Let's Go Steady――Jポップス黄金時代 !

Let's Go Steady――Jポップス黄金時代 !

Jポップスの黄金時代は80年代から始まった。

そんな時代を活写した幻の音楽雑誌『MUSIC STEADY』をネットで再現します。

2022年、2023年、そして2024年と、3年続けて、久留米へ行ってきた。いうまでもなく、福岡県久留米市は鮎川誠の生まれ、育った街である。彼に縁あるイベント“サマービート”を見るためだ。3回の同イベントの模様はめんたいロックの応援サイト「福岡BEAT革命」のHP、FBページ、そして私のブログ「let's go steady 」などで紹介している。いずれも長文だが、文末にリンクを貼り付けておくので、時間があれば読んでいただきたい。


久留米の“ツアーめし”を改めて紹介しておく。先日、久留米を訪問して気づいたが、基本的にラーメンと鰻しか、食べていなかった。それが知らぬ間にルーティンになっていた。いろいろ調べてはみるものの、基本的に久留米ラーメンと鰻でしか、検索していなかった(笑)。



この8月12日(月・休)に福岡空港から地下鉄空港線で博多、そして同じく地下鉄七隈線の博多から薬院へ、同所で西鉄に乗り換え、西鉄久留米駅を目指す。天神乗り換えより、スムーズに行けるのは気のせいか。久留米駅は西鉄だけでなく、JRもあるが、やはり次の行動を考えると西鉄になる。馴染のない駅名を眺めながらの小旅行も悪くないだろう。

西鉄久留米駅に着くと、今年も吉田羊が笑顔で出迎えてくれる。彼女は久留米出身の俳優で鮎川誠や藤井フミヤ、松田聖子などとともに地元を代表するスターである。久留米は神戸の灘、京都の伏見と並ぶ、三大酒どころの一つに数えられ、吉田は地元の清酒メーカー「雲海酒造」の「木挽BLUE」のテレビCMやポスターなど、イメージキャラクターを務めている。大型ポスターがタクシー乗り場に面する壁に貼られている。3年前は別の場所だったかもしれないが、何か、彼女の顔を見ると長旅の疲れ(!?)も癒されるというもの。

 

▲2024年の吉田羊

久留米ラーメンは博多ラーメンの元祖と言われ、久留米は豚骨ラーメンの生まれ故郷でもある。今年は屋台から始まり、いまはモールや駅のフードコートなどにも出店している「久留米ラーメン清陽軒 諏訪野町本店」にした。HPを見たら焼きめしとラーメンのセットが推薦されていた。セットだと料金もお得になるという。町中華の基本だが、久留米の町中華はいかがなものか。同店の本店は西鉄久留米駅から一駅、西鉄花畑駅にある。駅から国道沿いを歩き、10分ほどだという。当然だが、歩けない距離ではないし、まして定休日(火曜日)でもない。これが行くしかないだろう。当初は「大砲」も久しぶりにいいかと思ったが、検索したら店の状況が表示され、混んでいるとあった。清陽軒は花畑駅から灼熱の国道を歩いていくと、大きな駐車場があり、警備の方が交通整理をしていた。流石、人気店だけある。既に長蛇の列で整理番号を発券してもらい、あとはひたすら待つのみ。お盆ということもあり、家族連れも多い。久しぶりの帰省、思い出の味を食べたくなるというものだろう。

店内に入ると、カウンター席メインで、古い屋台の雰囲気をそのまま残す。注文は久留米ラーメンと焼きめしという推しのメニュー。創業時の味「屋台仕込みラーメン」と、ラードを使わないすっぴんの味「すっぴんラーメン」があるが、まずは基本の屋台仕込みにする。そのラーメンに味玉もつける。勿論、名物の久留米焼きめしも頼む。行列に並んで30分後には着丼したが、人気店だけある。見栄えも含め、シンプルでオーソドックスながら味は外さない。久留米=濃厚という先入観を抱くものだが、なんの抵抗もなく、胃袋に収まる。年齢、性別を問わずの味である。焼きめしがなければ替え玉やすっぴんラーメンも食べたいところだが、自粛(笑)しておく。

 




「久留米ラーメン 清陽軒」
https://seiyo-ken.jp/index.php

 

 



久留米ラーメンは初訪問の2022年に「大砲ラーメン」、翌2023年には「丸星ラーメン」を食べている。「大砲」は久留米ラーメンの老舗で「呼び戻しスープ」発祥の店と言われている。同店は久留米へ行く前から行こうと決めていたところだ。番組名はうろ覚えだが、フジテレビのバラエティでスターの地元で皆様への恩返しとして、地元の飲食店や運動具店や学校、塾などを訪れ、爆買いして、地元に還元するというもの。最高額は100万円だったと思う。その番組で藤井フミヤが行きつけの店として、「大砲ラーメン」を紹介していた。見るからに美味しそうなラーメンで、久留米に行ったら絶対、食べようと思っていた。幸い、本店は西鉄久留米駅から徒歩10分ほど、検索すると「大砲」が必ず出てくる。行くしかないだろう。老舗ながら昔の味といまの味を提供。替え玉ではなく、連食してしまった(丼のサイズはややこぶりで一度に二つの味を楽しめるセット。現在はHPを見る限り同メニューはないみたいだ)。初の久留米ラーメンは味は濃過ぎて、胃にもたれるという既成概念を打ち破り、濃厚ながらまろやかな久留米ラーメンの虜になる。混んでなければもっと行きたいところだ。



 

「久留米 大砲ラーメン」

 

 


▲2023年の吉田羊

 

丸星ラーメンは国道3号線沿いにある久留米ラーメン初の24時間営業店(現在は24時間営業を中止している)で、往時はトラック野郎がこぞって来たという。同店は肉じゃがやさつまあげなど、総菜が無料で提供される(おでんもあるが、それは有料である)ことでも有名。


西鉄大牟田線の宮の陣駅から徒歩10分ほどのところで、国道を店に向かって歩いていくと、大きな駐車場と年季物の暖簾が目につく、たくさんの人達が列をなす。何か、ロードサイドに湧いたオアシスというか、国道にちんまりできたたまり場か。中を入ると家族連れなども多く、町外れの大衆食堂、国道沿いのドライブインという趣き。何かロードムービーのワンシーンを思わせる。ロードムービーというか、フーテンの寅さん(ある意味、ロードムービー)が立ち寄りそうなところで、お店のおばさんたちが要領のよくない男達の穴を叩き、騒ぎはしゃぐ子供達に久留米流を躾ける。味そのものは非常にオーソドックスな久留米ラーメンで、煮物や漬物など、総菜そのものも平凡で特段、秀でたものはないが、久留米の味を嗜むというより、何か、その風景に溶け込んでいる自らが愛おしくなる、そんな味わいのあるラーメン屋だった。

 

「丸星ラーメン (丸星中華そばセンター)」
https://tabelog.com/fukuoka/A4008/A400801/40000225/

 

 



実は「大砲ラーメン」での偶然の出会いが久留米の鰻屋へ行く契機になった。何十年も合わなかったのが、偶然とはいえ、福岡の久留米で出合うなんて、そうあることではなく、何か不思議な縁みたいなものを感じる。

少し長くなるが、説明しておこう。2022年の久留米行きは鮎川誠の生誕の地、かの地のイベント“サマービート”を見るために福岡へ行ったのだが、それだけではなかった。下山淳(G、Vo)、ヤマジカズヒデ(G、Vo)、穴井仁吉(B、Vo)、武田康男(Vo、G)、KAZI(Dr)が結成したEli & the Deviantsの福岡、熊本公演を見るという目的もあった。熊本公演の2日後、久留米で“サマービート”が開催される。Eliのツアーは穴井の骨折のため、現在、SION'S SQUADなどで活躍する中西智子(B)がエキストラメンバーとして参加している。

 

熊本のEli& the Deviantsの公演を終え、メンバーと別れ、車で鹿児島へ移動して宿泊、翌日、レンタカーを熊本で返却。その後、電車で熊本の玉名温泉へ寄っている。2日間、温泉三昧して、久留米へ移動するという行程である。行き当たりばったりの思い付きだが、阿蘇では赤牛、鹿児島では黒豚、玉名では馬刺しや焼き鳥を食べることができた。玉名は行くまで、全く知らなかったが、同地は映画『男はつらいよ フーテンの寅』シリーズの御前様役で知られ、小津安二郎監督の『晩春』や『麦秋』、『東京物語』などにも出演した俳優・笠智衆の出身地である。2015年に玉名市名誉市民になっている。

 

▲熊本 赤牛

 

 

▲鹿児島 黒豚とんかつ

 

 

▲玉名温泉 馬刺しと焼き鳥




 

 


なかなか、風情のある玉名を出て、後ろ髪をひかれつつ、JRから西鉄に乗り換え、久留米を目指す。とにかく久留米の初ラーメンは「大砲」と決めていたが、いろいろ検索すると、ラーメンだけでなく、鰻や焼き鳥などがご当地グルメとして出てくる。その中で良さそうな店があった。西鉄の大善寺から車で10分という鰻屋「富松うなぎ屋黒田本店」という店である。駅からタクシーで10分は地方のタクシー事情から大変そうだが、まずは同店に電話して、どれくらい行列が出来ていて、どのくらい待てばいいか、電話をしてみる。お店の方はお盆のため、既に大行列が出来ていて、3時間は待つと普通に言われてしまった。流石、3時間待ち、おまけに駅からタクシー移動……それらを勘案すると、食べ終える頃には既に“サマービート”は終わっている。これでは何のための久留米行きかわからなくなる。あきらめるしかなかった。その代わり、大砲で“奇跡”が起こった。

 

▲JR久留米駅にある「とんこつラーメン発祥の地 久留米」

 

▲西鉄久留米駅

 

▲2022年の吉田羊

 



当然、「大砲」は大行列店、名前を記帳して、順番を待っていると、知り合いから声をかけられた。某雑誌の手伝いをしていた時、度々、原稿や撮影を頼んでいた方で、いまは宮崎に暮らし、農産物復活プロジェクトやフットパスなどの活動している。彼とは5年ぶり以上かもしれないが、聞けば“サマービート”を見るため、車で久留米へやってきて、この日は久留米に泊まるという。

大善寺の鰻のことを話すと、明日の朝、ホテルへ迎えに行くから一緒に行こうという。まさに渡りに舟。諦めていた鰻が現実味を帯びてくる。彼と翌朝にホテルで待ち合わせして、同所を目指すことにする。思いもかけない同行二人になった。

翌朝、ホテルに彼の車が横付けされ、富松うなぎ屋黒田本店へのドライブが始まる。久留米の観光サイトには“かつて筑後川は天然うなぎの好漁場でした。流域に川魚専門店が多く、筑後川沿いの黒田地区(久留米市大善寺町)はかつて福岡屈指のうなぎ処として栄えてきました。近年、筑後川で獲れる天然うなぎは減少傾向にありますが、ネギとワサビとタレが絶妙な絶品丼を提供する星付きの店や、創業200年を超える久留米藩主御用達の老舗、ふっくら炊き上げたセイロ蒸しが人気の行列店など、ぞれぞれの店が昔ながらの伝統味を守りながら、今でも多くのお客様を迎えています。うなぎ屋では川魚やスッポン料理を提供する店もあり、各種会席料理も味わえます”と、出ている。

 

 

「富松 うなぎ屋 黒田本店」

 

 


西鉄久留米駅から築後川を南下、同店へ車を走らせる 。カーナビのない車だったので、少し道に迷ったが、1時間ほどで田園地帯に大きな川に面して古式ゆかしい建物が現れる。道路には同店の上りがはためき、車がどんどん吸い込まれている。まだ、10時前だというのに駐車場は車で埋まる。当時、整理番号ではなく、予約リストに記帳する方式か、どうか忘れたが、とにかく名前を書いて、後は順番を待つのみだった。

 


2時間ほど、待ったが、席に案内され、注文をすると、30分もしないで提供される。注文したのは「セイロ蒸し特上」。鰻のセイロ蒸しは随分前に柳川で食したが、鰻をセイロで蒸し、そこに錦糸卵が乘っているというもの。特上と普通の差はご飯の量で、特上は二段重ね、ご飯の中にも鰻が隠れている。小皿も1品多い(サラダがついている)。通常のかば焼きもあるが、やはり福岡式のセイロだろう。重厚なセイロの蓋を開けると鰻と錦糸卵が現れる。熱々をいただくと、口の中にほどよい甘さが広がる。九州特有の甘さ、嫌いではない。思いの他のヴォリュームで胃の中にすしんとくるが、もたれることはない。全国に鰻の名所はあるが、ここでしか食べられないものだろう。ちなみに同店の鰻は鹿児島や宮崎、徳島、愛知などの国産物を使用しているようだ。また、食べたいと思っていたが、翌2023年は“サマービート”の翌日もライブ(「鮎川誠 追悼ライブ 福岡 SHEENA &THE ROKKETS MAKOTO AYUKAWA FAREWELL LIVE HAKATA<音楽葬>」)のため、行くゆとりはなかった。

 



そして今年、2024年は“サマービート”の翌日はライブがなく、東京への飛行機もほぼ最終便に近く、ゆとりはあった。しかし、今年は車がない。西鉄大善寺駅からタクシー利用もあるが、それだと、駅でかなり待たなければならない。検索すると、最寄り(!?)のバス停も出ていた。流石、路線図までは調べきらないので、西鉄久留米駅のバスセンターの案内所に行くと、ちゃんと調べてくれて、行先の路線や降車駅、発着時間を教えてくれ、それを紙に書いてくれる。あまりにも丁寧な対応に驚く。お年寄りも多い町である。老人に優しい対応。西鉄バスはすごい。深い感謝である。


指定の降車駅「若宮橋」へは30分ほどで着く。同所からは10分ほどの歩きだが、炎天下の中、進んでいくと、上りが見え、店が出てくる。漸く辿り着く。途中、店まで500メートルという看板があるので、目印にもなり、踏ん張れる(苦笑)。

店には11時を20分ほど過ぎて着いたが、整理番号を発券すると、“80番”という数字が印字されていた。既に32番まで行っているそうだが、それでも60番目になる。気が遠くなる。大半の方は発券して、車で待つみたいだが、池の前の縁台や店前の椅子で順番を待つ。風は多少あるものの、暑さが吹き溜まる。順番待ちの方のためのトイレもあるが、そこは冷房が効いていて、ホッとする。長居したくなる(笑)。

 

 

▲西鉄久留米バスターミナルでいただいた丁寧な案内と

富松で発券された80と書かれた整理券

それでも1時間ほどで席に案内され、今年も鰻のセイロ蒸し(特上)にありつくことが出来た。相変わらずの味で、久々の再会に胃袋が歓声を上げる。何か、自分の鰻のスタンダードになるのを感じる。本来であれば東京の下町生まれ下町育ち、前川や色川、初小川と行きたいところだが、最近は久留米のセイロ蒸しや浜松(駅前の業界御用達の「うなぎ八百徳」が好きだが、なかなか、行けていない。ちなみにかつて佐野元春のサインもあった)や名古屋のひつまぶし(TOKUZOUに行った際には「しら河」の今池店に立ち寄っている!)が故郷(!?)を感じる。また、水戸にでも鰻の旅に出ないと、正統派の鰻を忘れてしまいそうだ。2月には水戸行きを計画している。

1時間、待ったので、1時間かけて、ゆっくりかけて食べる。2階のテーブル席だったが、窓の外には田園風景が広がるが、暑い日差しが照り付ける。なかなか、出たくなくなる。帰りは行きと同じルートを逆に帰ればいいのだが、折角なら大善寺までバスに乗って、同駅から久留米に戻ればいいと考えていた。ところがその考えが甘かったことに気づくのは数十分後のことだった。

 



店を出て、歩いてきた道をそのまま行き、若宮橋のところを大善寺方向に進むと、あると思っていたところにバス停がない。多分、道が細いので国道上ではなく、少し入った市街地にあったかもしれない。肝心のバス停を見つけられず、結局、駅まで歩くことになる。30分以上歩いたところで大善寺駅に辿り着く。満腹後の一仕事である。いずれにしろ、歩けば前に進む、車がなければ歩けばいいことを知る。これからは車の心配は必要なく、列車とバスを乗り継げないいという自らのルートが開拓できたことになる。大善寺から敢えて各駅で天神を目指す。冷えた列車で火照った身体を冷ましながら天神へと歩を進める。

昼食ばかりを報告しているが、実は2022年も2023年も2024年も久留米の夕食は同じ店に行って、同じものを食べている。毎回、西鉄久留米駅の側の全国チェーンのホテルに宿泊しているが、同ホテルの近くの店に行っている。ライブが終わってから、シャワーを浴びて、食事にへ行くとなると、時間的に行く店も限られる。検索では時間が掛かるので、ホテルの方に近所の店をいくつか、紹介してもらう。その中の一軒が私の“行きつけ”になった。九州産の天然魚にこだわった仲卸業者が経営する「丸秀鮮魚店 久留米店」だ。豊後のサバや長崎の蛸など、久留米の近隣の新鮮な魚だけでなく、熊本の馬刺し、久留米の鳥のダルムなども食べることができる。久留米の前後左右から新鮮なものが届くのだ。中でも絶品なのは豊後水道の鯖を使った胡麻鯖(活け〆鯖の胡麻鯖)である。豊後水道の新鮮な鯖に絶品のごまだれが合体して、最高の味わいになる。それをご飯にぶっかけ、胡麻鯖丼にして一気に食べる。これが極上の逸品。毎回(と言っても3回だが)、必ず頼む。そして毎度のことながら食べ終えた後、写真に収め忘れたことに気づく。1回目は携帯を忘れ、2回目、3回目は食事優先で、大体、閉店間際なので、ちんたら撮影などをしているというのもいかがなものかというのもある。多分、地元の方にすれば、他にもいいところがあるのかもしれないが、とりあえず、私の久留米の隠れ家である(!?)。店自体もこじゃれているし、酒類も豊富にある。お薦めである。とりあえず、今回は店の外観だけは撮影しておいた。良さげな店ではないだろうか。ちなみにおひとり様用のメニューもたくさんあり、一人でいってもいろんなものを少しずつ、たくさん食べられるのが嬉しい。絶品の刺身を出す板長はショーケンのドラマに出てきそうな渋いお方で、言葉少ないながらその腕は確か。

 



食べログ「丸秀鮮魚店 久留米店」
https://tabelog.com/fukuoka/A4008/A400801/40031450/

 

 


Instagram「丸秀鮮魚店久留米店」
https://www.instagram.com/maruhide_kurume/

 

 

▲ニューニカイ

 


今回、“サマービート”を見た翌日は久留米で鰻の後、唐津や糸島で海鮮に行こうと思っていた。ところが、会場で福岡在住の写真家・Keko Handa様にお会いして、福岡の「バーニューニカイ」という店で写真展『THANK YOU !』を8月22日(木)まで開催していることを聞いた。「福岡BEAT革命」などでもご協力をいただいている福岡の音楽の生き字引でもある。これは行かないわけにはいかないだろう。予定変更。久留米(実際は大善寺)から天神を目指す。同店は親不孝通りにある。近所にはお馴染み「Bassic.」などもあり、同店からもすぐである。

会場は最近、リニューアルオープンしたところで、元々はカラオケバーだったらしい。現在はリノベーションして、アコースティックライブなども出来るところで、店内にはさりげなく、Handa様が撮影した2022年に鮎川誠、奈良敏博、坂田”鬼平”紳一が再集結した「鮎川誠 Play The SONHOUSE」のライブ写真が展示されている。同ツアーには鮎川誠(唄とギター) 坂田鬼平紳一(ドラム&唄) 奈良敏博(ベース&唄) 松永浩(サイドギター&唄) LUCY MIRROR(唄、ハープ&タンバリン)が参加している。何度か、展示作品も模様替えもあるようだ。

場所そのものは居心地のいいバー(雰囲気はスナック)で、ご近所に前述通り、渡辺圭一の「Bassic.」や梶浦雅弘の「 Viva La Silva」、「KID ROCK 」などがある。松本康の「ジュークレコード」がかつてあった場所にも近い。勿論、ピックアップしたのはわずか、実際にはライブハウスやロックバーなどの“密集地帯”である。やはり親不孝通りは親不孝者を大量発生させる。鮎川誠は『ちゅらさん』の中で、「ロックは家族に相談して始めるもんじゃないよ」と言っていた。そんな歴史と伝統が残る。まだまだ、博多や北九州、久留米など、福岡通いが続きそうだ。

Keiko Handa様写真展「THANK YOU!」
会場   Bar NEW NIKAI 中央区天神3丁目6-10-201 
期間 7月17日~8月22日

月~木 12時~ラスト 

金~日 NIKAIの営業時間に準ずる
1order以上お願いします ♪

「Bar New NIKAI 」
https://www.facebook.com/profile.php?id=61563050565022

 

 


    

 

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YOU MAY DREAMと久留米物語『SUMMER BEAT2022 MAKOTO祭り』
let's go steady 2022年8月18日
https://ameblo.jp/letsgosteady/entry-12759386379.html

 

 



追悼と感謝--ロックンロールの聖者・鮎川誠が紡ぐ“三都物語”+1
FUKUOKA BEAT REVOLUTION 2023年9月9日
https://www.fukuokabeatrevolution.com/post/%E8%BF%BD%E6%82%BC%E3%81%A8%E6%84%9F%E8%AC%9D%EF%BC%8D%EF%BC%8D%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%B3%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%81%AE%E8%81%96%E8%80%85%E3%83%BB%E9%AE%8E%E5%B7%9D%E8%AA%A0%E3%81%8C%E7%B4%A1%E3%81%90-%E4%B8%89%E9%83%BD%E7%89%A9%E8%AA%9E-%EF%BC%91

 

 


※下北沢、博多、北九州など、四都市を巡る集大成リポートなので、「久留米「SUMMER BEAT'23」--鮎川誠に最大の感謝を込めて!」の小見出しを見つけていただき、そこからご覧いただきたい。


鮎川誠の故郷・久留米 で「サマービート‘24 MAKOTO祭り 」――めんたいロックは成長する! シーナ&ロケッツ THE 0942+花田裕之
FUKUOKA BEAT REVOLUTION Facebook page 2024年8月13日
https://www.facebook.com/fukuoka.beat.revolution/posts/pfbid02rDisbTKfqMBVU19rSPxB8kUrW528dsVvriK2uQPFQSV9EBnJUHPMobm4NMajP3fNl

 

 

ドキュメンタリー映画『トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代』の大ヒット、そして書籍『あの素晴らしい日々 加藤和彦、「加藤和彦」を語る』のベストセラー、さらにトリビュートコンサートの開催など、いま改めて再評価される加藤和彦。先日、7月8日に多くの仲間達が集まり、『七夕忌 PANTA一周忌&頭脳警察55周年記念ライブ』が開催されたパンタ。加藤はサディスティック・ミカ・バンド、パンタは頭脳警察として日本のロックの黎明期から活動していたにも関わらず、両者の邂逅は意外と少ない。しかし、そんな貴重な出会いを記録する二人の対談が発見された。幻の音楽雑誌『MUSIC STEADY』の名物企画「リレー対談」(ミュージシャン自ら対談相手を指名し、指名されたミュージシャンが次の対談相手を指名するというリレー形式の対談である)。同誌の1984年3月号の同リレー対談の第4回で、加藤和彦がパンタを指名し、二人の貴重な対談が実現した。ちなみに加藤は1984年2月号に矢野顕子の指名で登場している。パンタはその後、盟友の橋本治を指名し、同対談は1984年8月号に掲載された。

 

同対談のリードに奇しくもおふたりとも1983年度ベストアルバムのポールウィナーとしての登場とあるが、同1984年2月号で、「1983年のベスト・レコード、ベスト・ミュージシャン」を編集部とレギュラーライターで選出、パンタの『SALVAGE(浚渫)』、加藤の『あの頃、マリー・ローランサン』がともに1983年のベスト・レコードを受賞している。まさに彼らは何度目かの絶頂期を迎えていたと言っていいだろう。

 

同対談の転載に際して、加藤の映画や書籍、トリビュートコンサートに関わり、ご遺族からもその遺志を託された内田宣政様、パンタの所属事務所の代表でご遺族からもその権利、遺志などを託された田原章雄様の許諾を改めて得て、ご確認の上、転載のご了承、ご快諾をいただいた。改めて感謝します。また、本原稿を構成したライターの堀ひろかず様にも転載のご快諾いただいている。改めて感謝します。そして、最後に素晴らしい言葉たちを残してくれた加藤和彦様とパンタ様に改めて深い感謝を捧げる――。

 

 

Kazuhiko Kato+PANTA 

 

リレー対談 第4回 加藤和彦+パンタ

■取材・構成/堀ひろかず ■写真/市川清師

 

 

加藤和彦

自分が何を作りたいかってことだけを考えて作ってる方が正直だ、という信念に基づいて作ってる。

 

パンタ

自分がダメになっていくことはファンに対していちばん失礼なことじゃない。

 

 

 

 

リレー対談の第4回目は、加藤和彦さんが指名したのは、パンタです。10年以上前は、かたやサディスティック・ミカ・バンドのリーダーとして、かたや頭脳警察のリーダーとして、日比谷野音や日劇などで共演してたのですが、当時は全くといっていいほど、交流はなかったそう。そこから10年経った今日、奇しくもおふたりとも83年度ベストアルバムのポールウィナーとしての登場。どんな話が出ますやら。

 

 

 

結論から先に言っちゃえば、それがエンターテイメントだと。

 

――たとえば加藤さんは、ご自身の音楽を壁にかける絵のようなものだとおっしゃってますが、たとえば一般の人にとって絵がどれだけ生活に必要なものとしてとらえられているかを考えてみると、そこにズレがあるような気がするんですが。

 

加藤 あれは、ジャンルは問わず何の音楽でもいいんだけど、音楽っていうものが僕たち音楽をやってる人にとっては絶対に必要なものだけど、普通の人にとっては生活に必要なものではないでしょ、切実には。そこのギャップというのは非常に問題で、生活に必要のないものっていうのはいっぱいあるわけだから、絵にしても本にしてもそうかもしれないし。それらは精神的には必要なものでしょ。だから個人差があると思うのね。そういう意味で音楽を聴く人っていうのは一歩離れてみるとすごい特殊な人が聴いてると思うんだよね。特に、いわゆる演歌とか歌謡曲というジャンルじゃない音楽というのはさ、かなり音楽の知識がないとあまり楽しめるものにはなってないわけでしょ。そういうものを僕らは作っちゃってるのも事実なんだよね。だから知識がなくても楽しめて、しかも平たくいうと万人の心を打つというのがあると思うじゃない、これはやっぱりいいレコードだと思うんだよね。どっちでもだめだと思うんだ。そういうのが作りたいと思うけどね。だから、そんな難しく考えないでさ、いわゆる壁にかた絵みたいに、音楽を聞いてその人の気持ちが良くなればってこと。

 

パンタ 昔、アメリカのレコードの購買層のピークが30歳で日本は15歳だって聞いて、じゃあ日本のレコード購買層っていうのはどんな層だろうって考えた時に、家具としてのステレオセットをぼんと置いて、そこにたぶんレーモン・ルフェーブルは入ってくっかもしんない。とかね、ビートルズはたぶん入るだろう。こんなことをいっちゃ失礼かもしれないけど、たとえばさだまさしは入ってるかもしれない。で、そういった時にそこに食い込むには身を削るような努力が自分に必要なんじゃないかっていう。だから、もうそこははっきりあきらめちゃおうと。

 

加藤 (笑)

 

パンタ (笑)マニアはもちろんたくさんいるんだけど。たぶん加藤さんの言っていることもそこに関連性はあるんじゃないかと思うんだけど。

 

加藤 たぶんね、パンタもずつと長いわけでしょ。その間いろいろ変わってきたと思うのね。僕なんかは、いい意味であまり買う人のことだとかさ、聴く人のことってのは考えてないというか。もちろん全然考えないっていったらウソになっちゃうかもしれないけど、自分が何を作りたいかってことだけを考えてってる方が正直だ、という信念に基づいて作ってるのね、最近は。

 

パンタ 結論から先に言っちゃえば、それがエンターテイメントだと(笑)。それでそれが自分たちのコマーシャルだっていう気がんですよね。『あの頃、マリー・ローランサン』も実に楽しんで作ってますね。あれは絶対、顧客のことは考えてないね(笑)。

 

 

パンクのムーブメントも結局価値観を変えられなかったね。

 

加藤 特に日本人って持って生まれて器用でしょ、だからいろんなことできんだよね。これはもう国民的性質として(笑)。だから本当に自分がオレがこれがしたんだぞっていうことを常に思ってないと、なんか自分が知らないうちにとんでもないものができちゃうってことない(笑)。

 

パンタ あるよ、やっぱり。たとえばね、自分がダメになっていくってことは、いちばんファンに対して失礼なことじゃない。

 

加藤 自分で自信がないようなものを作らされてね。

 

パンタ 『KISS』 の時に、それでもめたわけですよ。ファン・クラブの会報なんかでも「あんなのヴォーカルじゃない」とかもうケチョンケチョンにけなされてね。けなされたんだけど、自分がやりたいんだからしょうがないじゃない、って感じでね。もしそれがウソをついて唄っていくようになったら、それこそファンに対して失礼だと思ったんですけどね。

 

加藤 今、たくさんレコード出てるじゃない。そこから、音楽的に刺激を受けるってことあんまりなくなっちゃったんだよね。他のレコードを聴いて感激するとかさ、そういうのはほとんど最近ないんだよね。それは、曲を聴き過ぎたせいかな、とも一時思ったんだけど最近は日本のレコードも外国のレコードも複雑なものを作り過ぎてんじゃないか(笑)って気がして。5年位前だっけ、パンクが出始めた頃ってそういう価値観を破るかなってったんだけども、なんか全然破れなかったね。

 

パンタ あの動きは興味ありました?

 

加藤 うん、すごい興味あったよね。

パンタ 同じパンクの中でも、わりとテクノがかったり、感性だけでぶっとんじゃうやつとか、スタンダードな、たとえばフーをそのままやっているのとか、何種類かありましたよね。どのへんがいちばん興味ありましたか?

 

加藤 うーん。

 

パンタ 全体のムーブメントとして?

 

加藤 うん、特に何のグループってことがないんだけども、パンクの最初って何だっけ。

パンタ ピストルズ。

 

加藤 やっぱピストルズだよね。アレ的な感じってさ、常にイギリスのロックは持ってたからさ。アンチの姿勢には驚かないけどさ、それによって派生したヘタウマ的なものの容認で価値観変わるかと思ったけど、変わんなかったね。

 

 

今も「あの時代はロマンがあった」って言われる時が来るのかもしれない。

 

加藤 東京好き?

 

パンタ うーん、難しいね。

 

加藤 言葉ではわかるわけ、世界中の色んなもの手に入るし、色んなもの食べられるしさ、便利だし。だけど、それがどうしたんでしょうっていう(笑)。東京好きになりたいなと思って。

 

パンタ うーん。やっぱり加藤さんの根底に流れているのはロマンティックってことなのかな。

 

加藤 ロマンティックって言うのかな…。

 

パンタ 決してテクノロジーではないという。

 

加藤 テクノロジーでもいいんだけども、やっぱり人間がそこに介在して、人間がなんかすることによってかわいらしさって生まれてくるわけじゃない。完璧な人間がいないのと同じようにさ。

 

パンタ 田舎にしかないんじゃないかな。

 

加藤 田舎もあるかな、行っても東京と同じ顔してない? やっぱりないからね。僕なんか音で疑似体験みたいのを作りたいと思って。

 

パンタ 昔もなかったんじゃないかな(笑)。

 

加藤 わかんないんだよね、それは(笑)。ないから、みんな昔の時代に憧れんのかもしれないしね。

 

パンタ この時代から離れて、ある程度、年をおいて、僕らが70、80になった時に「あの時代にはロマンがあった」って。

 

加藤 言われるかもしれない。でも、ちょうど始めたのは同じ頃でしょ。60年代後半くらいから。

 

パンタ 加藤さんの方が早いですよ。

 

加藤 でも一緒にコンサートに出てたのはミカバンドの頃だから70年代初期でしょ。学園紛争とかバンバンあって何にでも牙を向けてた時代っていうのはさ、かえって今から思うとおもしろいじゃない。

 

 

音の持ってる不思議さに惹かれるんだよね。

 

 

パンタ 加藤さんがビデオについてお話ししてたのを読んだんですが、やっぱり絵がないほうがいいという観点からしゃべってましたね。

 

加藤 だってさ、音を絵で説明されちゃったらね。

 

パンタ (鈴木)慶一がおもしろこといってたんだけど、いつもビデオで見ててラジオでふと聴いたときに「あれ、これ聴いたような曲だけど何の曲だっけなあ」ってなっちゃうって。絵で覚えているから曲で覚えないって。

 

加藤 やっぱり絵と音と同時に感じるとしたら目の方が覚えているんじゃないかな。

 

パンタ 向こうのビデオの作り方なんかでもリズムに合せてカットが変るところなんか絵のほう若干早めに切り換えちゃうんだって。

 

加藤 じゃないと合ったように感じないんだ。でも僕ははさ、絵よりも音の持ってる不思議さってあるじゃない。たとえばすごい単純なことでさ、ジャーのコードは明るく響くしマイナーのコードはさびしく響くっていうのはなんでかって説明できないことでしょ。できないんだってね。

 

パンタ できないんだ(笑)。

 

加藤 どこへどう影響してどうかっていうのはね。そんな音楽理論知らない人でもさ、同じようにそれを感じるのは不思議だね。そんな音の持っている不思議さっていうのは僕すごい惹かれるんだよね。だから、それを逆に使うっていうか、ニュアンスが複雑になるでしょ。さびしい曲にさびしい詞がついてるともうそれはさびしい曲だけど、さびしい曲に明るい詞がついてバックがもうちょっと違うことを表現してたとしたらさ、すごいふくらんじゃうじゃない。すると、非常に細かいニュアンスが表現できるじゃない。そういうのに興味がある。

 

 

ロックやったってのもいいね。最近ロック少ないし。

 

 

加藤 いちばん最近なんて何やったの。

 

パンタ 『SALVAGE(浚渫)』っていう、本当になんのてらいもなくロックやったっていうのを。

 

加藤 ロックやったってのもいいね。最近ロック少ないし。

 

パンタ 僕はね、今年になってロックっていうのは死語になるかなあって思ったんだけど、自分の中で脈々と噴出するっていうか……。ほんとはね、『KISS』出して『唇にスパーク』出して、やっぱりああいうラヴ・サウンドを3部作でやりたかったのね、もう1枚。で、もう一枚は「ブルージーンズと皮ジャンパー」とか、全部カバーバージョンでやろうと思って。

 

――丁度、その時、加藤さんのプロデュースでって話が出てきてたという。

 

加藤 おもしろいね、それ。

 

パンタ 僕はセンスとか、ファッション的なものは別にしてわりと本質的なところでかなり結びあえるという思いがあるんですよ。奥の方でね。だから、いずれは何かで……。

 

加藤 じゃ何かよろうよ、やらして。パンタってさ、昔のウォーカー・ブラザーズをやめた頃のスコット・ウォーカーの感じってあるんだよ。翳ってるところがね(笑)。でさ、あの頃のスコット・ウォーカーってバカラックとか唱ってるんだけど全然違うんだよね。

 

パンタ 違うよね。

 

加藤 ロックになってるんだよね。全然ロックの形態はとってないんだよ、でもなんか。

 

パンタ でも彼はウォーカーにいた時からああいうのが好きみたいだったね。ウォーカー・ブラザーズ好きだったな。僕なんか電話リクエスト(ラジオ番組)で育った世代だから。ものすごくうわついたのも好きなんだけど、何か突っ張って。ちょっと前までは、すごく横目で世の中眺めて、斜にかまえてつばを吐いてた世代がね、ある時、もう俺は何をやってもいいんだってことで『KISS』なんかやっちゃったりしたんだけど。かなり自分で今はポジなんじゃないかなというね。加藤さんどうでした。わりと表ではポジのようでも裏でネガのところありませんでした(笑)。

 

加藤 もともと僕はいわゆるフォークソングの出、みたいなもんだから。フォーク・ソングってだいたいそうだもんね。ある種のカウンター・カルチャーじゃない。だから必然的にそういう立場になっちゃうのね。でもそれがある日、急に売れちゃったりするとポジティブになっちゃうでしょ(笑)。で、非常に複雑なもんがあるよね。

 

 

マイ・ペースでしか作れない

 

 

加藤 なんか感動したレコードとかある、最近。

 

パンタ 僕はもう延々フランス・ギャルですよ。

 

加藤 へぇー、フランス・ギャルがそんな好きなの。

 

パンタ 友達がフランス行くっていったら、じゃレコード買ってきてっていう……(笑)。

 

加藤 かわいい人だよね、実に(笑)。

 

パンタ 加藤さんは、いま何に感激っていうか、新鮮な喜びを感じます。

 

加藤 新鮮な喜びねぇ、それはむずかしいですねぇ。それを年中探し求めているっていうのが正解じゃないかな。その感激する心ってのは失いたくないなあって思ってるわけ。

 

パンタ マヒしてるのかなあ、僕らが。

 

加藤 いや、それがわかんないんだよ、ずっと。

 

――そのへんわかんなくなっちゃうでしょうね。感激するものがないのか、自分がマヒしちゃってるのかわからないっていう。

 

加藤 それは、怖いですよ。

 

――そういう状況って不安ですよね。

 

加藤 不安神経症の第一歩ですよ(笑)。

 

パンタ しかし加藤さんってマイ・ペースですね。

 

加藤 マイ・ペースでしかできない(笑)。

 

パンタ あるカメラの雑誌見たんだ。そこで五木寛之のインタビューが載ってたのね。はいま休筆中なんだけど、いま自分が何をやったにしても等身大の仕事しかできない。なぜならそれは大衆が磨かれてないからだ。爆発する時代であれば、自分は2倍、3倍の仕事ができるっていうようなことをおっしゃってたんですね。加藤さんの場合はそれとはちょっと違うみたいで、「等身大の仕事でどこが悪いの」っていう感じなのかな。

 

加藤 いや、彼はそれだけやったんじゃないかな。僕なんかまだまだ言い足りないというか歌い足りないことがあるからこそ作れるんでね。

 

 

3作後に加藤さんに頼みに行くかもしれない。

 

 

――おふたりの次作の予定は。

 

加藤 僕は、いま自分自身の曲をちょうど作ってるところで、まだテーマは朧気であるんだけど、言えないっていう感じ。

 

パンタ 僕はシビル16人格っていうのをやってるんですよね。次がたまたま16枚目っていうことで、16曲入れて2枚組にしたいなって思うんですよ。シビルっていう女のコを20年かけてカウンセラーが16の人格を引っ張り出して、最期に17番目の新生自我っていうのがすべてを統轄して出てくるまでを描いたノンフィクション・ノベルがあるんですけど、それをヒントにして作ってるんですが、まだ、2曲しかあがってないんですよね。で、さらにまた、その次があってクリスタル・ナハトっていうんですが、ドイツには、ユダヤ人虐殺に対して悔いる「ガラスの夜」っていう日が定められいるんです。それを日本に置き換えると、日本にも悔いなきゃいけないことがたくさんある気がしてね。

 

加藤 でも、ベルリンに行くとあの時代は全く空白になってるね。本もないし写真集なんてもちろんない。

 

パンタ 戦争に関するおもちゃがひとつもないっていうのは聞いたことがあるけど。

 

加藤 戦争に関するすべてが全くの空白になって。ナチスに関する生理的嫌悪もすごいしね。だから、YMOのあの衣装(YMO散会ライブではナチスをイメージさせるファッション、ステージデザインがされた)をはまずいと思う。よく知ってる人たちだし、当然本人たちはわかってやってるんだろうけど、知らない子たち見るとカッコ良く見えちゃうだけに、やっぱりあれはまずい。

 

パンタ ベルリンってやっぱりすごいですか。

 

加藤 ほんとに街が鉛色をしてる。戦争直後に建てた無造作な建物で古びてるんだけども一歩内へ入るとものすごくきれいにして住んでる。あれこそデカダンだね。

 

パンタ じゃあ、やっぱり行ってみないとだめかなあ。その2作が終わったら、加藤さんに、頼みに行くかもしれない。

 

加藤 いつでも言ってください。

 

『MUSIC STEADY』

 1984年3月号

(ステディ出版)