11月28日

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今日の聖書箇所には、イエスが語る終末のしるしが記されています。エルサレムの滅亡、そして太陽、月、星が揺らぐといった描写は、単に未来の出来事を予言しているのではなく、私たちが日常の中で経験する「基準が崩れる瞬間」を象徴しています。当時、太陽や月、星は生活を支える指針でした。時間を測り、季節を知り、航海の道を定めるための「揺るがない基準」として信頼されていました。しかし、イエスはその基準さえも崩れ去る時が来ると語ります。それは、当時の人々にとって想像を絶する出来事だったに違いありません。


現代においても、私たちには自分を支えていると思い込んでいる基準があります。それは、仕事や健康、経済的な安定、科学技術、あるいは人間関係かもしれません。これらは一見揺るぎないもののように思えますが、実際には簡単に崩れ去ることを私たちは経験してきました。パンデミックや災害、経済危機などがそれを思い出させてくれます。そのような時、私たちは何を拠り所にすればよいのでしょうか。イエスはその答えを「天と地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」という言葉で明確に示しています。


イエスの言葉は、この世界のどんな基準よりも確かなものです。変わることのない愛、真理、救いの約束がそこにあります。この揺らがない基準に目を向けることで、私たちは混乱や恐れの中でも安定を見出すことができるのです。イエスはまた、終末のしるしが現れる時、「身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」と語ります。普通なら、恐怖や絶望に打ちひしがれ、身を縮めたくなるような状況です。しかし、イエスは逆に前を向き、希望を持つよう求めています。それは、恐ろしい出来事の中に隠された「新しい始まり」を見つけるためです。


解放の時とは、単に現実的な苦しみからの解放だけを指しているのではありません。それは、私たちが恐れや不安、またこの世の限られた基準に縛られることから自由になる瞬間でもあります。イエスの到来は破滅ではなく、救いと再生の兆しなのです。このメッセージは、現代を生きる私たちにとっても重要な示唆を与えてくれます。私たちは、日常の中で「揺らがない基準」として何を選び取るべきでしょうか。


イエスが語るこの言葉を現実の生活に適用するには、いくつかの行動が求められます。まず、自分が依存している基準を見直すことが大切です。私たちは何に安心を感じ、何を信頼して生きているでしょうか。それが揺らぐ時、恐れに屈せず、イエスの言葉に立ち返る姿勢を持つことが求められます。そして、恐れに支配されるのではなく、希望を選ぶことです。不安定な時代でも、「解放の時が近い」というイエスの約束を信じて前に進む。この信仰の実践が、私たちの生活に新しい力を与えてくれるでしょう。


イエスの言葉は変わらない基準です。太陽や月、星が揺らぐ時でさえ、彼の愛と真理は揺るがないのです。どんな嵐の中でも、イエスの言葉を羅針盤とし、希望を持って歩むならば、私たちは恐れに屈せずに生き抜くことができます。この世の基準が崩れる時こそ、イエスが示す揺らがない道を見つける時です。その道を信じ、日々の生活の中でその真理を生き抜くことが、私たちの使命なのです。揺らぐ世界の中で、揺らがない神の言葉を土台として歩み続けましょう。

 

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11月24日

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今日私たちは、「王」であるイエス・キリストを祝っています。しかし、皆さん、イエスが「王」であるとは、いったいどういう意味でしょうか?私たちがこの世で想像する王の姿、例えば豪華な王座に座り、軍隊を従える権力者とは大きく異なります。イエスの王国は愛、謙遜、そして奉仕によって成り立っています。彼の王位は、この世の権力構造を覆し、真の自由と平和をもたらすものです。


今日の福音書で、イエスはピラトの前で自らを「王である」と認めました。しかし彼は、「私の国はこの世のものではない」と明言しています。この言葉は私たちに、日常的に追い求めている力、成功、名声といったものを問い直すよう促しています。ピラトにとって王であることは政治的な権力の象徴でしたが、イエスはその概念を完全に覆しました。


イエスの王国の中心には「真理」があります。そしてその真理とは、神が私たち一人ひとりを無条件に愛しておられるという事実です。この真理は、時に私たちが忘れてしまう人間の本来の価値を思い出させるものです。


まず、イエスの謙遜について考えてみましょう。彼は弟子たちの足を洗い、僕(しもべ)として生きる姿を示されました。イエスの王国は支配ではなく、他者のために生きることによって広がります。これは、私たちの日常生活でも実践可能です。家族や友人、職場や地域社会で、「仕える者」としての生き方を考えること。それがイエスの示した道です。


次に、愛による支配です。イエスは、自分を憎む者のためにさえ十字架にかかられました。この愛は、私たちに敵を赦し、和解を求める勇気を与えてくれます。イエスが示した愛の支配は、恨みや対立を超えた生き方を私たちに教えています。


そして、イエスは自由を与える王でもあります。彼は私たちを恐れや罪の束縛から解放してくださいます。「真理を知る者は自由になる」という彼の言葉の通り、私たちは他人の評価や世間の期待に縛られることなく、本当の自由を得ることができます。


では、私たちはイエスの王国の市民として、どのように生きるべきでしょうか?イエスに従うことは、この世の価値観に逆らう選択をすることです。競争や自己中心的な成功を超え、共に生き、弱い者を支え合い、互いに赦し合う。これこそ、イエスの王国に生きる者が取るべき態度です。


イエスが王であることを信じるのは、単に理解するだけではなく、行動で示すことを意味します。家族との時間を大切にする、困難にある人に手を差し伸べる、自分の利益よりも他人の幸福を考える――これが、イエスの王国に生きる者の姿です。


最後に、イエス・キリストは真理と愛によって私たちを導く王であることをもう一度心に刻みましょう。この祝日を通して、イエスの王国の一員として、私たちは何を優先し、どのように生きるべきかを問い直してみましょう。今日、私たちもイエスの言葉に耳を傾け、「真理に属する者」として新たな一歩を踏み出していきましょう。


 

11月23日

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今日の福音(ルカ20:27–40)では、復活を否定するサドカイ派がイエスを試そうとします。彼らの質問は、人間の論理や社会規範の枠組みの中で復活の矛盾を指摘しようとするものです。しかし、イエスの答えは、単に復活の存在を肯定するだけではなく、私たちに「命」そのものの再定義を迫ります。
ここで注目したいのは、イエスが語る復活の命が、「ただ今の人生を延長するものではない」という点です。復活の命とは、現在の価値観、制度、物理的な制約の外にある、新たな存在形態を意味しています。この視点から、私たちの生き方をもう一度見つめ直してみましょう。

1. 結婚と家族の意味を超えて
サドカイ派は、結婚というこの世の制度を復活の世界にも当てはめようとしました。しかし、イエスは、「次の世」では結婚という制度が意味を持たなくなると語ります。これは、神の命において、私たちがもっと広い関係性の中に包まれることを示唆しています。
ここで立ち止まって考えたいのは、「私たちは自分の人生をどれだけ狭い枠組みで捉えているか」ということです。家族や友人、職場の関係、社会的な役割。これらはもちろん大切なものですが、それだけが私たちの存在の全てではありません。
復活の命は、「私」という存在を超えて、より大きな共同体、すなわち神の愛の中に生きる新たな形を示しています。この視点は、今の私たちの人間関係においても新しい意味を与えます。自分の枠組みを超えて他者に心を開くこと、それが神の命に近づく一歩です。

2. 死を越える「再創造」
イエスの答えの核心は、復活が「死の否定」ではなく「新たな創造」である点です。死を超える復活とは、ただの延命ではありません。それは、神によって「再創造」される命の始まりです。
ここで思い出したいのは、私たちの日々の中でもこの「再創造」のヒントを見出すことができるということです。例えば、大きな困難や失敗を経験したとき、それが私たちを完全に壊してしまうように思える瞬間があります。しかし、その中で私たちは、新しい価値観や優先順位を見つけ、再び立ち上がることができます。これが、復活の命が既に私たちの中で始まっている証拠です。

3. 命の根源への目覚め
最後に、イエスが語る「神は生きている者の神」という言葉に注目しましょう。これは単に「神が死んだ人を復活させる力を持つ」という意味ではありません。むしろ、神の命に触れる者は、死さえも命の一部として包み込む大きな現実に生きるという意味です。
私たちは時折、死や苦しみを「敵」として捉えます。しかし、神の視点では、それらもまた命の全体性の一部です。復活の命に生きるとは、苦しみや不安を恐れるのではなく、それらを通して神の大きな愛と命に触れることです。

結び
サドカイ派の問いは、論理的な矛盾を突こうとするものでしたが、イエスはその背後にある深い問題、すなわち「人間が命をどう捉えるか」を明らかにしました。復活の命とは、今の自分の延長線上ではなく、新しく「再定義」された存在です。
私たちも、この地上の価値観や制度に囚われず、神の視点で自分を見つめ直し、再創造される命の希望に生きることを選びましょう。それは、今ここからでも始められる新しい生き方です。


 

11月21日

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イエスがエルサレムのために涙を流された場面は、単なる感情の爆発ではなく、深い洞察と愛から発するものでした。彼が語った言葉には、歴史の中でのエルサレムの姿を映し出す一方で、今日を生きる私たちへの厳粛なメッセージが含まれています。


「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……」。イエスのこの言葉は、エルサレムが抱える人々の盲目さを指摘しています。平和を願い、平和を求めていたはずの彼らが、平和そのものであるイエス自身を拒んでいた事実が、彼の涙を誘いました。この姿勢は現代の私たちにも問いかけられています。私たちは何を平和の道と見なしているでしょうか。日常の中で本当の平和を見つけようとする努力が、表面的な解決や対立を増幅させるもので終わってはいないでしょうか。


また、イエスが語ったように、やがてエルサレムには破壊の運命が訪れました。彼の言葉は、象徴的な意味でも私たちに危機感を持たせるものです。物事を見過ごし、神の意図を無視することで、私たちは自らの生活や社会、関係性を脆くしてしまう危険性があります。現代社会でも、自己中心的な選択や短期的な利益のために、私たちの内なる平和を壊す行動が行われています。イエスが涙を流すように、私たち自身も心を揺さぶられるべきです。


私たちが注目すべきもう一つのポイントは、「神の訪れてくださる時をわきまえなかった」という言葉です。この表現には、神が人々に機会を与えていたにもかかわらず、それに気づかず過ごしてしまった姿が映し出されています。人生の中で神の訪れを見逃さないためには、感受性が必要です。私たちは日常の中で、自己の利己心や日々の喧騒に囚われることで、神からの語りかけを聞き逃してはいないでしょうか。人間関係や困難な状況、そして静寂の中での内なる声が、神の招きであることに気づくためには心の目を開く努力が求められます。


この物語を通して、私たちはエルサレムの姿を他人事として見てはならないのです。それは私たち自身の姿、つまり平和のための道を見つけられず、神の招きを感じられないままでいる危険性を指し示しています。自分がどこに向かい、何を目指して生きるのか、そして本当に大切なものに目を向けられているのかを再確認することが大切です。


エルサレムが涙の対象となったのは、神が無関心ではなく、むしろ私たちに対して深い愛を注いでいるからこそです。イエスが涙を流す姿は、無視された愛の痛みを表しています。愛される側がそれに気づかない、応えられないことは痛ましいものです。だからこそ、私たちはその愛に応えて生きる責任があります。それは単なる感情的な反応に留まらず、平和を具体的な行動として示すものです。例えば、人間関係の修復や共感をもって他者と向き合うこと、一つ一つの行動の背後にある動機を見つめ直すことが求められます。
イエスの涙を通じて、私たちはどのような時代や状況でも、平和と神の訪れをわきまえることができる存在でありたいと願います。その涙は無駄ではなく、私たちの心を変え、希望を持って未来へ向かうための力となるものです。この機会を見逃さず、自らの生活に平和と和解をもたらす者として歩む決意を新たにしましょう。


 

11月19日

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今日のザアカイの物語を通して、イエスが社会から疎外された人々にどのように接し、また私たちがそのような人々をどのように受け入れるべきかを考えてみたいと思います。この物語は、単に罪深い徴税人がイエスとの出会いを通じて変えられたという話ではなく、現代に生きる私たちにも重要なメッセージを投げかけています。


ザアカイは「徴税人の頭」として、当時の社会から「罪人」と見なされ、周囲から孤立していました。彼は自らの身長の低さのために群衆に遮られ、イエスを見ることができませんでしたが、木に登ってまでイエスを見ようとした彼の行動は、社会的な疎外や心の中の孤独感、変わりたいという強い渇望を表していました。彼がイエスを見ようとするその瞬間、イエスもまた彼を見上げて「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と声をかけました。これにより、ザアカイは驚きと喜びをもってイエスを迎え入れましたが、周囲の人々からは「罪人の家に行くとは」との非難の声が上がりました。イエスは、外見や社会的評価にとらわれず、心の奥底にある変革の可能性を見抜き、人を愛と受容のまなざしで包む方でした。


ザアカイの応答は具体的な行動を伴いました。彼は、自らの財産の半分を貧しい人々に施し、不正を行った者には四倍返すと宣言しました。このように、真の悔い改めは単なる言葉だけではなく、行動を通じて示されるものであることを、ザアカイは私たちに示してくれます。私たちもまた、自分自身の行動や心の在り方を見つめ直し、具体的な行動で悔い改めを示すことが求められています。
物語の中で、ザアカイが「短い背丈」で群衆に遮られたことも象徴的です。彼が物理的に遮られたように、現代でも多くの人々が社会的な壁によって神やイエスとのつながりを阻まれています。私たちは時に、自分たちがその「群衆」として、背丈の低い人々、すなわち疎外された人々を妨げていることに気づかされなければなりません。私たちが意識的に、また無意識的に、他者を妨げていないかを見つめ直し、愛をもって接する姿勢が求められています。


イエスがザアカイを「アブラハムの子」と呼び、彼をコミュニティの一員として受け入れたことは、非常に重要です。これは、イエスがザアカイを個人的に受け入れただけでなく、周囲の人々にも彼が「私たちの仲間」であると示すものです。私たちもまた、疎外されている人々を「仲間」として受け入れ、共に歩むことが大切です。


この物語は、私たちがどのような立場を取るべきかを問いかけています。疎外された人々に対して「つぶやく」群衆の一部となるのか、それともイエスと共に立ち、すべての人を受け入れる者としての姿勢を持つのか。私たちが選ぶべき道は明らかです。今日、ザアカイのように心を開き、愛と赦しを受け入れ、他者をも受け入れることを誓いましょう。それこそが、私たちがイエスの愛を体現し、この世に光をもたらす方法です。心を開き、行動し、すべての人々を愛と受容の中で迎え入れる存在となりましょう。
 

11月17日

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マルコ13章24-32節は、終末に訪れる劇的な出来事と「人の子」の来臨について語られています。一見すると恐怖を感じさせるような表現ですが、この箇所には深い希望と、日常の中で私たちがどのように生きるべきかを示す洞察が隠されています。


まず、「太陽が暗くなり、月が光を放たず、星が空から落ちる」という描写に注目してみましょう。これは一見、自然界の崩壊を描くように見えますが、象徴的に捉えるならば、私たちが日常的に頼りにしているものや、安定していると思い込んでいるものが揺らぐことを示しているとも言えます。日常生活の中で、私たちは安定した環境や社会的な枠組みに依存しがちですが、イエスの言葉は、それらがすべて揺らぐ可能性があることを示しています。そして、その揺らぎの中にこそ、私たちの信仰の基盤が試されるのです。


このような状況で私たちに必要なのは、目に見えるものに囚われるのではなく、目に見えないけれども決して揺るがないものに目を向けることです。イエスが「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と言われるのは、何が変わっても変わらない神の約束があることを示しているのです。この確信が、私たちが困難な時代を生き抜く力となります。


次に、「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来る」という言葉に目を向けてみましょう。ここで描かれるのは、ただの恐怖の象徴ではなく、全ての苦しみや混乱が終わり、神の正義が勝利する瞬間です。私たちが経験する苦難や困難は一時的なものであり、最終的には神の光が勝利することが約束されています。この希望は、今を生きる私たちにとっての大きな力となり、未来への恐れを乗り越える勇気を与えます。


さらに、いちじくの木のたとえに注目しましょう。「枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる」とあります。これは、一見小さな変化に見えるものが、大きな出来事を予告するサインであることを示しています。このたとえを通して、イエスは私たちに、日常の中で神の働きや、変化の兆しに敏感になることを教えています。終末の出来事を恐れるのではなく、日常の中で神がどのように働いているのかを見極める感性を磨くことが求められているのです。例えば、私たちが日々出会う人々との関わりや、些細な出来事の中にこそ、神の愛や慈しみの手が見えるかもしれません。いちじくの枝の成長を見るように、日々の中で何が起こっているのかに目を向けることが、私たちの信仰を強める助けとなります。


そして、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」という言葉の中には、未来への謙虚さが求められています。私たちは、すべてを知ろうとする傾向がありますが、神はその「知ることができない」未来を受け入れることこそが、信仰の中での大切な要素であることを教えています。なぜなら、それこそが私たちの現在をどう生きるかという問いに向き合わせるからです。未来の不確実性に囚われるのではなく、今この瞬間をどう誠実に生きるか。これこそが、神が私たちに望む姿勢なのです。


この視点から見ると、マルコ13章の言葉は単なる終末の予言ではなく、日常の中で信仰をどのように生き抜くかを示す道しるべであることが分かります。揺らぐものに頼るのではなく、神の揺るがない言葉に信頼を置き、日々の小さな出来事の中に神の愛と導きを見出しつつ、未来を恐れずに歩んでいく――これこそが、この箇所の中に込められたイエスのメッセージの核心ではないでしょうか。

 

11月14日

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今日のテーマは、「神の国と地獄は私たちの間にある」という考えです。ルカの福音書17章で、イエスは「神の国はあなたがたの間にある」と語られました。私たちはこれを「神の国が目に見えるものではなく、心と行動に表れるものだ」と解釈できます。私たちが愛をもって行動し、平和を広げ、互いに支え合うとき、そこに神の国が現れるのです。



しかし、この視点からもう一歩進めて考えると、地獄もまた、私たちの間に存在する可能性があることに気づきます。地獄は死後の世界の恐ろしい罰として想像されがちですが、私たちの心や行動によって、現実の中に現れることもあるのです。自分自身や他者に対して憎しみや怒り、無関心を抱き、自己中心的な行動を取るとき、私たちは周囲に苦しみや痛みをもたらし、まるで地獄のような状態を作り出してしまうことがあります。家族の中で、職場や地域で、私たちが他者を傷つける行為や無関心によって、地獄のような状況が現実に起こるのです。


この現実を見つめることは決して気持ちの良いことではありませんが、それと同時に大きな希望も含まれています。なぜなら、私たち一人ひとりには、地獄のような状況を変える力が備わっているからです。どんなに暗い状況であっても、愛と赦し、思いやりの行動がそこに光をもたらすことができます。神の国は、特別な出来事や特別な場所に現れるのではなく、私たちの日常の中にこそ存在します。それと同様に、地獄も私たちの心の在り方や行動によって現れることを忘れてはなりません。


私たちの選択と行いが、どちらの世界を広げていくかを左右します。小さな親切な行動や、赦す心、互いに手を差し伸べる行いが、神の国をここに現すのです。反対に、無関心や憎しみを放置すれば、そこに地獄のような現実が生まれてしまうでしょう。


私たちは今、何を選び、どのように生きるのか問われています。地獄を遠ざけ、神の国を築くために、一人ひとりが小さな愛の行動を積み重ねていくことが大切です。日々の生活の中で、他者と関わりながら愛を示し、思いやりを持って生きることで、神の国が現実のものとなるのです。神の国も地獄も、私たちの間に現れる。それを決めるのは、私たちの心と行動です。今、神の愛をもって生きることを選び、私たちの間に神の国を広げていきましょう

11月16日

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ルカの福音書は、特に社会的な力や地位を持つ者に向けられた厳しいメッセージを含んでいます。今日の譬え「やもめと不正な裁判官」もその一つです。この物語を通じて、ルカはキリスト者の道を歩もうとするテオフィロに、そして私たちすべてに問いかけています。「あなたが信じている神は、あなたの思い通りになる存在ではない。この神を本当に信じることができるのか?」と。

1. 人間の常識を超える神

譬えに登場する不正な裁判官は、神を畏れず、人を顧みない存在です。彼がやもめの訴えを聞き入れたのは、正義感や思いやりからではなく、自分が煩わされるのを避けるためでした。ルカはこの裁判官を通じて、「この世の権力者がどれだけ自己中心的で不正であるか」を描きつつ、それに対比して神の姿を浮かび上がらせます。神は人間の期待通りには動かない存在であり、私たちの常識や思惑を超える方です。祈りがすぐに応えられない時でも、私たちの思い通りに事が運ばない時でも、それでもなお神を信じることができるか——これが問われています。

2. 信仰とは「取引」ではなく「委ねる」こと

多くの人は、神を「善行をすれば報酬を、悪行をすれば罰を与える存在」として捉えがちです。しかし、ルカが示すイエスの神は、人間の計算を超えた存在です。私たちの行いに基づいた取引ではなく、神との深い信頼関係が求められています。神がどのように働かれるかを完全に理解することはできませんが、それでも「神が最善をなされる方」であると信じることが求められています。信仰とは、自分の期待を超えて神に委ねることです。

3. 発想を変えるためのメタノイア

イエスはこの譬えを通して、テオフィロや私たちに「発想を変えよ」と語りかけています。自分の期待や思惑を超えた神の働きを信じるために、心を改めること、すなわちメタノイアが必要です。信仰は、単に善行を積み重ねることで得られるものではなく、神を全面的に信じ、すべてを委ねることから始まります。このメタノイアは、私たちが自らの価値観や常識を超えて、神の意志に従う覚悟を求めています。

4. 「この神を信じることができるか?」という問い

イエスが最後に問いかけた「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見出すだろうか」という言葉は、私たちに深い問いを突きつけています。この神を、本当に信じることができるのか?この神は、時に私たちの常識を覆し、思いがけない形で働かれる方です。しかし、それでもなお、この神を信じ、すべてを委ねる信仰を持つことができるかが問われています。私たちの信仰は、簡単なものではなく、時に困難を伴うものです。それでも、神が私たちと共におられ、最善を導いてくださることを信じ続けることが求められています。

5. 信仰によって生きる

この神を信じるとは、単に自分の願望をかなえる存在として期待することではありません。神の正義と愛に生き、すべてを委ねて歩むことです。やもめのように、祈り続け、希望を捨てず、神の意志に信頼する信仰を持つことです。それは、私たちの思い通りにいかない時にも、神を信じる姿勢を貫くことを意味します。

11月13日

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ルカ17章に記される十人の重い皮膚病を患う人々の癒しの物語は、単なる奇跡の出来事ではなく、神の救いと新しい共同体への招きを示す「しるし」として私たちに語りかけています。癒しそのものが目的ではなく、そこから始まる神との新しい関係、共同体の再生、そして新しい神の民としての歩みが強調されているのです。

 

重い皮膚病を患っていた者たちは、律法の規定により「汚れた者」とされ、共同体から隔離されていました。癒されることで彼らは再び社会的・宗教的な共同体へ戻ることができました。つまり、癒しは単なる肉体的な回復にとどまらず、共同体とのつながりを回復し、社会の中での居場所を取り戻すためのものだったのです。イエスが十人を癒したのは、神の愛と憐れみが彼らを孤立から解放し、新たなつながりを築くためでした。しかし、この癒しが指し示すものは、単なる社会的な復帰にとどまらない、さらに深い意味を持っていました。

 

癒しを受けた十人のうち、九人のユダヤ人は癒された後、そのまま自分たちの共同体へと戻っていきました。彼らにとって、癒しは神から与えられた恩恵であり、それによって自分たちの社会的な立場や関係が回復されるものでした。しかし、その先の神との新しい関係を求めて行動したのは、ただ一人、サマリア人だけでした。彼は他の九人とは異なり、イエスのもとに戻り、神を賛美し、感謝を示しました。この行動によって、彼は単なる社会的な復帰にとどまらず、神との新しい関係を築き始めたのです。イエスは彼に「あなたの信仰があなたを救った」と語りかけられました。この言葉は、彼が肉体の癒し以上の救いを受けたこと、つまり神との深い絆と新しい命を得たことを示しています。

 

サマリア人が新しい神の民として迎え入れられるということは、非常に重要な意味を持ちます。当時、ユダヤ人とサマリア人の間には深い対立と分断があり、ユダヤ人の共同体が彼を受け入れることは通常あり得ませんでした。しかし、イエスはこのサマリア人を特別に認め、彼を新しい共同体、すなわち神の愛によって築かれる新しい神の民として迎え入れました。彼は単にサマリア人の共同体へ戻るのではなく、すべての民族や背景を超えた新しい神の家族の一員として受け入れられたのです。このことは、イエスがもたらす救いがすべての人々に開かれていることを強調し、人種や宗教の垣根を超えた普遍的な神の愛を示しています。

 

私たちもまた、このサマリア人の姿勢に学ぶべきです。私たちが癒しや恵みを受けた時、それをただ自分自身の利益や回復のためだけに終わらせるのではなく、神との新しい関係を築き、感謝と信仰をもって新しい神の民として歩み始めることが求められています。神は、私たちがどのような背景や境遇を持っていようと、すべての人をその愛の中で迎え入れ、新しい共同体の一員として招いてくださるのです。

 

この物語を通して、癒しが示す「しるし」としての意義を深く見つめ、私たちもまた新しい神の民として生きるように導かれていることを覚えましょう。私たちが神に応える信仰と感謝をもって、神の愛と救いを日々の生活の中で証しし、共に歩んでいくことが求められています。

11月12日

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今日の福音では、僕(しもべ)と主人の関係が描かれています。イエスはこの例えを用い、人々に自らを主人ではなく僕として認識するよう促しました。主人はただ一人、神だけです。しかし、この教えをどのように私たちが受け取るべきか、特に社会的な立場や状況に応じて考える必要があります。

 

ルカ福音書は、テオフィロという有力者に宛てて書かれたとされています。彼は字を読み、お金もあり、社会的な影響力を持つ人でした。ルカがこのような人々に向けて「しもべとしての志を持つ」ことを求めた背景には、特権や地位に固執せず、他者のために自己を捧げるという教えが含まれています。これは、力や影響力を持つ人にとって非常に意義深いメッセージです。イエスは、富や権力を持つ者が謙虚に奉仕することで、神の国を実現する道を示しています。

 

一方で、このメッセージを社会的に弱い立場の人々に同じように適用することは、非常に慎重であるべきです。すでに抑圧され、苦しい生活を強いられている人々に「僕として生きなさい」と求めることは、重荷を増すことにしかならないかもしれません。福音のメッセージは、単に誰にでも同じように適用すべきものではなく、それぞれの立場や状況に合わせて解釈されるべきです。イエスの教えには常に、弱者に寄り添い、彼らを解放し、尊厳を与える視点が貫かれています。ルカ福音書においても、貧しい人々や抑圧された人々を優先するメッセージが何度も語られています。

 

このことから、私たちは「しもべとしての志」を持つことが何を意味するのかを考える際に、自分自身の立場や役割を見つめ直す必要があります。有力者や影響力を持つ者にとって、それは謙虚に他者に仕え、自らの特権を手放し、他者のために尽くすことです。これこそが、イエスが求めた「僕としての姿勢」です。しかし、弱者に対しては、まず彼らの苦しみを取り除き、支えとなり、自由と尊厳を与えることが重要です。神の愛は、全ての人に対して適切な形で表現されるべきだからです。

 

聖母マリアのように「見なさい、私は主のはしためです」と応えることができる私たちは、神に従う僕であると同時に、他者を愛し、仕える使命を負っています。しかし、それは単なる自己犠牲や従順ではなく、神の愛に基づいた自由であり、他者への真の奉仕です。神が私たちに求めているのは、与えられた役割を無理なく全うしつつも、互いに愛を持って支え合う生き方です。

 

今日の一日、私たちが自分の立場を見つめ直し、神の僕としての使命を果たすために、謙虚な心と愛を持って進むことができますように。神の愛が私たちを導き、すべての人を照らす光となるように祈りましょう。