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श्रुतिविप्रतिपन्ना ते यदा स्थास्यति निश्चला ।
समाधावचला बुद्धिस्तदा योगमवाप्स्यसि ॥२.५३॥
śrutivipratipannā te yadā sthāsyati niścalā |
samādhāvacalā buddhistadā yogamavāpsyasi ||2.53||
(様々な方法と、そのゴールを示す)前半ヴェーダによって取り乱されてきたあなたの考えが 、
自分自身に確固として揺れ動かずに留まるとき 、あなたは自分自身の知識を得るでしょう。
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⚪︎ 揺るぎないもの (アチャラー / अचला)
人々はたくさんの疑問を持っています。
・「アートマー(私自身)には限界があるのか?ないのか?」
・「アートマーは変化を経て世界となったのか(パリナーミ)?
それとも変化せずに世界を支えているのか?(ヴィヴァルタ)?
・「アートマーは、世界と離れたものなのか、それは離れていないものなのか?」
このような疑いのリストには終わりがありません。
しかし、この詩のムムクシュにはこのような疑いは 一切ありません。
なぜなら、シュラヴァナ・マナナを繰り返し、
伝統の教えに沿って全ての疑いを取り除いてきたからです。
このように、揺れ動く(ヴィカルパ)疑いが完全に否定されること、
それこそが知識があり、真のヨーガなのです。
⚪︎ yoga
ここでクリシュナが使う「ヨーガ」という言葉は、
カルマ・ヨーガのことではなく「知識 」を指しています。
これは、のちに 6章23番でも語られるヨーガの定義です。
「दुःख-संयोग-वियोगम्(ドゥッカ・サンヨーガ・ヴィヨーガム
ー 悲しみとの結びつきから離れることがヨーガである)」。
「悲しみとの結びつき離れる」とは 物理的に離れることではありません。
それは「私=悲しい人」という結びつきは間違いであると理解することです。
・識別(ヴィヴェーカ)がない時:
悲しみは考えに起こっているのに、考えと自分の識別がないことから「私が悲しい」となる。
・識別(ヴィヴェーカ)がある時:
私は考えに気づいている人であり、体や考えに何が起きようと、私自身は悲しみに影響されない。
モークシャは何かをした結果得られる、新たな体験ではありません。
モークシャである自分は、今この瞬間もずっとあります。
それがそう見えない無知が妨げているだけなので、
ただ自分自身を知ること以外に、すべき行いは何一つありません。
このように識別のなさ(アヴィヴェーカ)から、悲しみ(ドゥッカ)と結びついてきました。
ドゥッカとの結びつきを解くのは
「アートマー・アナートマー・ヴィヴェー力(自分と自分でないものの識別)」のみです。
このヴィヴェーカの知識こそが、真のヨーガであり、
パラマールタ・ヨーガ(परमार्थ-योग /最終的な意味でのヨーガ)と呼ばれます。
この意味で、ここでクリシュナは
「あなたはヨーガ(知識)を得るでしょう(योगम् अवाप्स्यसि)」と述べたのです。
⚫︎2章 ここまでの締めくくり
2章ではこれまで「カルマ・ヨーガ」と「サーンキャ(ブランマンの知識)」について語られてきましたが、
この詩ではこれまでの内容がまとめられています。
【1行目】カルマヨーガについて
śrutivipratipannā te yadā sthāsyati niścalā
(シュルティに混乱させられてきた考えがしっかり留まる)
カルマ・ヨーガを意味する部分: プルシャアルタが明確になり、すべきことが揺らがなくなり、
ラーガ・ドヴェーシャ(好き嫌い)に振り回されない考えは、カルマ・ヨーガによって準備されます。
【2行目】サーンキャについて
samādhau acalā buddhiḥ tadā yogam avāpsyasi
(考えが、疑いなく、自分自身に留まるまる時、あなたは知識を得るでしょう)
なぜ、クリシュナはここで一度話をまとめたのでしょうか?
それは、次の詩から話題が変わり、アルジュナの質問が始まるからです。
⚪︎サンヴァーダ(対話)と「Benefit of the Doubt」
アルジュナはこの2章の時点では、まだ教えを完全には理解していません。
彼がすべての疑いを解消し、「なすべきこと」を理解するのは
ギーターの最終章である18章になってからです。
それまでの教えは、サンヴァーダ(先生と生徒との対話)の形で進んでいきます。
ギーターが対話形式で語られているのは、
この知識が盲目的に信じるものや、信仰ではなく、理解されるべきものだからです。
もし単なる信仰の教えなら、こんなにも長い説明や対話は必要ありません。
「ただ信じなさい」と言えばいいのですから。
4章34番ではクリシュナはアルジュナにこう述べます。
「適切な質問(パリプラシュナ)をすることによって、この知識を得ますように」
ここで生徒に求められる態度が、「Benefit of the Doubt」、
「まずは先生(聖典)を正しいと見る」という信頼の姿勢です。
ここでの信頼とは、聖典をプラマーナ(知るための道具)として受け入れること。
探求の中で、わからなかったり、矛盾に出会うことがありますが、
その時、生徒は聖典や先生を否定するのではなく
「聖典や先生の言わんとすることを、受け取る準備ができていないのかもしれない。」と、
疑いをひとまずフックにかけ、今は聴いてみよう、とする態度です。
このシュラッダーに基づいた質問がパリプラシュナ(परिप्रश्न)です。
