タイムスリップ! 明智光秀は生きていた! |  レッツアイ社長 “探検家” Blog.

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皆さん、明智光秀はご存知でしょう。
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しかし、「明智光秀は実は生きていた!」というのはご存知でしょうか。


そう、織田信長を謀反にて、本能寺の変で自害に追い込んだ戦国武将です。明智光秀は本能寺の変の後、わずか13日で小栗栖の長兵衛という農民に殺されたとされています。三日天下」などと教科書では書かれたりします。

比叡山松禅院にある石灯籠には次のような記述があります。


 慶長二十年二月十七日 奉寄進 願主光秀 


これは慶長二十年に光秀が寄進した石灯籠です。しかし、慶長二十年というと西暦では1615年。明智光秀は1582年の本能寺の変の13日後に農民に殺されてるはずです。


では、なぜ33年後に光秀から寄贈されたのか。。。

もしかして、明智光秀は生きていたのでしょうか。

普通に生きていたら、間違いなく彼は豊臣方に殺されてしまいます。では、どうやって生き延びていたのか。


彼は、出家し、僧侶となり、その名を「南光坊天海」としたのです。


では、南光坊天海が光秀である証拠はあるか?気になるところですね。


ありました!


【その壱】

天海の戒名は「慈眼大師」。そして、明智光秀が建てた丹波亀山城があった京都府には「慈眼寺」というお寺があるのです。天海の戒名と、光秀を祀るお寺の名前が同じ。これを偶然と皆さんは呼ぶでしょうか。



【その弐】


天海が建設に携わったのが日光東照宮です。ご存知のように、「見ざる、言わざる、聞かざる」というサルでも有名で、徳川家康が祀られている有名な栃木の日光東照宮ですね。
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行ったことがある方はお気づきかもしれませんが、東照宮の表面には徳川家の家紋があらゆるところに書かれてあります。徳川家の家紋は水戸黄門でも有名な三葉葵(葵巴)です。しかし、軒下から上を見上げてみると、屋根の裏には大量の桔梗紋が書いてあります。実はこの桔梗紋、明智家の家紋です^^
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なぜこんなところに明智家の家紋が刻まれているのでしょうか。。

天海は、明智家の家紋を密かに書いて、後世にその権威を残そうとしたのではないかと推測できますよね^^。


【その参】

天海は日光に「明智平」という地名を残したりもしています。これは実際に今でもこの地名は使われています。


【その四】

天海が名づけ親となった、徳川「忠」、「家」のどちらの名前も、「光秀」からきている。


実はまだまだ、証拠のようなものがあるそうですが、これらも又仮説です。


しかしです!ここからは、私の解釈です^^


光秀と天海は、年齢も出身地も近いのです。また、ドラマでも話題になるくらいの、春日局(かすがのつぼね)は光秀の孫であり、しかも、徳川家光の教育係という非常に重要なポジションを得ていたことからも、かなり光秀=天海という説は正しいのではないかと考えています。また、明智光秀ほどの「才」と「知恵」のある人物が、逃げる際に『カモフラージュ』して、農民にでも、村人にでもなりすますことくらいは、余裕でできたのではないかと考えてしまうのです。また、写真もプリクラもテレビも何もない時代に、一介の農民が明智光秀と正確に認識できたのでしょうか。間違いも十分にあるはずですし、明智光秀ほどの武将ならば、影武者も一人や二人ではなかったはずです。


そして!本能寺の変の黒幕は、もしかすると「徳川家康」であったのではないかと?タヌキと言われた徳川家康です。織田信長の暗殺を裏で着々と進めていた、もしくは、操っていたのかもしれません。


私はそうどっかで思っています^^;


さて、皆さんの解釈はいかがでしょう^^




~今日のヒトコト~

歴史の真実は誰にも分からないが、解釈は人それぞれで面白い^^