श्रीभगवानुवाच ।

प्रजहाति यदा कामान् सर्वान् पार्थ मनोगतान् ।

आत्मन्येवात्मना तुष्टः स्थितप्रज्ञस्तदोच्यते ॥२.५५॥

 

śrībhagavānuvāca |

prajahāti yadā kāmān sarvān pārtha manogatān |

ātmanyevātmanā tuṣṭaḥ sthitaprajñastadocyate ||2.55||

 

シュリーバガヴァーンが言いました。ああ、アルジュナよ。

考えに現れる全て 欲望を手放し、自分自身において、自分自身といて 幸せな人 であるとき、

その時、その人は知識に根付いた人と言われます。


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⚪︎ 知識のみがその人を賢者にする

「知ること」のみがその人を賢者にするものであり、

どのような行いをしているかで賢者かどうかをジャッジすることはできません。

 賢者になりたければ、「知る」しかないのです。 

ちょうど、愛ある人になりたかったら、「愛する」しかないように。

 

 

⚪︎ 愛について

「どうしたら愛を育むことができますか?」と尋ねる人がいます。

 すべきことは、ただ「愛する(行動する)」ことだけです。 

「誰も理解してくれない」と愚痴を言いながら、愛を探しても見つかりません。 

人は無自覚に相手を競争や敵視したり、
自ら愛が見つからない「不利な状況」を作っている場合もあります。

愛のないところに、愛を見つけることはできないのです。 

愛を見出したいのであれば、愛をもって接することです。

愛は「どこか外に探しに行くもの」ではなく、

自分の愛ある行いを通して、自分の内側に見出すものです。

 

 

 

⚫︎ 愛とは外側ではなく、そもそも自分の中にある

感情には色々な形がありますが、どの感情も「愛」という一つの感情が現れた姿です。

 ちょうど、小麦が様々なパンやマフィンへと変化するように。 

そして、その愛とは、アーナンダ[限りのないもの]がストレートに現れた形です。

不足感(足りないという感覚)や状況によって愛が歪められるとき、

愛と自分はまるで分断されているかのように感じられます。 

その分断をどうにかしようとカーマ(欲望)が現れ、

それが叶わないと、怒り・嫉妬・失望として現れます。 

ですから、喜び・怒り・嫉妬・・・・これらすべては、

アーナンダ、すなわち愛の一つの表現(創造)に他なりません。

 ですから、「愛とはバガヴァーンである」と言われるのです。 

アーナンダが現れた形、愛であり、その愛が様々な表現(創造)として現れている、
その作者がバガヴァーンであり、それはバガヴァーンそのものです。

 

 

では、バガヴァーンとは何でしょうか?

 バガヴァーンの本質は sat-cit-ānandaです。 

そして、アーナンダの現れた形であるイーシュワラこそが愛なのです。 

怒りや嫉妬もすべて、愛(イーシュワラ)の現れた姿であり、その本質はアーナンダです。

ここにあるすべては、現れていても現れていなくても、ただ一つのアーナンダだけが存在します。 

現れていない状態とは、アーナンダの定義である、

「満ちていることの本質(アーナンダ・スヴァルーパ)」そのものであり、

それが表現されたものが「愛(プレーマ)」となります。

 

 

ここで言われた「sthitaprajña(知識が揺れ動かない人) 」とは、

アーナンダを自分の中に発見した人のことです。 

世界と自分を分けている境界線(分裂)はミッティヤー(上部の違い)であると知った人なので、

その人にとってどのような制限もありません。

アーナンダが自分の外にあると見ているなら、カーマは現れます。 

しかし、アーナンダとは自分自身であると知った時、そして、その自分とは全体であると知るなら、
すべての欲望(アルタ、カーマなど)も満たされていることになります。

ですから、「私は全体である」と知った時、すべての欲求も満たされるのです。