泰安洋行Ⅰーーしまなみ海道を銀輪で駆ける | Let's Go Steady――Jポップス黄金時代 !

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Jポップスの黄金時代は80年代から始まった。

そんな時代を活写した幻の音楽雑誌『MUSIC STEADY』をネットで再現します。

既に11月21日(日)に北九州市若松区にある高塔山野外音楽堂で開催された『高塔山ロックフェス SUNNY DAY SPECIAL』の模様はFBやブログなどで報告している。掲載が少し遅くなってしまったが、それには理由がある。関係各所にはご迷惑をかけたが、北九州からそのまま東京へ戻らず、福山、尾道、今治、高松、徳島、南紀白浜、大阪……と流離っていたのだ。コロナ禍の自粛の反動か、県境を越えての移動を緊急事態宣言が解除されたこともあって、思い切り解禁した(!?)。

 

実はかねてから行ってみたいところがあった。広島の鞆の浦である。記憶が曖昧だが、ドラマや映画で見た瀬戸内海に突きだした常夜灯が印象に残っている。ロケ地ガイドなどで調べたが、どうやら重松清の原作でTBSがドラマ化した日曜劇場『流星ワゴン』(放送:2015年 出演:西島秀俊、香川照之、吉岡秀隆ほか)のようだ。ストーリーはよく覚えてないが、その景色だけはやけに覚えている。いつか、行ってみたいと思っていたのだ。高塔山の後、宿泊を北九州の小倉にしていた。小倉から鞆の浦のある福山までは新幹線で1時間ほど。これは行くしかないだろう。

 

22日(月)は昨日に続き、朝から雨である。雨の高塔山から雨の鞆の浦へ。これも日頃の行いの良さゆえのこと。福山駅から鞆の浦へはバス(トモテツバス)で30分ほど。雨の中を地元の中学生や観光客とともに同所を目指す。同バスは生活路線でもある。

 

バス停を終点の鞆港で降りる。雨がそぼ降る幕末のままの風情ある小さな港町を常夜灯目指し、進んでいく。歩いて数分で同所に着いた。常夜灯はちんまりと海を望む。重厚な文化財を想像していたら肩透かし。ごく自然に景色に馴染んでいた。雨の中、かもめととんびが飛んでいく。高さは約5.5m、海中の基礎部分まで入れると約11m。現存する江戸時代の常夜灯としては日本一の大きさだそうだ。日が暮れると灯りがともり、灯台として使われているという。同所は幕末の事件の舞台になったところでもある。日本の未来を照らしていたのだろうか。

 

鞆の浦といえば坂本龍馬との関りだろう。常夜灯の近くにある蔵が「いろは丸展示館」に改装されている。1867年に海援隊が海難事故を起こし、沈没した”いろは丸”の引き揚げ品が陳列され、坂本龍馬の隠れ部屋が再現されている。同事件は詳述しないし、幕末ファンみたいに坂本龍馬への思い入れはないが(福山雅治が主演した大河ドラマ『龍馬伝』はかの大友啓史が演出し、大森南朋が出演するなど、“ハゲタカ”組が関わったこともあって、見逃すことはできなかった)、何かが蠢き、変化の兆しをこの港町は感じさせる(気がする!?)。貧乏性か、常夜灯や「いろは丸展示館」だけでなく、名所と言われる雁木やいろは丸事件談判跡などを巡る。そして、鞆の浦といえば、鯛料理。名物の鯛めしに鯛の刺身や天ぷらを定食にして、食べる。鯛の滋味染みこむ鯛めしに歯ごたえ良い刺身、サクッとした天ぷら、いずれも絶品だった。どこの鯛より、美味しい気がした。

 

 

鞆の浦から福山へ戻る。その日に泊まるホテルにチェックインする前に明日の準備をすることにした。そう、明日も東京へ帰らず、立ち寄るところがあったのだ。パソコンや資料などで一杯になったバックパックの荷物を振り分けるため、サブバックやスタッフバック、ゴムロープなどを100均などで物色。一通り、買い求めてから、ホテルへチェックイン。そして夕食へと福山の繁華街へ繰り出す。広島といえば、お好み焼きである。名物を食べなければ気が済まない私である。スマホで店を検索、間違いなく当たりという感じの福山駅近くの「鉄板焼き屋田吾」をチョイス。人気店らしく、満席で少し待たされ、さらに着席して注文してからも焼きあがるまで時間がかかる。観光客向けでなく、地元民が普段使いで、ごったがえすという感じだろうか。一番人気という肉天に旬の牡蠣をトッピング。勿論、たっぷりキャベツと麺が入っている。待たされた甲斐はある。私の勘に狂いはなし、“お上品”で“お洒落”な最近の東京のお好み焼きと違って、粗野ながら素材の旨味や滋養がダイレクトに押し寄せてくる。広島のソースは甘いからマヨネーズは不要(勿論、提供しないわけではなく、店内の一角に客が自由に使えるように置いてある)というのも健康にいい!? これだけで充分、満腹だが、次に行くところがあった。天満屋の裏にあるおでんと洋食が売りという居酒屋「自由軒」である。明日のための買いだしをしている際、昼から開店している同所を見て、ここも行かなければならないと思っていたのだ。連食である。カウンターは満席だったが、丁度、席が空いたので、通してもらう。おでんとレバテキを注文する。ここのおでんは味噌をかけて食べる。店の方に適当に選んでもらったが、ロールキャベツもボリューム満点で、かつ、肉汁とおでん汁のマリアージュが絶品。そしてレバテキはレバーのステーキ。くさみやあくはなく、すんなりと食べられる。どうやら町の人気店らしい。観光客も多く、店内には吉田類など、有名人のサインがたくさんあった。この日も落語会を終えたばかりの落語家(誰かわかんなかった)が弟子や地元の主催者と来ていた。ここも私の勘に狂いはなかった。明日のためのエネルギー補給のためとはいえ、広島焼きにおでんにレバテキ……腹パンである。

 

 

23日(火・祝)、その日の朝早く福山を発ち、小倉へ数駅戻り、尾道にいた。幸い、天候は昨日とは一転、好天である。そして尾道といえば、大林宜彦監督。尾道の新旧3部作は“The Film of My Love”。勿論、ゴダイゴの“HOUSE”繋がりもある。実はそれとは別に監督とは多少の縁があった。かのKANがデビュー前に大林監督の『日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群』(1988年)の音楽を担当。大林はKANのセカンドシングル「BRACKET」のプロモーションビデオも手掛けている。私もKANのデビュー前から彼のプロジェクトに関わり、プレスリリースの作成などを手伝っていた。その縁で大林監督にも取材している。話した内容はよく覚えてないが、それ以前にレコード会社の方に大林監督を試写室で紹介され、その時に監督と握手したことが印象に残っている。暫く、手を洗わなかったは嘘だが、その大きさと温かさは忘れない。そんな大林監督作品のロケ地巡りもしたいところだが、今回は尾道から瀬戸内海の海と島を辿りながら今治を目指す。それも自転車である。しまなみ海道のサイクリングロードを自転車で走破するという目的があった。

 

かつて自転車少年で日本の各地を流離っていた。学生時代のことだが、それが時々、思い出したように目覚めることがある。昔の栄光をもう一度と、古い自転車を引っ張りだし、乗るが、運動不足で体力が追いつかず、手痛い思いをしている。過去の経験値の距離感と実際に走った距離の落差に打ちのめさせられる。ところが、このところ、サイクリング熱が再燃。昔の自転車(と言ってもロードバイク)を伊藤かずえ並みにレストアし、郊外を何度か走っている。北九州から鞆の浦へ行くことを考えた時、福山から尾道へ引き返し、尾道から<渡船>向島<因島大橋>因島<生口橋>生口島<多々羅大橋>大三島<大三島大橋>伯方島<伯方大島橋>大島<来島海峡大橋>今治へ、6つの島と6つの橋(実際に橋は7つだが、向島への尾道大橋は自転車では渡らず、渡船で行くことになっている)を渡る、それを一日で走破する(尾道でレンタルサイクルの返却場所を尾道からは最後の橋になる来島海峡大橋を渡り、今治の最初のターミナルになるサンライズ糸山までと申請した)という“冒険”だ。

 

広島観光ナビには“美しい島々とそれらを繋ぐ橋が織り成す海の道「瀬戸内しまなみ海道」。広島県尾道市と愛媛県今治市を結ぶ全長約70kmの道では瀬戸内海に浮かぶ島々の風景を存分に楽しむことができます。「サイクリングロード」は日本で初めて海峡を横断できる自転車道として有名です。”とある。

 

そもそもこんな思い付きの契機は今井裕だった。元サディスティック・ミカ・バンド、サディスティックス、イミテーションの今井のタイムラインに数年前、しまなみ海道を走破したことがアップされていた。彼は現在、生まれ故郷の大阪に移り住み、音楽活動の傍ら、陶芸やワインなどとともにサイクリングを趣味に悠々自適な暮らしをしている。ヘルメットを被り、サイクルスーツを纏い、飛び切りの笑顔が鮮烈だった。自分もいつか、そこを走ってみたいと思っていたのだ。尾道の側を通る。これは行かないわけにはいかないだろう。幸い、レンタルサイクルも借りられる。シティバイクだけでなく、ちゃんとしたクロスバイクもある。本来なら愛車を“輪行”(自転車を列車や飛行機などに持ち込むこと)したいところだが、流石、これでは荷物が多過ぎ、高塔山ロックフェスどころではなく、本末転倒になってしまう。ちなみにしまなみ海道を行くことを今井には伝えていなかった。言ってしまうと必ず走破しなければという使命感というか、強迫観念みたいなものも生まれる。自分を追い込み(?)たくないので、走り切ったら報告することにした。

 

 

尾道駅前の尾道港(駅前港湾駐車場)ターミナル(サイクリングロード上の各島には複数のターミナルがあり、営業時間内であればいつでもどこでも返却できる)でクロスバイクを借りる。前3段、後ろ6段の18段変速(多分)、これならどんな手強い坂道でも大丈夫(甘いというか、淡い期待だったことに気づくのは数時間後!?)。

 

最初の向島には橋ではなく、尾道からの渡船を利用する。大林監督の映画で度々、出て来た渡船である。便は多く、乗船時間も数分。あっという間にサイクリングロードのスタート地点に着く。今治へは道路に塗装された青いラインに沿って走ればいい。向島は小さい島で、最初は街を通ったので、海道を走る感じはなかったが、道も平坦で快調に飛ばす。楽勝か。次の因島への橋は海沿いの道から坂道を、橋が架けてある高台まで上る(基本的に橋へのアプロ―チはこの上りが連続する)。同橋は高速道路の下を通るので、海道を銀輪で駆ける爽快感はないが、とりあえず、最初の渡橋である。いよいよ、引き返せないところまで来てしまった(!?)。

 

因島は昔、レコード会社の知り合いの女性が同島の出身で、島での生活模様も聞いていたので、なんとなく身近に感じていた。勿論、初めての土地である。思いのほか、拓けたところで、造船所や鉄工所などもある。離島という感じはない。考えてみれば、尾道から10数キロ。尾道圏内(実際、かつては因島市だったが、現在は尾道市)だろう。同島は村上海賊の地で、2016年に日本遺産に登録されている。因島水軍城など、見所も多いが、まずは完走を目指し、先を急ぐ。本来であれば、和田竜の『村上海賊の娘』をちゃんと読み直して訪れたいもの。

 

しまなみ海道感が増すのは生口橋を渡り、生口島に入った辺りからだろうか。瀬戸田レモンでお馴染みの瀬戸田も同島にある。風光明媚な海沿いのサイクリングロードを走っていると、ジェラートやフルーツなど、美味しそうな店がちらほら出てくる。足もぱんぱんになっているので、“買い食いしては休む”を繰り返す。瀬戸田の早生みかんの100%ジュースやたこ天などを食べる。

 

サイクリストの溜まり場的なターミナル「瀬戸田サンセットビーチ」では、尾道といえば尾道ラーメン、広島の最後(次の大三島から愛媛県今治市になる)に尾道ラーメンを食べる。名物を制覇することは忘れない。丁度、朝ドラの昼の再放送をしている時間だった。尾道を出て、向島に渡ったのは8時前、生口島の瀬戸田サンセットビーチは午後1時前。5時間もかかっている。スローペースだが、これがいまのところ、精一杯。途中リタイアも頭をかすめてくる(笑)。

 

生口島から大三島へ渡る多々羅大橋を目指し、坂道を上っていると、踏ん張ると太ももがつりそうになる。そんな危険な自転車漕ぎを繰り返したが、ここで足がつってしまったらこれから先へは進めない。坂は漕ぐのを諦め、自転車を降り、押して歩くことにする。不思議なことに歩く分には釣る気配はなく、普通に歩ける。以後、坂が来るたび、歩くが、坂を上り終え、下り坂や平坦な道は漕ぐことにする。坂を上り切れば橋は平坦な道で、橋を渡り終えれば下り坂が待っている。火野正平はNHKの『ニッポン縦断こころ旅』で、“人生下り坂、最高!”と連呼しているが、まさにその気分。なんとか、多々羅大橋を超え、大三島へ辿り着く。

 

大三島には道の駅「今治市多々羅しまなみ公園」があった。同所には“サイクリストの聖地”の碑もある。多々羅大橋をバックに写真に収めた。道の駅には、瀬戸内海で獲れた新鮮な魚介類(食通の間では幻の高級魚と呼ばれる「マハタ(ハタ科)」やひらめ料理)・農作物を用いた料理が味わえるレストラン「多々羅夢岬」や特産品センター、柑橘類や新鮮な野菜等の販売を行っている農水産物直売所がある。道の駅マニアとして、長逗留したいところだが、この時点で2時、まだ、先は長い。サイクルターミナルで情報を仕入れ(この先も坂がきつく、距離もあるらしい)、暗い気持ちで急いでペダルを漕ぎだす。

 

暫くは海を望む平坦な道が続くが、すぐに伯方島(伯方の塩で有名!)に渡る大三島橋へのアプローチが始まる。急峻な坂道を進んでいく。ペダルを漕げる時は漕ぎ、漕げない時は自転車を降りて押していく。当たり前だが、歩きを止めなければ、ゴールまでの距離を縮めることができる。これはサイクリングをしていて、学んだこと。要は休んでも歩きを止めない――と、人生哲学めいたことが脳裏に去来するが、実際は朦朧の一歩手前というところか。

 

大三島橋を渡り終えると、伯方島である。同島は縁を走るので、距離は短いが、疲れが蓄積していく。青息吐息状態である。それでもなんかとか、ごまかしながら進み、最後の島、大島への伯方大島大橋を渡る。海上の橋は風が吹きつける。それも向かい風である。思わず、身体が持っていかれそうになる。今治へは最後の橋、来島海峡大橋を渡らなければならない。橋までの登坂は1.2キロ、海抜は78メートル、橋の全長も4キロある。しまなみ海道のサイクリングロードでは最長だ。それ以前に伯方大島大橋の出口から来島海峡大橋へ入口までの距離はとてつもなく長い。橋のアプローチのための坂だけでなく、島へ入るなり、海沿いではなく、山中を進むから、トンネルや峠が待ち構えている。まさに艱難辛苦。サイクリングロードを漕いだり、歩いたりを繰り返していく。時間はかかるが、距離は縮まらない。あてどもなく遠い。これはそろそろ撤退も考えなればならない、そんな思いが込み上げる。幸い、同島にも自転車を返せるターミナルは複数ある。

 

最初のターミナル「宮窪観光案内所」は何とか、やり過ごすが、そこを過ぎてからも長い。最大の難所、宮窪峠が立ちはだかる。過酷なヒルクライム、アップダウンを繰り返していく。相変わらずの漕ぎと歩きの繰り返しだが、なんとか、同島の最後のターミナル「道の駅 よしうみいきいき館」へと辿り着く。既に5時を過ぎていた。当然、陽も落ちかける。自転車にライトは付いているが、小さいものなので、心許ない。同時に田舎道、街灯など、望むまでもない。これは自転車を乗り捨てし、バスなどで今治に移動するか、もしくは自転車を乗り捨てず、同ターミナルに一旦、返すも同島に宿泊し、翌日、再び自転車に乗ることを考えていた。そんなことをターミナルの方に相談していたら、来島海峡大橋を渡りさえすれば今治、サイクリングロードの橋は同所に限らず、高速の橋を利用(サイクリングロードが隣接)しているので、街灯はあると教えてくれる。橋の上り口もすぐそこだから、走り続けることを勧められる。大丈夫だから行きなさいと、励まされる。この年齢になって、人に激励されるなんて、そうないことだ。田舎のすぐは果てしなく遠いことを知っているので、たじろぐが、そこまで言われれば“行くっきゃない”――私の隠れたヤンキー魂がもたげてくる(嘘)。漕ぎ&歩きを覚悟で先に進むことにする。

 

果せるかな、来島海峡大橋へのアプローチの入り口はターミナルからすぐそこにあった。狭い坂道を漕ぎ&歩きで上る。辺りが暗くなり始めると、常夜灯が点る。その先を照らしてくれる。橋梁部分だけでなく、1.2キロのアプローチは足元がふらつきながらもその道筋を外すことはない。来島海峡大橋のとば口に辿り着くと、暮色が橋を包む。幻想的な光のグラデーションである。あと、一気に渡り切るだけだが、楽はさせてくれない。向かい風が猛威を振るう。自転車で漕いで進むも風に煽られ、荷物が多く、重心が上になっているため、走行が安定しない。気を抜いていると、蛇行し、転倒しそうになる。ここは安全を考え、漕ぎ&歩きを繰り返し、距離を詰めていく。橋の半分を渡る頃にはすっかり暮れ、漆黒に包まれるが、高速の道路照明が道を照らし、夜空の星がほほ笑む(そんな愛でるような余裕はなかった)。

 

さらに1時間ほど、進むと、当初、ゴールに設定したターミナル「サンライズ糸山」への道標が出てくる。それを目印に狭い急な坂道を下っていく。そこも常夜灯が点っている。光のプロムナードが「サンライズ糸山」へと導いてくれる。同所で自転車を返すことにする。午後7時近かった。今治駅前のターミナルは6キロほど、同所の営業時間は8時なので、間に合わないこともなかったかもしれないが、これ以上、身体が動きそうにない。予定通り、しまなみ海道を渡り切ったということで“走破”とする。尾道の向島の渡船場から今治のサンライズ糸山まで、走行距離は約70キロ、所要時間は休憩を含め、約11時間。時間はかかったが、とりあえず、完走だろう。既に市内へのバスはなく、タクシーで市内へも考えたが、同所には幸い宿泊施設もある。飛び込みだが、泊めてもらう。同所のレストラン(地産地消のレストランでイタリアンベース。ちょっとお洒落だ。ご当地グルメのせんざんき<鳥のから揚げのこと>のカレーを食べる)で夕食を取り、風呂に入る。ベッドに潜り込むと、そのまま寝落ち。勿論、その前に今井裕にはしまなみ海道を走破したことを報告している――。

 

 

(写真上段左から)鞆の浦の常夜灯、尾道渡船場、生口島大橋、サイクリストの聖地(大三島)、来島海峡大橋

 

 

※「泰安洋行Ⅱーートロピカルなダンディーとサディスティックな海賊」に続く

 

はじめてのしまなみ海道サイクリング

https://shimanami-cycle.or.jp/cycling/