वासांसि जीर्णानि यथा विहाय नवानि गृह्णाति नरोऽपराणि ।

तथा शरीराणि विहाय जीर्णान्यन्यानि संयाति नवानि देही ॥२.२२॥

 

vāsāṃsi jīrṇāni yathā vihāya navāni gṛhṇāti naro'parāṇi |

tathā śarīrāṇi vihāya jīrṇānyanyāni saṃyāti navāni dehī ||2.22||

 

ちょうど人が古い服を捨て、新しい服を手に入れるように、

同様に、体を持つ人は、古い体を捨て、別の新しいものを手に入れます。

 

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・ナラの二つの意味

⒈人間

⒉不滅のもの

「ナ リーヤテー イティ ナラハ (滅ぼされない者、いつも、どのようにしても、生き延びる者)」

もし人が知識を得たならば、、永遠のブラフマンとして永遠に生き続けるでしょう。

私とは、生死のサイクルの中にいないことを知識によって見抜いたならば、

その私は、体持って生まれたり死んだりすることはなく、全体として留まります。

そのことを知らずに、自分の意味を移り変わる個性や肉体とするならば、

その人は単にサイクルの中で、生きているにすぎません。



・ヤター

ヤター「ちょうど」とは、「ちょうど〜のように」という例え話を示しています。
ここでの例えの要点は、人が古い服を手放して、新しい服を手に入れるように、

同様に、体を持つ人は、古い体を捨て、別の新しい体を手に入れる、ということです。

シャリーラとは「崩壊の対象であるもの」という意味です。

ですから、体とはやがて古いもの[ジールナ]です。
服は古くなるものであり、服が古くなればその服を捨て、新しい服を得るように、
肉体とは崩壊の対象であり、肉体が古くなれば、デーヒーは新しい体[シャリーラ]を得ます。


アートマーは[ニッテャ]で、それは死ぬことはなく、いつも生き続けます。
たとえ、私観念[ジーヴァットヴァ]が死ぬ時ですら、個人[ジーヴァ]は死にません。
ジーヴァットヴァが死ぬとは、体や考えが消えることではなく、
「私は個人である」という間違った観念だけが落ちるということです。
知識によって落ちるのは、このジーヴァットヴァであり、ジーヴァはあり続けます。
アートマーそのものは消えたりしませんし、体に宿る人[デーヒー]は存在し続けます。

 

※デーヒーも二つのレベルで言える。

・肉体を装っている人=スークシュマシャリーラ

・肉体と考えを装っている人=アートマー、本当のデーヒー

 

 

 

●衣服としての体

 

デーヒーは、肉体を通してこの世界と関わることができます。
しかし、その肉体が破壊されると、デーヒーはもはや働くことができないので、
新しい肉体を探さなければなりません。

ここで、一つの質問が起こります。
健康的に老いて肉体を手放すのはわかりますが

急な事故や病気などで若く死んでしまう人、
また、恵まれた環境に生まれる人、病気や障害を持って生まれる人とは、何が違うのですか?
その人は、一つや二つ悪いことをしかもしれませんが、
障害や病気になるほどのものではない、と思えます。



・答え
物理的な体がこんな風に生きているということは、
この体に生命をもたらしている原因、デーヒーがいるということです。
デーヒーは、肉体が滅びた後も、生き延びているのですから、過去生にもいくつもの行いをしています。
ですから、肉体の破壊の理由が、今世の行いでは見つからなくても、
過去生の行いが原因となっているのです。
過去生を含め、その人自身のカルマのために、デーヒーは、この体にやってきたのです。
この理解がないとき、神はまるで気まぐれのように思えるでしょう。

 

●神は専制君主ではない

 

神の理解がないとき、神はサディストな専制君主に見えるでしょう。

神とは法則です。私たちが、それ求め、それを得ました。

「私はあなたを創った人ですが、同時に、私はあなたを創ってはいません」神様は言うのです。

まるで矛盾に聞こえるような言葉ですが、ここで有名な例えが言われます。

 

 

・手を火傷した人のお話

人 「あなたが私の手を焼いたのですか?」

火  「はい、焼きました」

人  「なぜ焼いたのですか?」

火  「私は焼いてなんていません」

人 「あなたは今、焼いたって言ったのに、どういうことですか?」

火 「 私はあなたの手を焼きました、焼くことは私の本質[ソヴァーバ]ですから。

       しかし、私はあなたの手を追いかけてまで、焼いていません。

       あなたが私の中に手を入れたので、私は焼きました。

       あなたがそれを求めたのです。」

 

同じように、神はこの世界の作者であり、同時に、作者ではありません。

確かに、この世界(結果)を編み上げたのはイーシュワラですが、

カルマとダルマの法則通り「編み上げる」ことがイーシュワラの本質[ソヴァーバ]ですから、

人が行いをするので、法則通り、イーシュワラは編み上げただけなのです。

全てはイーシュワラの作品だけれど、その材料は人々のプンニャ・パーパなのだから、

人々が求めた選択にふさわしい結果が、ただただ返ってきているだけなのです。

ですから、神は作者だけど、作者ではない、と言えるのです。

イーシュワラは気まぐれに人を選び、

追いかけてまで、この結果を返しているわけではありません。

 

 

 

それがいつ、どんな風に実るかは個人の手にはないですが、

これはカルマの法則、今世個人にそれぞれに予定されたカルマ[プラーラブダ・カルマ]であり、

それは支離滅裂なものではなく、

重力の法則のように、逆らいようのない完璧な法則なのです。

肉体が滅びてもデーヒーは生き延びることを摩擦なく受け入れるためには、

カルマの法則を理解しなければなりません。

このように、今世生まれ肉体、環境、両親、個性、性別、国籍、病気、出会いや別れ・・・

全てがプラーラブダ・カルマが実っている姿なのです。

プラーラブダ・カルマが実り切ったらば、例え若くても、肉体は滅びるのです。

これが肉体が手放される理由です。