筆者の母は音楽大学在学中から
84歳の今年まで、およそ60年間にわたって
ピアノ教師であり続けた人である。
筆者もそんなわけで母のお腹にいるときから
ずーっとピアノを聴き続け、物心つかない頃に
勝手に弾きだして周りを驚かせてしまったがために、
天才と間違われて無理矢理本格的にピアノを習わされ、
地獄の青春時代をすごすハメになった挙句、
とうとう、ついていた音大の教授が、自らやる気のない者が
成し遂げられる道ではない、と筆者ではなく母を諭されたことで
十数年続いた騒動は幕を下ろした。
こんな当たり前のことを何も音大の教授に言わせなくたって
気付けばよさそうなものであるが、両親は娘がどんなにイヤがろうが、
引きずっていけば目指す到達点に至ることができるだろうと思い続けていたらしい。
ついでに言うと、そんな環境に生まれて、そこにピアノがあったなら、
誰だってちったァ勝手に弾くだろう。
そもそもの初めからそんなに大騒ぎすることもなかったのでは
ないかと思う。
筆者ピアニスト化計画はこのようにして
幸いほとんど話にもならぬうちに終わったのではあるが、
幼児期から青春時代はピアノに捧げてしまったから、
とにもかくにも絶頂期には、戦後の混乱に乗じて音大にもぐりこんだ母より
ずっと熟練してしまった。
それが、あたりまえではあるが、
やめると坂道を転げ落ちるようにどんどんダメになった。
それでも若いうちは筋肉があるからある程度弾けたが、
30を迎える頃には耳と鍵盤の音がズレだして、聞き覚えた曲を
そらで弾くことはできなくなった。
さらに、35を過ぎると身体中の筋肉が落ち始めるとともに指の筋肉も細り、
特にまとまった練習はしないものの、日々ピアノを触っている母との
技術的距離は加速的に縮まって、やがて逆転し、母が初老の頃には
全くもって母の勝ちであることを認めざるを得なくなった。
筆者が、継続は力である、という言葉を痛切に感じるのはこのことについてである。
そこからさらに20年、母はピアノ教師であり続けた。
ピアノがお稽古事の王道であった昭和中盤を過ぎると
徐々に弟子の数は減り始め、複数回の病気療養期間ごとに
さらに減り、とうとう残ったのはたった一人の少年、という十数年前のある日に
心臓病から脳梗塞を併発し、数か月後に復帰したものの
言動のおかしくなった母に戸惑った少年も結局はやめてしまった。
脳梗塞の後遺症にもいろいろあるが、母のは空間認識能力に障害が
残ったために、道を覚えられない、時計を正しく認識できない、物の形が把握できない
というものに加えて、視野欠損があって、左側の物が認識できないから
身体や顔の左半分をしょっちゅう何かにぶつけたり、右側のおかずは食べるが
左のものは食べない、本の左側のページは読まない、という人になった。
すると、楽譜を読むことも非常に困難になった。
なんとか目で追っていても、一瞬鍵盤に目を落とすと、
もうどこに戻ってよいかわからなくなる。
右端の小節まで行くと、下の段に移るわけだが、下の段は左側から
始まるから、目に入って来ない。
運動麻痺が全くなかったために、指は年相応には動くのに、
そんなわけで大きな支障が生じて
ピアノを前に母の苛立ちは大変なものであった。
概して努力と名のつくものがすべて嫌いな母であるが、
これは相当イヤだったらしく、退院してから毎日楽譜と格闘している姿は
さすがに気の毒であった。
しかし、日が経つにつれ、脳梗塞が脳に与えた衝撃もある程度落ち着き、
努力も若干は功を奏し、少しはスムーズに読めるようになって、
また、おそらく事態に対する妥協の気持ちも生まれて
落ち着いて弾けるようになった。
もちろん複雑な大曲は弾けないし、新しい曲はどんなに単純なものでも
絶対に弾けるようにはならないが、体に染みついた指の動きは
身体と頭の衰えに比べてずっと確かであった。
母にとってピアノはリハビリとして自分のためだけに弾くものになり、
弟子を教えることは二度となかろうと思っていたら、
数年後に隣の家の孫娘が習いに来はじめたのである。
いい加減に認知症の進んでいた母は自信満々であったが、筆者は心配した。
母を心配したのではない。
この子が心配だったのだ。
それでコッソリこの子のお母さんに電話をして、事情を話した。
こんなボケたバアサンからピアノを習うのは得策ではない、ということ、
何より言動不審なバアさんと一緒にいては、子供に対処できないことも
多く出てこようし、まったくおすすめできないのだ、ということを
言葉を尽くして伝えたのだが、
不思議極まりないことに、このお母さんは引かなかった。
筆者や筆者の母がイヤというのなら、無理にとは言わないが、
そうでないのならばこの子も自分も先生の認知症はまったく気にしない、
というのである。
何よりこの子が母を気に入っているという。
たった一人でも弟子を持って
一週間に30分でも 「先生」 になることは、
母の精神にとって良い刺激に違いないし、
それで1回1000円でもお金を稼ぐことも母の自信につながるに
決まっているのだから、
筆者も本音では、この子に弟子でいて欲しかったところを
「ここまで言われてやめない人は世界のどこを探してもいなかろう」
はずであったほどに説明したのであるから、
筆者の責任は果たされた。
そんなわけで、この子はこの夏まで数年間
毎週母のもとに通ってくれた。
そして、先月、お母さんからやめますと連絡があった。
「とうとう飽きたらしい」
という。
この子ももう小学校4年生であり、他のいろいろな可能性が
目に入るようになったのだろう。
これも一つの成長なのだ。
「長い間本当にありがとうございました。」
お母さんから筆者を通して老母へ、そして筆者からお母さんへ
心からの同じ言葉が幾度も交わされた。
そして、老母にこのことを告げた。
最後の弟子がやめて、60年間続けてきたピアノ教師の人生に
終止符が打たれることを、母のあのぼんやりした脳みそがどう
受け取るのだろうか・・・?
筆者には想像がつかなかった。
慎重に進めた方が良い、と思ったから
「○○ちゃん、しばらくやめるって。」
「しばらく」をつけて唐突感にクッションを挟む。
すると、老母は
「ふーん。」
と軽く返事をした。
この軽さは、よく分かっていない印に違いないのだ。
もう少し分からさねばならぬ。
「たぶん、もう来ないと思うよ。勉強も忙しくなるしね。」
というと、
「そうやね。」
と応えはしていたが、
筆者には分かる。
あんまり分かってないことが。
「だから60年間ピアノ教室お疲れ様でした。
なかなかできないことだと思うわ。えらかったね。」
と続けると、ニヤニヤうれしそうに
「ありがとう。」
などと言っていたが、絶対分かってない。
しかしこれ以上は仕方がないから、その場はそれにて終わった。
案の定である。
次の日からも、その子が次に来た時に教える曲の練習をやめない。
その子が来ていた曜日になるとソワソワする。
来ないと 「あの子が来ない」 と電話して来る。
その子が来るはず、と母が思っている日付が今日ではないか、
という確認の電話を昼となく夜となくして来る。
その子がやめたことは理解できていないが、
その子についてなにか特殊な事態が起こった印象だけはあるから、
その子のことが頭から離れなくなってしまったのだ。
大変なのは筆者である。
最初は母が傷つくのでは、と慎重に伝えた
「○○ちゃん、しばらくやめるって。」
であったが、だんだんと
「○○ちゃんは、もうやめたの。」
から
「○○ちゃんは、もう来ないの!」
「だから○○ちゃんは、もうやめたのッ!!!」
を経て、
「○○ちゃんは、やめたんやって、1000回ゆうたでしょッ!!!!!!」
「今夜中の3時やでッ!!!ガチャン!!(電話を切る)」
になってしまった。
それでも分からない。
本人はもう、パニックなのだ。
それで思い付いた。
「△△(=筆者の苗字)ピアノ教室閉店打ち上げ会」
をすることを。
といっても、筆者ら母娘に従姉をまぜた3人でご飯を食べるだけなのだが、
そういう会をして、みんなでお疲れ様の意を明確に表したら、
そのイベントの印象が、母の混乱と置き換わるのではないか。
その会は昨日決行された。
母にオシャレを施し、
筆者ら一族御用達の日本料理店にて、
板前の振るう絶品料理の数々を
美味しいお酒とともに楽しみつつ、
母にねぎらいの声をかけた。
本当に、母がピアノ教師でなかったら、
筆者は大学まで行けなかったに違いない。
ましてや留学など、絶対にできなかったことだろう。
経済的に家庭を支え続けた点からも至極立派である。
60年間同じ町で多くの子供にピアノを教え続けた母の業績を
目の当たりにすることがある。
母の手を引いて近所を散歩していると、
びっくりするぐらいの頻度で
筆者の知らないいろんな人が
「先生!! お元気ですか!!」
と声をかけてくれる。
習っていた本人や、そのお母さんである人たちである。
皆さんが大きな笑顔で声をかけてくれる。
かけなくてもよい声をかけてくれることからだけ考えても、
母に対する思慕の気持ちを持っていてくれての
ことなのだろう。
母はこの人たちを顔で判別することはできないが、
名前はすべて覚えているらしい。
そしてボケバアサンから突然先生の顔になって
若干上から受け答えをするのである。
筆者がたとえ、60年間翻訳業を続けたとしても
こんなことは起こり得ない。
翻訳事務所の人ともクライアントとも一度も実際に会ったこともなく
引きこもってPCを相手に朝から晩まで、いや昼から明け方まで英文とにらめっこし、
日本語をこねくり回す筆者の人生ではクライアントに思慕の念を持ってもらう
ことなど、無理な話である。
たとえそれが一時期の習い事であっても
教えられた人の人生に何かの意味を残すことができるのが
人を教える職業を持つ人なのだ。
老母は全体的にあまり偉い人とは言えないのだが、
やっぱりこの点ではある程度の偉業を成したのだという気がする。
それと同時に教師という職業に備わる力に対する感動が心に染みる。
さて、このところ食欲が減る一方であった老母が
一人前の会席料理を平らげたのみならず、
最後のご飯までお代わりして筆者と従姉と
お店の人を驚かせ、会は終わった。
帰宅途中の電車の中から、母が改まって何度も何度も
「今日はどうもありがとう、私のためにこんな特別なことしてくれて。」
と言うので、そのたびに
「ありがたいのはこちらよ、これまで本当にお疲れ様でした。
大変だったね。ありがとう。」
と言ったら、そのたびに
「ううん、そんなことちっともなかったよ。」
と言うのだ。
実際は、
「そんなことちっともなかった」
どころの騒ぎではない。
もともと母は大金持ちのお嬢様であったのが、
サラリーマンの父に嫁ぎ、自分も働かないとやっていけない
家庭の経済事情を呪い、
稼ぎの悪い割に無駄遣いの好きな父を嫌い、
長子相続が当たり前であった時代とはいえ、
母に一切の相続権を遺さず死んだ祖父を恨むあまりに
精神のバランスを崩し、
そのすべての象徴としてピアノを憎んで憎んで憎んで
メチャクチャになってしまった、
というような時代もあったのであるが、
そういうのは忘れたらしい。
忘れて良いこともいろいろあるのだ。
母の心を引き裂いた程のあの苦悩を忘れて
「そんなことちっともなかったよ。」
と最晩年に思えるなら、認知症も悪いことばかりではない気がする。
さあ、これで、弟子がいなくなったことを
自分が引退したことを
母は納得してくれただろうか。
それはまだ2週間ほど様子を見ないとわからない。