先日、祖母の七回忌が浅草の料亭であって、久しぶりに親族が集まった。私の父は五人兄弟の長男だが、既に他界している。父の弟達はいずれも健在で、それぞれに配偶者を伴って出席した。同席を仕切ったのは長兄の妻であった私の母である。私も弟夫婦とともに夫婦で列席した。
みんな、歳を重ね、いい感じにくたびれてきている。持病を抱えるものも多く、次に顔を揃えるのは誰かの葬式かという状態である。
そんな中、思い出話に華が咲く。祖母は100歳まで生き、私が結婚するまで同居し、体調を崩し都の施設(東京西多摩郡の瑞穂町にあった!)に入った後も定期的に見舞いには行っていた。だから祖母のことはよく覚えている。祖母は戦前から東京に暮らしていたから東京大空襲など、当時の話も聞いてはいた。
だが、祖父に関しては、私の父が学生の頃に亡くなってしまい、当然だが、面識もなく、父親から祖父の話をあまり聞いたことはなかったのだ。
父のすぐ下の弟、次男が久しぶりに兄弟が集ったことが嬉しかったのか、酒の酔いに任せ、祖父のことを語り出す。
祖父は中部日本の雪深い国で生まれ、中学を卒業すると、丁稚奉公のため、上京して、下町の大店に勤めることになったという。その大店は、柳橋や浅草など、いわゆる粋筋の集う場所に隣接していた。場所柄か、その旦那も遊びを解する、豪胆な人だったらしい。如才ない祖父は、そんな旦那に随分と可愛がられたようだ。
祖父は旦那の薦めるまま、西日本から上京して、下町の大店に女中奉公していた祖母と結婚する。結婚するまで会ったことも話したこともなかったというから驚く。
二人は独立し、隅田川と神田川が交差する下町に紙製品を商う店を立ちあげる。昼も夜もなく、働き、その商店は成功。その生活も裕福になったという。番頭や丁稚、女中なども住み込みで働いていたらしい。また、自動車があるのは、近所では我家だけだったそうだ。
そんな家にも軍靴の響きが聞こえてくる。祖父は徴兵されることはなかったが、統制経済の中、闇商品を扱い、特高警察に逮捕されたという。この話は、何故か、父からも聞いていたが、インディアンペーパー(本来は、辞書などで使う不透明で乳白色で薄い洋紙)という煙草を巻く紙を闇で流していたらしい。警察に捕えられた祖父は執拗な追求や拷問まがいのことを受けたが、決して取引先を明かさず、終戦を迎えたという。嘘のような本当の話らしいが、まるで、浅田次郎や重松清の小説のようだ。大河小説が作れそうではある。
店そのものは東京大空襲で、灰燼に帰したが、元々、あった店から数分のところに住居を兼ねた店を建てた。その商店は戦後も躍進を遂げる。力道山の時代には、テレビのあったのは近所では我が家くらいだったそうだ。
祖父は父が大学生の時に亡くなり、長男であった父が大学を卒業すると稼業を継ぐことになる。父親は祖父の商才を引き継ぎ、商店を会社へと大きくしていく。弟たちも学校を卒業すると、父を手伝い、会社を盛り立てる。
私の父は、学生時代は歌舞伎や能、狂言、古典落語、漫才などを愛好し、歌舞伎などの評論するため、文学部国文科に通っていた。前述のように、夢半ばで、家業を継ぐことになった。祖父の商才だけでなく、自動車やテレビを誰よりも早く買うという先取性みたいなものも引き継ぐ。祖父そのものも旦那衆に可愛がられただけあって、多少なりとも歌舞音曲を嗜み、花柳界にも縁があったらしい。
そんな血なのか、後年、会社が落ち着いてくると、芸妓や幇間などとも親交を結び、同時に獅子倶楽部や輪番会にも参加することになった
私の母は“神田小町”言われ、引く手数多だったらしいが、縁があった父と結婚して、私が生まれる。戦後はもはや終わり、高度経済成長とともに、私は何不自由なく育った。幼稚園も下町の学習院といわれるところへ都電で通っていた。その送り迎えを女中や番頭がしていたのだ。
日本橋や銀座のデパート、九段のベーカリー、麹町のレストラン、青山のユアーズにも何度も連れて行ってもらった。
昔の両親の写真を見ると、とてもお洒落で、どこか洗練された佇まいがあった。年代を遡ると、古色蒼然としたものを感じるのだが、何故か、古臭さはなく、今にも通じるモダンさがあったのだ。ある種の美的感覚や感性は時代を超えるのかもしれない。
私自身は“売り家と唐様で書く三代目”という、まったくの親不孝ものだが、その美意識みたいなものは少なからず、受け継いでいるのではないかと思っている。“粋”や“いなせ”を貴ぶという嗜好があるようだ。
自分語りが長くなり、甚だ気恥ずかしい限りだが、“三代前(本当は二代前)からの粋人”を偲び、東京の粋というものを改めて問う、祖母の七回忌ではあった――。
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昨年、佐野元春の『NO DAMAGE DELUXE EDITION』のプロジェクトに関わらしていただいた。その際、彼と何度か打ち合わせをする機会があったが、彼が当時の『SOMEDAY』など、一連の作品群を“地方のヤンキー文化への都市リベラルからの反撃”というニュアンスで、表現したことがあった。正確な引用ではないので、「」ではなく、“”で括らせていただくが、確かに、当時はロック=不良という紋切型の音楽が蔓延する中、東京生まれ(神田の生まれだ)・東京育ちの彼の音楽は都会的でおしゃれであった。それゆえ、日本ではなく、海外の風景を歌っているとまで評されたが、果たしてそうだろうか。確実にその時の東京には、佐野が歌う景色があったのだ。
そんなモダンで、ヒップな音楽群は、突然変異として立ち現われるのではなく、日本の音楽界に脈々と息づき、静かに流れている。歴史を遡ると、古臭くて時代遅れなものばかりと錯覚しがちだが、必ずしもそうではない。
粋な風をあつめて、はらむ音楽の潮流があるのだ。戦前、戦後問わず、そんな音楽は存在する。かの服部良一(1907年10月1日―1993年1月30日)が作った「別れのブルース」(淡谷のり子)や「蘇州夜曲」(渡辺はま子、霧島昇)、「一杯のコーヒーから」(霧島昇、ミスコロムビア)、「銀座カンカン娘」(高峰秀子)、「東京ブギウギ」(笠置シズ子)などを聞いてもらいたい。You Tubeなどで探せば出てくるはず。いま聞いてもそのモダンさに驚くだろう。
実は、そんなことをいまさらながら再確認する契機となったのが佐野元春と雪村いづみの共演盤『トーキョー・シック』である。
雪村いづみといえば、1953年に15歳でレコード・デビューし、元祖・三人娘 (美空ひばり・江利チエミ・雪村いづみ) と呼ばれて活躍。75歳を迎えた今もなお、圧倒的な輝きを放ち続ける国民的歌手である。まさに生きる“レジェンド”。
既に「トーキョー・シック」は2012年5月、アイチューンズ・ストアから、デジタル配信のみの限定リリースがされている。音源は、50年代の雰囲気を再現しようというこだわりから、ステレオ・ミックスだけでなく、モノラル・ミックスも用意された。オリジナル、モノラル、インストルメンタルの3トラックEPとなった。
そのリリースに先駆け、佐野元春フェイスブック(Official)でもレコーディングの模様が報告されたが、日本のビッグ・バンド・ジャズ界の重鎮にして、佐野のバラード集『Slow Songs』でも共演している前田憲男の編曲・指揮で、今となっては貴重なビッグバンド形式でのレコーディングとなったのだ。
佐野は「両親が若かった頃や、雪村いづみさんが登場した時代に想いを馳せて書いた」と語る。
佐野元春と雪村いづみの共演盤『トーキョー・シック』には同「トーキョー・シック」(勿論、ステレオ、モノラルの両バージョン、そしてライブ・バージョンもある)を始め、同じく雪村いづみのために書き下ろした「もう憎しみはない」、そしてモトハル・クラシックスとでもいうべき「こんな素敵な日には」、「Bye Bye Handy Love」を収録。
いずれも前田憲男の編曲、指揮の下、“レジェンド”ともいうべきベテラン・ミュージシャンが集い、彼らの歌を彩る。そのモダンでスタンダードな響きは懐メロになることなく、時を超え、粋な音を運ぶ。雪村の溌剌とした歌声は聞くものの気持ちを鼓舞するような力強さがある。かといって、決して暑苦しくはなく、涼しげでもある。やはり粋とでもいうべきだろう。
また、生まれ変わったモトハル・クラシックスも時を経て、いまの佐野の声で歌われると、オリジナルよりもしっくりとくる。
以前、大滝詠一が1984年に『EACH TIME』をリリースした時、幻のアルバム『2001年ナイアガラの旅』ついて、こんな風に語っていた。
「53歳だよ、2001年は。いいとこだね。ビンクロ、ディーン・マーチン風にせめるぜ、おい(笑)」
佐野は既に53歳を過ぎてしまったが、彼もビング・クロスビーやディーン・マーチン風にせめ、歌う。まさに決まっているのだ。オリジナルの若々しい溌剌とした歌唱も悪くないが、滋味あふれる歌唱も良い。歌手としての深みが増したようだ。
佐野はライナーノーツに、こう書いている。
「かつて僕の両親が恋人同士だった頃、ふたりはよく新橋のダンスホールで踊っていた。僕が生まれる以前の話だ。そのダンスホールには、まだ十代だった頃の雪村いづみが専属歌手として唄っていた。僕の両親は 彼女の歌声に合わせて踊り、ロマンスを育んでいたのだ。両親が生きていたら、今回の雪村さんとのセッションを見て何と思うだろう」
そのライナーノーツには、アルバムを今は亡き両親に捧げる献辞とともに、両親の写真も掲載されている。まるで二人とも人気役者(多分、佐野の母親は一時、舞台役者をしていたと思った)のような風貌で、その出で立ちもモダンで、シックだった。
共演盤『トーキョー・シック』はCD1枚+DVD1枚の2枚組だが、DVDにはレコーディング・セッションの模様と、佐野と雪村が共演した2012年5月のビルボードライブ東京の模様も収録されている。「トーキョー・シック」だけでなく、「LOVE」や「恋人になって」、「ケ・セラ・セラ」などのスタンダードも歌われている。DVD自体も単なるドキュメンタリーではなく、まるでライ・クーダーの“ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ”ではないが、天性の歌声と熟練の音との邂逅、そして新旧の共同作業、偶然ではなく、必然とでもいうべき瞬間を歴史に留めるだけでなく、いまという時代も刻印する。まさに逸品である。CDを聞くだけでなく、DVDも忘れずに見てもらいたい。
また、佐野と雪村の共演盤『トーキョー・シック』とともに、佐野元春が監修した雪村いづみの60周年を記念したCD2枚+DVD1枚という3枚組のオールタイム・ベスト・アルバム『スーパー・シック』も必聴である。同作品には、かのキャラメル・ママとの世代を超えたコラボレーションも収録されている。また音源だけでなく、映像もアーカイブ的価値のあるものばかり。時代を超えた雪村いづみのモダンが体感できる。
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佐野と雪村の共演盤『トーキョー・シック』にパッケージされたDVDだが、同作品をディレクションしているのは映像クリエーターの近浦啓だ。その彼が制作に関わったのが、「名盤ライブ『SOMEDAY』」のCS放送に併せて制作された佐野元春のファンを取材したドキュメンタリー「『SOMEDAY』そして、今」である。アルバム『SOMEDAY』から31年、共に“生き抜いてきた”オーディエンス達の記録である。
私は見る機会を逸していたが、先日、同作品に関わったスタッフの方からDVDをいただき、遅ればせながら見させていただいた。
昨2013年11月に東京と大阪で開催された「名盤ライブ『SOMEDAY』」に駆けつけたファンを取材したものだが、会場でコメントを取っただけではなく、彼らが生まれ、生活している街まで追いかけて取材をしている。東京、大阪のみならず、地方都市まで飛んでいる。
それぞれの31年間が語られる。いわゆる著名、有名という類ではなく、まったくの市井に暮らす人達ゆえ、マスコミが興味を引く大きなドラマはないが、いかに佐野の音楽が彼らの人生や生活に寄り添い、彩を与えてきたかが、わかる。彼らが佐野から受けた啓示によって、ここまで来させたといっていいだろう。
詳述は避けさせていただくが、いくつか、印象に残る言葉や光景があった。地方都市に住み、いまは親が創業したスーパーを切り盛りしているという男性が、「最初は独特の気取りやすかしたところがあって、馴染めなかった」と言っていたが、いつしか、その音楽の虜になり、いまも聞き続けているという。東京から地方へ、その伝播には少し時間がかかったが、一度、その魅力に嵌ると、逃れられないようだ。
そして、佐野の音楽を両親が車で掛けているうちに、知らぬ間に子供が覚え、いつしか、ギターを弾き語りして、家庭で“リサイタル”をするまでになった。その幼子、今は自作の詩を書き、それをポエトリーリーディング(!?)している。時代や世代の連なりというものを感じないわけにはいかない。
長々と書いてきて、ソチ五輪報道のような、こじつけくさい、物語の盛り過ぎかもしれないが、東京の粋――トーキョー・シックは、いろんなところで生まれ、時代や世代、場所を超えて育っていく。“CHIC GOES ON!”だ。