目的」が、

たしかに、あるんですね(^^;

 

この本では、

さっきまで、娘に怒っていたのに、

学校の担任から電話がかかってきたら、

急に、声色が丁寧になる、

そして、受話器を置いたとたん、

再び血相を変えて怒り出す、

という、

母親の例が紹介されています(笑)

 

つまり、

怒りとは、

出し入れ可能な「道具」なのです。

(どきっ・・・)

 

アドラーの

「目的論」に対して、

「原因論」の代表は、

フロイトです。

 

この本のアドラー心理学

(というよりも岸見心理学?)

では、なんと、

「トラウマ」

の存在も否定します(^^;

 

アドラーはいいます。

 

 

いかなる経験も、

それ自体では

成功の原因でも

失敗の原因でもない。

 

われわれは

自分の経験によるショック

―いわゆるトラウマ―

に苦しむのではなく、

経験の中から

目的にかなうものを

見つけ出す。

 

自分の経験によって

決定されるのではなく、

経験に与える意味によって

自らを決定するのである。

 

 

う~ん、

 

私は、

トラウマの存在を

完全に否定することは

できないと考えます。

 

ちょっと極論かなあと(^^;

 

壮絶な幼児体験、

虐待、DV、戦争、災害などの記憶が、

無意識の領域から、

被害者を脅かすことは

事実としてありますので。

 

しかし、

すべてを「トラウマ」

すなわち、

「原因論」に帰してしまうと、

過去に縛られて、

「人は変われない」

ということになってしまいます。

 

壮絶な体験をされた方の中にも、

そこから立ち上がってこられる方が

いるのも事実です。

 

そう考えると、

「原因」にフォーカスするのではなく、

「目的」にフォーカスするのは、

未来志向というか、

建設的ですね(^^)

 

「目的」を変えれば、

「人は変われる」

ということになりますから。

 

哲人(岸見先生)は、

青年(古賀さん)に、

こういいます。

 

<哲人>

たとえばいま、

あなたは幸せを

実感できずにいるのでしょう。

 

生きづらいと

感じることもあるし、

いっそ別人に

生まれ変わりたいとさえ

願っている。

 

しかし、

いまのあなたが不幸なのは

自らの手で

「不幸であること」

を選んだからなのです。

 

不幸の星の下に

生まれたからでは

ありません。

 

(中略)

 

あなたは人生のどこかの段階で、

「不幸であること」を選ばれた。

 

それは、

あなたが不幸な境遇に

生まれたからでも、

不幸な状況に陥ったからでも

ありません。

 

「不幸であること」が

ご自身にとっての

「善」だと判断した、

ということなのです。

 

 

えっ、

不幸であることが、

「善」だと判断した?

 

そんなバカな!

 

青年(古賀さん)は、

さっそくツッコミを入れます!

 

<青年>

・・・

先生、あなたはわたしを

ペテンにかけようとしている!

 

認めるものですか、

そんな哲学、

わたしはぜったいに認めませんよ!

 

 

さて、

哲人(岸見先生)は、

この反論に対して、

どう答えるのか?

 

次回に続きますね(^^;

 

今回も最後までお読みくださいまして、

有り難うございました(^^)