आश्चर्यवत् पश्यति कश्चिदेनमाश्चर्यवद्वदति तथैव चान्यः ।

आश्चर्यवच्चैनमन्यः शृणोति श्रुत्वाप्येनं वेद न चैव कश्चित् ॥२.२९॥

 

āścaryavat paśyati kaścidenamāścaryavadvadati tathaiva cānyaḥ |

āścaryavaccainamanyaḥ śṛṇoti śrutvāpyenaṃ veda na caiva kaścit ||2.29||

 

ある人は、自分自身を驚きと見ます。同様に、ある人は、それを驚きとして話します。
ある人は、それを驚きとして聞きます。
さらに、ある人は、この自分自身について聞いた後でさえ、それを全く理解しません。

 

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この詩では、アートマーとは驚き[アーシュチャルヤヴァト]であることが

様々な側面から言われます。
人は、私、アートマーをブラフマンであるとを、はっきり知らなければなりませんが、
全ての人にとって、アートマーは理解し難いもの[ドゥルヴィッニェーヤ]です。
なぜならば、人は無知ゆえに生まれ、私と私でないものの混乱[ブラーンティ]があり、
それは、万人に共通[サーダーラナ]なものだからです。
あなた一人が、無知ゆえに混乱し、嘆き悲しむ人生を歩んでいるのでありません。
無知は全ての人に共通なので、全ての人が同じ問題を抱えています。
この詩は、まるでクリシュナが「あなただけではないよ」と、

アルジュナを励ましてくれているようです。

 

 

⚫︎アートマーの不思議

あなたが、アートマーを理解する時、それは驚きであり、

また、あなたが理解しない時も、「どうしてあの人は理解できるのか?」と驚きです。

アートマーは、いままでに、全く理解されていないものでしたが、

ある日、グルの教えの中で、突然、「ハッと」理解が現れます。
理解した生徒は、アートマーを驚きとして見ます。
なぜなら、その人は、自分自身を、全てを満たし支えているアートマーであると明かすのですから。

 

 

それまでは私は、ダルマの法則の支配下にあると思っていましたが、

アートマーを理解した今、「私は法則の統括者である」と言うことができます。

過去にいた人は誰でも私であり、将来、いるであろう人は誰でも私です。

今、ここにあるものは何であれ私です。これは大きな驚きです。

なぜなら今まで、自分が全てで、全創造物の真実であるとは、

決して信じたことがなかったのですから。

 

 

アートマーについてのこの宇宙観[ダルシャナ]は驚きです。
そして、私たちが、このアートマーについての説明を聞く(シュラヴァナ)とき、それは、もう一つの驚きです。
なぜなら、あなたとは、真実、サッテャであり、

全ての幸せの源[アーナンダ・ヴァルーパ]、パラム・ブラフマであるという教えを聞くのですから。
今までは、何かが私を喜ばせると思っていましたが、私とは喜びそのものです。
どんな喜びのかけらも私の現れた姿であり、全ての幸せの源、

限りのないもの[アーナンダ]が、私の意味なのです。
このように、先生がアートマーについて話す時も、聞いてても、理解しても驚きです、

 


アートマーは、始めから終わりまで、驚きです!

それは、サット・チット・アーナンダで、同時に、全く変化を請け負うことなく、この全世界を創りました。

言葉の届き得ないアートマーについて話すこと自体不可能なことなので、

アートマーについて話すことは、それ自体が驚きです。

限りがないものが、まるで限りがあるように現れることは、不思議です。

全てのナーマ・ルーパは、ブラフマンに他なりません。

そして、ブラフマンは、あなた、アートマーです。

先生が、このように話すこと、そして、話しきってしまうことが出来ることも、もう一つの驚きです。

そして、先生のことを聞いた後、生徒達もまた、彼らの間でアートマーの不思議さを話します。



最後に、それについて聞いた後でさえ、理解できないことが驚きです。

ちょうど、かすかなジョークが理解されないように、人々は、アートマーを全く理解しません。

完全であるブラフマンが、ちっぽけなジーヴァとして現れ、

そのちっぽけさをどうにかしようと、行いに束縛され、束縛からの自由[モークシャ]を求める・・・

これらは全て、大きなジョークです。

これは、最大のジョークに他なりません。


 

⚫︎人生は、まさに理解しにくいジョークのよう

考えを分析し、「本当にあるものは何か?」と見てゆくならば、意識だけがあることに気づくでしょう。

考えの形などありません。あるのは、ただただ意識です。


ですから、美しさであり神秘とも言えるこの宇宙創造は、宇宙最大のジョークとも言えます。
だって、本当は意識しかないのですから。
意識が現れた創造宇宙という根本のジョークの中に、

人生における様々な失敗や成功など二次的なジョークが続きます。

イーシュワラの視点から見たら、それはジョークです。

例えば、役者が、自分がドラマの中にいないことを知らずに、

ドラマの中で慌てふためく役者がいたら、とてもジョークであるように。

同じように、自分自身は創造宇宙から自由であるのに、

「創造宇宙がある、その中に私がいる」と見ることは、ジョークです。
自分が自分を知らないという、根本のジョークが理解されたとき、

人生はジョークの連続であることが見え始めます。

 


あなたとモークシャは、空間的にも時間的にも、離れていません。

でも、そのことがあなたに知られていません。
私はまだ「モークシャではないように思います、今世では無理かもしれません」というように、
モークシャを遠いゴールのように思っているかもしれません。
しかし、それは10人目の男のように、すでに叶っているものを探しまわっているのですから、

それはジョークなのです。

 

 

人々が、アートマーについての教えを聞いて、理解することができないということは、もう一つの不思議です。
それは不思議なこと(こんなもの、と知る対象ではない)ですから、理解することは簡単ではありません。
しかし、ほんの少しの人々だけが、その不思議さを理解することが出来ます。
ですから、アートマーの話を聞いて、ある人々は理解しないことは、少しも不思議ではありません。
あるいは、理解されるべきことが「自分自身」のことなのですから、

人々が理解しないことが不思議であるととらえることも出来ます。

 

 

話されていることは、ただ自分自身についてであり、自身で明らかな事実についてだけなのです。

私たちは、このアートマーをいつも経験しています。

アートマーがあってはじめて、考えが現れ、考えに認識が起こります。

世界のどんなものも、アートマーのようではありません。

制限のないものは唯一アートマーだけ。

このアートマーは、アーナンダとして、私たちが、自分自身を、

プールナ、満たされていると発見する喜びの瞬間にとても明らかです。

けれども、私たちは、私たちがその全体であることを指摘されても、

それを理解しません。それも、もう一つの不思議です。

 

 

 

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