बुद्धियुक्तो जहातीह उभे सुकृतदुष्कृते ।

तस्माद्योगाय युज्यस्व योगः कर्मसु कौशलम् ॥२.५०॥

 

buddhiyukto jahātīha ubhe sukṛtaduṣkṛte |

tasmādyogāya yujyasva yogaḥ karmasu kauśalam ||2.50||


サマットヴァ・ブッディを授かった人は、この世界でプンニャもパーパも手放します。

ですから、あなたはカルマ・ヨーガに専心しなさい。

カルマヨーガとは、行いにおいて、カウシャラを持つことです。

 

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カルマヨーガは選択の問題ではない

 

では、アルジュナも他の人も、最初に何をすべきでしょう?

あなたが「カルマ・ヨーギーか、サンニャーシーかどちらになるべきですか?」

と尋ねることは、

「はじめに大学に入った方がよいでしょうか、それとも博士号を取った方がよいでしょうか?」

と尋ねているようなものです。

 

 

博士号を取るためには、大学という段階が必要不可欠ですから、

そこに選択の余地はありません。

同じように、カルマヨーガはサンニャーサに至るために必要不可欠な段階ですから、

そこに選択の余地はありません。

アルジュナはまだ自分への問いかけを始めたばかりで、

ラーガ・ドヴェーシャに振り回されてしまう恐れがありました。

ですから、クリシュナは「カルマヨーガを通して考えを準備しなさい」と述べたのです。

 

 

 

自分の選択における思慮深さと分別を練習すること

 

この詩では、行いをするときに関して、 カウシャラという姿勢ですべきであると教えられています。

それは、すべきでないことは避け、すべきことを適切に行う態度です。

イーシュワラの現れそのものである、ダルマに沿って行いを選択することは、

イーシュワラ・アルパナ・ブッディ (イーシュワラに捧げる態度)とも言われます。

祭壇に捧げるものは、適当なものではなく、適切なものを捧げるように、

置かれた状況において、適切な行いを選ぶ姿勢がカウシャラです。

それは、単にダルマ(調和)を選ぶことではありません。

ダルマの背景にイーシュワラを認識し、そのイーシュワラと調和し、

行いを選ぶという態度がカウシャラであり、それがカルマヨーガです。

 

 

 

●サンニャーサについて

「何もしないことでモークシャを得れる」という勘違いがありますが、

「カルマをしないこと」は何の解決にはなりません。

後に話される、「サルヴァ・カルマ・サンニャーサ(全ての行いを手放す)」とは、

「知識(知ること)による手放し」であり、単に「行いをしないこと」ではありません。

つまり、体や考えは行いをしていても、「私自身はどんな行いもしていない」、ということを 

知識の目で見抜いている、ということです。

太陽は地球の周りを回っているように見えるけれど、

本当は回っていないことを知識によって見抜いているように。

このように自分自身の知識を知った人が、

サルヴァ・カルマ・サンニャーシーであり、ニャーニーと言われます。

この知識は、きれいな考え(アンタッカラナシュディ)を持つ人にのみ起こります。

そして、アンタッカラナシュディのための 唯一の道具が、カルマヨーガなのです。

 

 

 

●アルジュナに対する教え

3章では、「モークシャを求める人には

カルマヨーガとサンニャーサという二つの生き方の選択がある」、と教えられます。

確かに、アルジュナはモークシャを求めていたので、サンニャーサの選択も可能です。

しかし、彼は深い悲しみのどん底にいて、さらに王子という役割も背負っていました。

そのため、クリシュナは、

アルジュナがサンニャーサを受け入れる準備ができているとは思いませんでした。

ですから、クリシュナはアルジュナにこう言ったのです。

「ヨーガにしっかりとどまり、執着を手放し、行いをしなさい。」と。