マルコ13章24-32節は、終末に訪れる劇的な出来事と「人の子」の来臨について語られています。一見すると恐怖を感じさせるような表現ですが、この箇所には深い希望と、日常の中で私たちがどのように生きるべきかを示す洞察が隠されています。


まず、「太陽が暗くなり、月が光を放たず、星が空から落ちる」という描写に注目してみましょう。これは一見、自然界の崩壊を描くように見えますが、象徴的に捉えるならば、私たちが日常的に頼りにしているものや、安定していると思い込んでいるものが揺らぐことを示しているとも言えます。日常生活の中で、私たちは安定した環境や社会的な枠組みに依存しがちですが、イエスの言葉は、それらがすべて揺らぐ可能性があることを示しています。そして、その揺らぎの中にこそ、私たちの信仰の基盤が試されるのです。


このような状況で私たちに必要なのは、目に見えるものに囚われるのではなく、目に見えないけれども決して揺るがないものに目を向けることです。イエスが「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と言われるのは、何が変わっても変わらない神の約束があることを示しているのです。この確信が、私たちが困難な時代を生き抜く力となります。


次に、「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来る」という言葉に目を向けてみましょう。ここで描かれるのは、ただの恐怖の象徴ではなく、全ての苦しみや混乱が終わり、神の正義が勝利する瞬間です。私たちが経験する苦難や困難は一時的なものであり、最終的には神の光が勝利することが約束されています。この希望は、今を生きる私たちにとっての大きな力となり、未来への恐れを乗り越える勇気を与えます。


さらに、いちじくの木のたとえに注目しましょう。「枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる」とあります。これは、一見小さな変化に見えるものが、大きな出来事を予告するサインであることを示しています。このたとえを通して、イエスは私たちに、日常の中で神の働きや、変化の兆しに敏感になることを教えています。終末の出来事を恐れるのではなく、日常の中で神がどのように働いているのかを見極める感性を磨くことが求められているのです。例えば、私たちが日々出会う人々との関わりや、些細な出来事の中にこそ、神の愛や慈しみの手が見えるかもしれません。いちじくの枝の成長を見るように、日々の中で何が起こっているのかに目を向けることが、私たちの信仰を強める助けとなります。


そして、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」という言葉の中には、未来への謙虚さが求められています。私たちは、すべてを知ろうとする傾向がありますが、神はその「知ることができない」未来を受け入れることこそが、信仰の中での大切な要素であることを教えています。なぜなら、それこそが私たちの現在をどう生きるかという問いに向き合わせるからです。未来の不確実性に囚われるのではなく、今この瞬間をどう誠実に生きるか。これこそが、神が私たちに望む姿勢なのです。


この視点から見ると、マルコ13章の言葉は単なる終末の予言ではなく、日常の中で信仰をどのように生き抜くかを示す道しるべであることが分かります。揺らぐものに頼るのではなく、神の揺るがない言葉に信頼を置き、日々の小さな出来事の中に神の愛と導きを見出しつつ、未来を恐れずに歩んでいく――これこそが、この箇所の中に込められたイエスのメッセージの核心ではないでしょうか。

 

今日のテーマは、「神の国と地獄は私たちの間にある」という考えです。ルカの福音書17章で、イエスは「神の国はあなたがたの間にある」と語られました。私たちはこれを「神の国が目に見えるものではなく、心と行動に表れるものだ」と解釈できます。私たちが愛をもって行動し、平和を広げ、互いに支え合うとき、そこに神の国が現れるのです。



しかし、この視点からもう一歩進めて考えると、地獄もまた、私たちの間に存在する可能性があることに気づきます。地獄は死後の世界の恐ろしい罰として想像されがちですが、私たちの心や行動によって、現実の中に現れることもあるのです。自分自身や他者に対して憎しみや怒り、無関心を抱き、自己中心的な行動を取るとき、私たちは周囲に苦しみや痛みをもたらし、まるで地獄のような状態を作り出してしまうことがあります。家族の中で、職場や地域で、私たちが他者を傷つける行為や無関心によって、地獄のような状況が現実に起こるのです。


この現実を見つめることは決して気持ちの良いことではありませんが、それと同時に大きな希望も含まれています。なぜなら、私たち一人ひとりには、地獄のような状況を変える力が備わっているからです。どんなに暗い状況であっても、愛と赦し、思いやりの行動がそこに光をもたらすことができます。神の国は、特別な出来事や特別な場所に現れるのではなく、私たちの日常の中にこそ存在します。それと同様に、地獄も私たちの心の在り方や行動によって現れることを忘れてはなりません。


私たちの選択と行いが、どちらの世界を広げていくかを左右します。小さな親切な行動や、赦す心、互いに手を差し伸べる行いが、神の国をここに現すのです。反対に、無関心や憎しみを放置すれば、そこに地獄のような現実が生まれてしまうでしょう。


私たちは今、何を選び、どのように生きるのか問われています。地獄を遠ざけ、神の国を築くために、一人ひとりが小さな愛の行動を積み重ねていくことが大切です。日々の生活の中で、他者と関わりながら愛を示し、思いやりを持って生きることで、神の国が現実のものとなるのです。神の国も地獄も、私たちの間に現れる。それを決めるのは、私たちの心と行動です。今、神の愛をもって生きることを選び、私たちの間に神の国を広げていきましょう

ルカの福音書は、特に社会的な力や地位を持つ者に向けられた厳しいメッセージを含んでいます。今日の譬え「やもめと不正な裁判官」もその一つです。この物語を通じて、ルカはキリスト者の道を歩もうとするテオフィロに、そして私たちすべてに問いかけています。「あなたが信じている神は、あなたの思い通りになる存在ではない。この神を本当に信じることができるのか?」と。

1. 人間の常識を超える神

譬えに登場する不正な裁判官は、神を畏れず、人を顧みない存在です。彼がやもめの訴えを聞き入れたのは、正義感や思いやりからではなく、自分が煩わされるのを避けるためでした。ルカはこの裁判官を通じて、「この世の権力者がどれだけ自己中心的で不正であるか」を描きつつ、それに対比して神の姿を浮かび上がらせます。神は人間の期待通りには動かない存在であり、私たちの常識や思惑を超える方です。祈りがすぐに応えられない時でも、私たちの思い通りに事が運ばない時でも、それでもなお神を信じることができるか——これが問われています。

2. 信仰とは「取引」ではなく「委ねる」こと

多くの人は、神を「善行をすれば報酬を、悪行をすれば罰を与える存在」として捉えがちです。しかし、ルカが示すイエスの神は、人間の計算を超えた存在です。私たちの行いに基づいた取引ではなく、神との深い信頼関係が求められています。神がどのように働かれるかを完全に理解することはできませんが、それでも「神が最善をなされる方」であると信じることが求められています。信仰とは、自分の期待を超えて神に委ねることです。

3. 発想を変えるためのメタノイア

イエスはこの譬えを通して、テオフィロや私たちに「発想を変えよ」と語りかけています。自分の期待や思惑を超えた神の働きを信じるために、心を改めること、すなわちメタノイアが必要です。信仰は、単に善行を積み重ねることで得られるものではなく、神を全面的に信じ、すべてを委ねることから始まります。このメタノイアは、私たちが自らの価値観や常識を超えて、神の意志に従う覚悟を求めています。

4. 「この神を信じることができるか?」という問い

イエスが最後に問いかけた「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見出すだろうか」という言葉は、私たちに深い問いを突きつけています。この神を、本当に信じることができるのか?この神は、時に私たちの常識を覆し、思いがけない形で働かれる方です。しかし、それでもなお、この神を信じ、すべてを委ねる信仰を持つことができるかが問われています。私たちの信仰は、簡単なものではなく、時に困難を伴うものです。それでも、神が私たちと共におられ、最善を導いてくださることを信じ続けることが求められています。

5. 信仰によって生きる

この神を信じるとは、単に自分の願望をかなえる存在として期待することではありません。神の正義と愛に生き、すべてを委ねて歩むことです。やもめのように、祈り続け、希望を捨てず、神の意志に信頼する信仰を持つことです。それは、私たちの思い通りにいかない時にも、神を信じる姿勢を貫くことを意味します。

ルカ17章に記される十人の重い皮膚病を患う人々の癒しの物語は、単なる奇跡の出来事ではなく、神の救いと新しい共同体への招きを示す「しるし」として私たちに語りかけています。癒しそのものが目的ではなく、そこから始まる神との新しい関係、共同体の再生、そして新しい神の民としての歩みが強調されているのです。

 

重い皮膚病を患っていた者たちは、律法の規定により「汚れた者」とされ、共同体から隔離されていました。癒されることで彼らは再び社会的・宗教的な共同体へ戻ることができました。つまり、癒しは単なる肉体的な回復にとどまらず、共同体とのつながりを回復し、社会の中での居場所を取り戻すためのものだったのです。イエスが十人を癒したのは、神の愛と憐れみが彼らを孤立から解放し、新たなつながりを築くためでした。しかし、この癒しが指し示すものは、単なる社会的な復帰にとどまらない、さらに深い意味を持っていました。

 

癒しを受けた十人のうち、九人のユダヤ人は癒された後、そのまま自分たちの共同体へと戻っていきました。彼らにとって、癒しは神から与えられた恩恵であり、それによって自分たちの社会的な立場や関係が回復されるものでした。しかし、その先の神との新しい関係を求めて行動したのは、ただ一人、サマリア人だけでした。彼は他の九人とは異なり、イエスのもとに戻り、神を賛美し、感謝を示しました。この行動によって、彼は単なる社会的な復帰にとどまらず、神との新しい関係を築き始めたのです。イエスは彼に「あなたの信仰があなたを救った」と語りかけられました。この言葉は、彼が肉体の癒し以上の救いを受けたこと、つまり神との深い絆と新しい命を得たことを示しています。

 

サマリア人が新しい神の民として迎え入れられるということは、非常に重要な意味を持ちます。当時、ユダヤ人とサマリア人の間には深い対立と分断があり、ユダヤ人の共同体が彼を受け入れることは通常あり得ませんでした。しかし、イエスはこのサマリア人を特別に認め、彼を新しい共同体、すなわち神の愛によって築かれる新しい神の民として迎え入れました。彼は単にサマリア人の共同体へ戻るのではなく、すべての民族や背景を超えた新しい神の家族の一員として受け入れられたのです。このことは、イエスがもたらす救いがすべての人々に開かれていることを強調し、人種や宗教の垣根を超えた普遍的な神の愛を示しています。

 

私たちもまた、このサマリア人の姿勢に学ぶべきです。私たちが癒しや恵みを受けた時、それをただ自分自身の利益や回復のためだけに終わらせるのではなく、神との新しい関係を築き、感謝と信仰をもって新しい神の民として歩み始めることが求められています。神は、私たちがどのような背景や境遇を持っていようと、すべての人をその愛の中で迎え入れ、新しい共同体の一員として招いてくださるのです。

 

この物語を通して、癒しが示す「しるし」としての意義を深く見つめ、私たちもまた新しい神の民として生きるように導かれていることを覚えましょう。私たちが神に応える信仰と感謝をもって、神の愛と救いを日々の生活の中で証しし、共に歩んでいくことが求められています。

今日の福音では、僕(しもべ)と主人の関係が描かれています。イエスはこの例えを用い、人々に自らを主人ではなく僕として認識するよう促しました。主人はただ一人、神だけです。しかし、この教えをどのように私たちが受け取るべきか、特に社会的な立場や状況に応じて考える必要があります。

 

ルカ福音書は、テオフィロという有力者に宛てて書かれたとされています。彼は字を読み、お金もあり、社会的な影響力を持つ人でした。ルカがこのような人々に向けて「しもべとしての志を持つ」ことを求めた背景には、特権や地位に固執せず、他者のために自己を捧げるという教えが含まれています。これは、力や影響力を持つ人にとって非常に意義深いメッセージです。イエスは、富や権力を持つ者が謙虚に奉仕することで、神の国を実現する道を示しています。

 

一方で、このメッセージを社会的に弱い立場の人々に同じように適用することは、非常に慎重であるべきです。すでに抑圧され、苦しい生活を強いられている人々に「僕として生きなさい」と求めることは、重荷を増すことにしかならないかもしれません。福音のメッセージは、単に誰にでも同じように適用すべきものではなく、それぞれの立場や状況に合わせて解釈されるべきです。イエスの教えには常に、弱者に寄り添い、彼らを解放し、尊厳を与える視点が貫かれています。ルカ福音書においても、貧しい人々や抑圧された人々を優先するメッセージが何度も語られています。

 

このことから、私たちは「しもべとしての志」を持つことが何を意味するのかを考える際に、自分自身の立場や役割を見つめ直す必要があります。有力者や影響力を持つ者にとって、それは謙虚に他者に仕え、自らの特権を手放し、他者のために尽くすことです。これこそが、イエスが求めた「僕としての姿勢」です。しかし、弱者に対しては、まず彼らの苦しみを取り除き、支えとなり、自由と尊厳を与えることが重要です。神の愛は、全ての人に対して適切な形で表現されるべきだからです。

 

聖母マリアのように「見なさい、私は主のはしためです」と応えることができる私たちは、神に従う僕であると同時に、他者を愛し、仕える使命を負っています。しかし、それは単なる自己犠牲や従順ではなく、神の愛に基づいた自由であり、他者への真の奉仕です。神が私たちに求めているのは、与えられた役割を無理なく全うしつつも、互いに愛を持って支え合う生き方です。

 

今日の一日、私たちが自分の立場を見つめ直し、神の僕としての使命を果たすために、謙虚な心と愛を持って進むことができますように。神の愛が私たちを導き、すべての人を照らす光となるように祈りましょう。

ルカ17章1-6節において、弟子たちが「わたしどもの信仰を増してください」とイエスに求めた場面は、私たちに信仰の本質を再考させる重要な示唆を与えています。弟子たちの要望に対し、イエスは「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば」と語ります。ここでの対話は、信仰を「量」で測る発想の根本的な誤りを明らかにしています。信仰は多くあるほど力強いわけではなく、その本質が問題なのです。


弟子たちの願いは、もっと大きな信仰、強い信仰を求めるものでした。しかし、イエスは「信仰を増やす」必要はなく、「純粋な信仰」を持つことが何よりも重要であることを示しています。たとえからし種のように小さくとも、真に心からの信仰であれば、それは驚異的な力を発揮するというのです。この言葉は、私たちに「小さな信仰を軽んじるな」というメッセージを与えています。形や大きさではなく、信仰が本物かどうか、それを真に信じているかどうかが、真の力をもたらす要因なのです。


ここで重要なのは、私たち自身の内に信仰が「あるか、ないか」です。イエスは、ただ見せかけの信仰や表面的な信仰ではなく、どれほど小さくても「純粋な信仰」を持つことが大切だと語りかけています。日常の中で私たちも「もっと信仰を強くしたい」「もっと大きな力を持ちたい」と願うことがあるでしょう。しかし、イエスの教えは、それ以上の何かを外から加えようとするのではなく、今すでに自分の中にある信仰をどれだけ真実に活かせるかを問うています。


信仰とは、誰かと比べたり、他者の基準で評価するものではありません。それは、今ここにある自分の中の小さな種を大切に育むことから始まるのです。からし種一粒ほどの信仰があれば、桑の木すら海に移動させる力があるという言葉は、私たちが持つ小さな信仰を軽視せず、その純粋な力を信じ抜くように促しています。日々の中で、信仰を比較したり量で測るのではなく、その存在を真に見つめ、育てていくこと。それこそが、イエスが私たちに示した信仰の道です。

 

今日、私たちが取り上げるマルコによる福音書12章38-44節では、イエスが律法学者を厳しく批判し、貧しいやもめの献金を注目させる場面が描かれています。これは一見、信仰の偽善と真実な献身を対比する物語のように見えますが、より深く掘り下げてみると、社会構造や制度の問題にも触れています。ここから私たちは何を学ぶべきなのでしょうか。

 

イエスは律法学者たちの見せかけの行動を批判されました。彼らは長い衣を着て歩き回り、人々から尊敬の目で見られることを求めていましたが、その内実は貧しいやもめのような社会的弱者を犠牲にするものでした。ここで注目すべきは、イエスの批判が単に彼らの個人的な行為だけに向けられているのではなく、むしろ律法学者が支える制度そのものの不正義に向けられていることです。やもめの家を「食い物にする」とは、制度が貧しい人々を犠牲にする構造を維持していることを示唆しています。イエスのこの批判は、現代社会においても、制度が弱者を追い詰める場合への警告となるのです。

 

続いてイエスは、賽銭箱に多額の献金を入れる金持ちと、わずか二枚の銅貨を捧げる貧しいやもめを見つめます。やもめの行為が称賛されるのは、彼女が「持てるすべて」を捧げたからです。しかし、ここには単なる信仰の模範以上のメッセージが隠されています。彼女はなぜ生活費のすべてを捧げるほどの状況にあったのでしょうか。最新の学説では、これが単なる献身の美談ではなく、貧困層が無理やり捧げざるを得ない社会の不平等を象徴していると指摘されています。貧しい者が大きな犠牲を強いられることを、制度が容認している現実を浮き彫りにしているのです。

 

イエスはここでやもめを称賛すると同時に、彼女の現状に目を向けるよう呼びかけています。多くの者が「有り余る中から」献金している中で、やもめは自らのすべてを捧げたのです。この対比が示すのは、単に信仰の熱意を競うことではなく、私たちがどのように社会の不正義と向き合い、貧しい者や弱い者を支えるのかという問いです。見せかけの信仰ではなく、真実な愛と隣人への配慮を持つことが求められています。

 

この箇所は、今日の私たちにも問いを投げかけます。私たちの社会の中に、経済的な格差や不正義が存在することを見過ごしてはいないでしょうか。自分自身が「献金」や奉仕という形だけに囚われ、内実は何かを見逃しているとしたら、それはまさにイエスが批判された律法学者の姿に重なります。真に大切なのは、隣人を思いやる心を持ち、制度や社会の中で弱い者に寄り添う行動をすることです。やもめの捧げた銅貨は、単なる物質的なものではなく、その内に秘められた全てを訴えています。

 

私たちは今、どのように生きるべきかを問われています。制度の中に隠れる不正を見つけ、それに声を上げること。そして、表面的な善行ではなく、弱い者に寄り添う愛と真心をもって生きること。それこそが、イエスが示された道であり、私たちが従うべき信仰の姿なのです。

ルカ16章1-8節の「不正な管理人のたとえ」は、従来から多くの解釈が存在しますが、近年の学説の中で特に注目されるのは、このたとえが単なる道徳的教訓や「機転の効いた行動」を称賛するものではなく、より深い社会的・経済的背景を持つという考え方です。これに基づいて、このたとえに新たな視点から光を当てたいと思います。

 

まず、この管理人の行動の背景には、当時の経済的な構造が密接に関係していると考えられます。新約聖書の時代、土地の所有者や地主はしばしば大きな経済力を持ち、富を管理する立場の者がその財産を運用し、利益を生む役割を担っていました。しかし、これらの管理人は主人の財産を増やすために利子を付けて貸し付けるなど、しばしば不正や搾取的な行為に手を染めていたとされます。現代の学者たちは、このような社会背景がこのたとえを理解するために重要であると指摘しています。

 

たとえの中で管理人は、自分が解任されると分かったとき、債務者たちの借金を減額します。この行動は、管理人が自分の立場を失った後に生き残るための「保険」をかけたものと理解されがちですが、一方で最近の解釈では、ここにもう一つの意図が見え隠れしています。つまり、管理人は利子分や自身の取り分を帳消しにして、元の債務額を減らすことで、搾取的な利息を除去し、貧しい人々への負担を減らすことを意図した可能性があるのです。これは単に自己保身だけでなく、ある種の経済的正義を示した行為とも見ることができます。

 

こうした視点からすると、この管理人の行動をイエスが「賢明である」と称賛した背景には、神の国における正義と憐れみが現れる兆しがあるのではないでしょうか。イエスはここで、世の中で「賢く」行動することを奨励しつつも、その知恵が単なる個人的な利得を求めるのではなく、他者との関係を回復し、負担を軽くするような方向に用いられるべきだと語っているのです。これは、神の国の価値観—すなわち、自己犠牲や正義、慈しみ—が現実の中で具体化される方法についての示唆とも言えます。

 

現代に生きる私たちにとって、このたとえのメッセージは重要です。社会的な不公正や搾取の現実に直面したとき、私たちはどのように知恵を持ち、積極的に行動できるでしょうか。単なる個人の利益ではなく、神の正義と憐れみを優先する姿勢が求められています。不正な管理人のたとえは、そうした信仰者の具体的な生き方への呼びかけであり、私たちの持つあらゆるリソースをどのように用いるかについて問うものなのです。

待降節の時間を過ごす中で、私たちはしばしば信仰の深まりと新たな光を求めます。しかし、現実には、信仰が揺らぎ、怒りや疑念が心に芽生えることも少なくありません。特に、神に対する期待が裏切られたと感じる時や、祈りが応えられない時、私たちは「なぜ神は私の声を聞かないのか?」「どうしてこの苦しみが終わらないのか?」といった疑問を抱き、怒りを覚えることがあります。このような時期は信仰の危機とも言え、待降節の「光を待つ」行為が困難に感じられることもあるでしょう。しかし、怒りや疑念は信仰を深めるきっかけにもなり得るのです。今回は、このような感情にどう向き合い、待降節を通じてそれを乗り越えるかを考えます。

まず、神に対する怒りや疑念が生じるのは、私たちが神に対して強い期待を抱いているからこそです。「神は愛であり、私たちの祈りを聞き、助けてくれるはずだ」という信念があるからこそ、現実がその期待に反する時、私たちは怒りを感じます。この怒りは、単なる人間的な感情にとどまらず、信仰の本質を問い直す機会でもあります。聖書にも、神に対して怒りをぶつける場面が多く描かれています。たとえば、旧約聖書のヨブ記では、ヨブが不条理な苦しみに対して神に問いかけ、怒りを示す姿があります。また、詩篇にも、神に対する怒りや疑念が表現された詩が多く含まれています。これらは、神への怒りを抱くこと自体が間違いではなく、むしろ信仰の一部として認められていることを示しています。怒りや疑念を感じることは、人間として当然のことであり、それを通じて神との関係を深めることができるのです。

待降節において、私たちが感じる怒りや疑念は、私たちの心を閉ざしてしまう危険性もあります。「どうして自分だけがこんな目に遭わなければならないのか」「神は本当にいるのか?」という思いが強くなると、祈りを捨て、信仰から遠ざかることもあるかもしれません。しかし、このような感情を押し込めるのではなく、神に対して正直にぶつけることが重要です。祈りの中で、怒りや疑念を素直に言葉にすることは、神との対話を深めるための一歩です。神は、私たちが何を感じ、何を思っているのかをすでに知っておられます。隠す必要はありません。むしろ、怒りや疑念を祈りの中で表現することで、私たちは神とより深い結びつきを持つことができるのです。

また、怒りや疑念を通じて私たちが経験する信仰の危機は、他者とのつながりを通じて乗り越えられることもあります。私たちが抱える苦しみや疑念を誰かと共有することで、その重荷が少し軽くなることがあります。信仰の仲間や家族、友人とともに、自分の感情を分かち合い、共に神に向かって祈ることで、私たちは再び信仰の力を見つけることができるのです。特に待降節の時期には、互いに支え合い、共に光を求める仲間がいることを忘れてはなりません。怒りや疑念を一人で抱え込むのではなく、それを分かち合い、共に祈ることで、私たちは信仰の試練を乗り越えることができるのです。

待降節は、ただ静かに神を待ち望む時期ではありません。むしろ、信仰の揺らぎや心の葛藤を抱えながらも、神の光を見出そうとする挑戦の時間です。怒りや疑念を抱くことは、私たちが神との関係を深めるためのプロセスであり、その中で私たちは自分自身の信仰の在り方を見つめ直すことができます。このプロセスを通じて、私たちはただ平穏な心を求めるだけでなく、信仰の本質に迫る旅路を歩むのです。神への怒りや疑念を感じることは、人間としての自然な反応であり、これを通じて私たちは神との対話を深め、信仰を強めていくことができるのです。

最後に、待降節の時期において私たちは、自分自身の怒りや疑念に向き合い、それを神に委ねる勇気を持ちましょう。神は私たちのすべてを受け入れ、どんな感情でも受け止めてくださいます。怒りや疑念があるからこそ、私たちは神との関係を深め、待降節の本質を理解することができるのです。闇を抱えながらも光を求める姿勢こそが、信仰の力となるのです。怒りや疑念を恐れるのではなく、むしろそれを神との対話のきっかけとし、待降節を通じて新たな信仰の旅路を進んでいきましょう。

待降節の中で孤独や沈黙について考えるとき、私たちはしばしば自ら選び取った静けさや、内的な充実のための沈黙に焦点を当てがちです。しかし現実には、多くの人々が「積極的な孤独」や「霊的な沈黙」ではなく、むしろ望まぬ孤独と、祈りを諦めた沈黙に苦しんでいます。他者に見捨てられ、社会や家族、友人から切り離される孤独、そして神への信頼を失い、もはや祈ることすら無駄だと感じる沈黙—これらのネガティブな状態は、心の闇を深めるものであり、待降節の光を見失う危険性を秘めています。今回は、このような孤独と沈黙について掘り下げ、その中で私たちがどのように神の声を聞くことができるのか、考えていきます。

まず、「他者に見捨てられた孤独」について考えてみましょう。この孤独は、自らの選択によって一時的に離れるようなものではなく、むしろ周囲から拒絶され、見捨てられたと感じる状況です。例えば、友人や家族に理解されず、仕事や社会の中で孤立する経験は、心に深い傷を残します。さらに、社会的な差別や偏見によって疎外されることも、耐え難い孤独をもたらします。このような孤独は、自分が「誰からも必要とされていない」「誰も自分を理解していない」という感覚を生み、自己否定や自己嫌悪へとつながることがあります。その結果、人は自分自身の価値を見失い、さらには他者とのつながりを拒絶し始めることもあります。この状態に陥ると、待降節の「光」を感じるどころか、闇に押しつぶされてしまうように感じるものです。

このような孤独の中で、神はどこにいるのでしょうか?見捨てられた孤独に苦しむ人々にとって、神の臨在は遠いものに思えます。むしろ「神は私を見放したのではないか」「こんなに苦しいのに、なぜ神は何もしてくれないのか」と思う瞬間もあるでしょう。これこそが、他人に見捨てられた孤独の持つ深い影響です。神がいないかのように感じるこの闇の中で、私たちはどのようにして神を見つけることができるのでしょうか?答えは簡単ではありませんが、私たちはまず、その孤独に向き合う必要があります。神の沈黙や不在を感じる瞬間こそ、実は神が最も近くにいて、私たちの苦しみを共に分かち合っている可能性があるのです。しかし、その気づきに至るまでには、長い時間と苦しみが伴うかもしれません。

次に、「祈りを諦めた沈黙」に目を向けてみましょう。これは、祈っても答えが得られない、何も変わらないという絶望感から生まれる沈黙です。祈ること自体が無意味に感じられ、神に対して何を求めても無駄だと思う瞬間は、誰にでも訪れることがあります。特に、何度も願いが叶わず、失望を繰り返す中で、人は神に背を向け、祈りを放棄してしまうことがあります。この「沈黙」は、単なる言葉の不足ではなく、心が神に向かうことを拒む深い闇です。信仰を持つ人にとって、祈りを失うことは心の支えを失うことと同義であり、非常に苦しい経験です。このような沈黙の中では、自分が神から切り離されてしまったように感じ、孤独感や無力感が増していきます。

この沈黙の中で、私たちはどのようにして神に向き直ることができるのでしょうか?祈りを諦めた沈黙に陥ると、自分が神の前で無力であることを感じますが、実はその瞬間こそ、神が最も深い形で働きかける時でもあります。私たちが言葉を失い、すべてを諦めるその瞬間に、神は静かに寄り添い、私たちの心の声を聞いておられるのです。沈黙が祈りの形になる瞬間もあります。私たちが自分の苦しみを神に言葉にできなくても、神はその沈黙の中で私たちの思いを受け止め、共に苦しんでくださいます。神に対してすべてを打ち明けられないほどの苦しみや絶望を抱えている時、沈黙の祈りが生まれることもあるのです。

待降節のこの時期に、私たちは望まぬ孤独や沈黙に対してどう向き合うべきでしょうか。それは、自分の力だけで解決することは難しいかもしれません。しかし、その中で自分を孤立させないことが大切です。神に対して怒りや疑いを抱いても、それを正直に祈りとして表すことができるかもしれません。また、他者とのつながりを求めることで、孤独の重荷を軽減することができる場合もあります。特に、私たちが待降節の間に行う行動や言葉が、周囲の人々に対する小さな愛のしるしとなり、見捨てられた孤独の中にいる人々にとっての光となるかもしれません。待降節は、自らの孤独と沈黙と向き合いながら、それを通じて他者とつながり、神の臨在を感じるための機会です。

最後に、他人に見捨てられた孤独や祈りを諦めた沈黙は、私たちの信仰に対する試練であり、同時に成長の場でもあります。この苦しい体験を通じて、私たちは新たな強さを見つけることができるかもしれません。神は遠く離れているように感じるかもしれませんが、その中で私たちは神の愛の深さを改めて知ることができるのです。孤独と沈黙を恐れず、むしろその中で神との新しいつながりを見つけることができるよう、私たちの心を開いていきましょう。それが待降節における私たちの挑戦であり、信仰の深化の道なのです。