(「It’sToo Late To Stop Now! 『ロッカーズ・トーク・ライヴ番外編!』1」から続く)
1980年9月21日 デビュー・アルバム『WHO TH eROCKERS』が発売される。同作はご存知のように成田の観福寺で録音されている。ニューヨークドールズが地下室や教会で録音しているなら、日本は寺社だろうという思い付きからだ。ライヴ一発録り、ライヴの勢いをそのまま、詰め込む。穴井は急遽、寺で録音することになったため、寺の近くの宿泊施設は食事の準備が満足に出来ず、毎日、出るのはイカ天丼だったという。冗談のような本当の話のようだ。
ラモーンズのような性急なビートとニューヨークドールズのようなグラマラスな華やかさは話題になる。レコード会社からはヒット賞を貰うが、彼らがイメージするヒットとはほど遠いものだった。しかし、アルバムは半年に1枚のペースでリリースすることが決まっていた。1981年3月21日 セカンド・アルバム『COME ON』発売。前作の勢いのまま、多彩な音楽を詰め込むが、初めてのスタジオ録音、彼らやスタッフに“ロックンロールレコード”をスタジオで作り上げるノウハウはなかった。
後にルースターズやモッズが続き、“めんたいロック”、“めんたいビート”と、話題になるものの、アルバムのセールスは好転せず。彼らを気にいっていた演歌班のプロモーションマンが何とか、ラジオやテレビの番組を取ってくるが、演歌ファンやタクシー運転手やトラックドライバー向けの番組のため、空回りも甚だしく、滑りまったという。また、レコード会社対抗運動会にも出たという。その時、同じレコード会社だった田原俊彦や研ナオコ、岩崎良美などと、優勝を記念した集合写真、船越と所ジョージのツーショットを公開。ついでに、彼らのブロマイド(!)までも公開した。秘蔵写真の蔵出しである。
というところで、既に時間は9時近く。1時間30分は優に過ぎる。会場も熱くなったので、ここで第1部が終了。休憩となる。まだまだ、紹介しなければならない音源や映像、サイプライズ、スペシャルもあるのだ。
20分ほどの休憩後、第2部が始まる。1981年9月21日 サード・アルバム『SHAKIN'』 発売。その頃には手持ちのオリジナルはほとんどなく、なんとか、曲を絞り出したという。ある意味、試行錯を繰り返す。バラバラで統一感はない。また、レコード会社からは売れる曲、ポップな曲というリクエスト(というか、圧力!?)もかかる。そんな中から生まれたのがいままでの早いビートのロックンロールとは趣を異にするミディアム・テンポの「涙のモータウェイ」である。残念ながらヒットすることはなかったが、のちに多くのものから愛されたように、穴井は「あの曲があってよかった」という。かの“24時間テレビ”で、彼らが同曲を新宿ロフトで演奏しているところに欽ちゃん(萩本欽一)と宮崎美子が中継にやって来るということになっていたが、なかなか、彼らは来ず、しかたなく、同曲を10分以上、演奏したという。“Hurry Up Hurry Up”というフレーズは、欽ちゃんに向かって、叫ばれる。
1981年12月5日 フォース・アルバム『HANKY PANKY?POP COME BACK』(カバー・アルバム)発売。同作は近田春夫プロデュースの作品だが、レコード会社主導で進められたもので、メンバーとしての発案ではなく、オリジナルではないこともあって、今回のリイシューからは外れている。ただ、近田との共同作業で学ぶことは多く、実は気に入っているらしく、ロッカーズ後の活動で、いまだにカバーをしているという。また、エルビス・プレスリーやトミー・ジェイムスとザ・シャンデルス.ロイ・オービソンの曲をカバーするということで、放送局のレコード室に入りびたり、膨大な量のレコードを聴いたことも印象に残っているそうだ。
ロッカーズの終わりの始まり、始まりの終わりが足音を上げて、近づいてくる。メンバー間の不和、レコードのセールスの不振、ライヴ・ハウスからホールへの転身も思うように進まず、不協和音を奏で始める。誰彼となく、解散を意識せざるを得なくなる。鶴川と穴井が1981年12月31日 、「ニューイヤーロック・フェス」出演後、脱退する。
翌82年1月に橋本潤が参加するが、解散は規定路線であったという。“解散公演”の日程を消化するため、ベーシストをオーディションをしたという。橋本は2日間で全曲を覚えるなど、驚異的な努力をする。後述する映画『爆裂都市/BURST CITY』のサントラで使用されたロッカーズのナンバー「視界ゼロの女」(作詞:泉谷しげる・作曲:陣内孝則)のシングル・ヴァージョン(クレジットは陣内孝則名義)は、ロッカーズ参加後、橋本の初のレコーディングになる。また、橋本と同時に“弱冠18歳、稲妻サーブが得意”というギタリストが“秘密兵器”として、ロッカーズ参加予定されていたが、秘密兵器は秘密兵器のままに終わる。詳述はできないが、メンバーには相応しくない言動や行動があったからとだけしておこう。ちなみに秘密兵器に関しては、事前に船越と穴井に聞き、敢えて会場では言及しなかった。
話は前後するが、81年、同郷の石井聰互監督の映画『爆裂都市/BURST CITY』に陣内と鶴川は同郷で同期のバンドであるルースターズの大江慎也、池畑潤二らと劇中のバンド「バトルロッカーズ」のメンバーとして出演。
82年3月の公開に際して、バトルロッカーズ、ロッカーズ、ルースターズとの共演もあった。陣内は既に解散を決めていたが、ルースターズとの共演は、楽しかったらしく、もう少し活動をしたいと思ったそうだ。解散前提のコンサート・ツアー、ある意味、消化試合みたいなものだが、そうはならず、最後までテンションを維持できたのは、この共演があったからではないだろうか。
そして、1982年6月28日 青山タワーホール「爆裂 TH eROCKERS ザ・ロッカーズ解散コンサート」を最後にロッカーズは解散。メンバーには陣内、谷、船越、橋本の4人だった。当日の陣内のMCを含め、秘蔵音源を蔵出しする。“俺達が大きくなって、また、やることがあれば集まってくれ”という陣内のMCは泣かせる。実は穴井もスペシャル・ゲストとして出演。会場からは穴井コールが巻き起こる。
ロッカーズは解散。メンバーは別々の道を行くことになる。陣内は役者として成功を収めていく。敢えて言うまでもないだろう。
(「It’sToo Late To Stop Now! 『ロッカーズ・トーク・ライヴ番外編!』3」に続く)