恩師がまた一人亡くなった。コンラート・リヒター、享年八十八、長年シュトゥットガルト芸術大学のマスターコースで歌曲を教授として担当していた。もちろんとっくに引退し、一時東京芸術大学の客員教授として招かれていたが、その後お会いすることもなく、最近日本人歌手と結婚されたという噂を聞いたばかりだった。いつのまに八十八歳になられたのかと驚きもしたが、老人という言葉は全く似合わない格好いい先生だった。最も若くしてドイツの教授試験に受かったくらい才能のあるピアニストだった。印象としては若いころから金髪碧眼の美男子でヘルマン・プライ(国民的バリトン歌手)やユリア・ハマリ(ハンガリー出身の名メゾソプラノ)の伴奏者として活躍し、多くのレコードも残している。とはいえその中でCDになっているものは限られているのが残念だ。

初めてお会いしたのは銀座のヤマハホールで、講習会受講生の発表会を聴きに行った時だ。ご挨拶しようとしたら、もう一人の講習会の女性教授(ドイツ語発音)ウタ・クッター先生の足元にうずくまっていた。この先生はスラッとした美人で、片方の足をリヒター先生に差し出していた。どうもハイヒールのベルトが外れて上手く嵌らなかったらしい。リヒター先生は足元で苦戦していたが、その間彼女はお客と普通に会話していた。同僚女性に優しい紳士と堂々とそれを受け入れる女性。どちらも格好いいなと思った。

この二人は多くの日本人留学生にとってドイツ歌曲を学ぶ道標のような存在であった。有名な白井光子さんとハルトムート・ヘルというリートデュオもその薫陶を受けている。リヒター先生とクッター先生は音大でいいコンビだと思っていたのだが、のちに学長選で争い、犬猿の仲になったと聞く。あんなに素晴らしい人たちなのに、世の中わからないものである。

さて少しレッスンについて述べよう。常に多くの歌手とピアニストが広めのレッスン室に詰めている。準備してきた歌手とピアニストが演奏し、みんながそれを聴いている。1曲通して演奏させると、しばらくその曲についての解説が始まる。先生は何が演奏されるか前もってわからないので、ほとんどの曲が頭に入っているのだろう。その知識は膨大でこちらにとっては理解するのも大変だった。ときに「僕のやり方、いい?」とピアニストをどかせ、自分で生徒を伴奏するのだが、決して歌いやすいようには弾かない。ただあるべきテンポとフレージングが明確なので歌手はそれに従うしかない。そして見事に曲そのものの魅力が再現されるのだ。しかし先生にアイデアが浮かぶと次回は違うアプローチを見せたりもするので、必ずしも1回や2回のレッスンで曲の解釈が身につくことはない。歌い手を指揮するように全身の身振りでリードすると歌手は歌えた気になり、恍惚となる。練習してきた以上の世界に引き上げられるからだ。その感覚を一人になっても持ち続けられるよう歌手は願っていたことだろう。

ピアニストにとっても先生が作るサウンドをいかに再現できるかが課題だった。当時伴奏ではピアノの蓋を閉めるか半開以下に留めるのが常識だったが、リヒター先生は蓋を全開にし、多めのペダルで指先をかなりコントロールして歌とのバランスを計っていた。これは普通のピアノソロの練習からは生まれないものだ。なぜならほとんどのピアニストはすべての音をきちんと鳴らすメカニックを習得することが前提だからだ。ある程度の期間を経て分かったのは、結局自分でいろいろ試し、それを共演者と作り上げていく作業をしなければ本番は迎えられないということ。上手く歌う、上手く弾くという表面上の職人芸は卒業後どうせ現場で鍛えられるのだから。

さてここまで書くといかにピアノの名手かと思われるが、本人はソロや器楽のアンサンブルも手掛けていて、そちらは決して一流とは言えなかった。歌の伴奏における多彩な音色のイメージを器楽曲に持ち込もうとしたのか、それが悪いのではなく、そうするには技術が足りてなかったのだと今は分かる。レッスンで短いフレーズを弾いて見せる時は、はっとするほど美しく、説得力を持つ。しかし歌と違い1曲の演奏時間も長いピアノソロをこなすには、あがり症と基礎訓練の欠如は彼の音楽性を凌駕できなかった。

曲のイメージを哲学的に解析し、ピアノで表現できた巨匠にロシアのリヒテルがいる。彼はシュライアーやフィッシャー=ディスカウという20世紀で1、2位を争うリート歌手の伴奏をしているが、いずれも名盤である。くしくもリヒターと同じ綴りのリヒテルがリヒター先生伴奏するバス歌手ロベルト・ホルのコンサートを聴き、感想を日記に書いている。偶然本屋で立ち読みしたのだが、それはピアニストへの酷評だった。私の2番目の先生アーウィン・ゲイジも決してリヒター先生の腕前を良くは言ってなかったので複雑な気分だが、事実は事実として受けとめよう。ただ初見と移調の能力はずば抜けていた。これだけはアーウィン・ゲイジも敵わなかっただろう。現代曲であっても初見ですぐ曲の意図と個性を見抜き、練習の方向性を示すことができた。

ある日バルトークの歌曲を持っていったら、複雑な前奏を暗譜で弾いてのけた。レパートリーにあったのだろうが、あまりの頭の良さと器用さに度肝を抜かれた。しかも歌手により合った違う調性でも披露した。伴奏者にとってこういう臨機応変さは強力な武器といえる。

帰国してしばらく経ったころ、NHKFM放送でオーストリア・ホーエネムスの音楽祭シューベルティアーデが放送された。解説は佐藤征一郎氏で現在もレーヴェ協会のコンサートでご一緒する機会があるリヒター先生はよくロベルト・ホルとシューベルティアーデ音楽祭に出演されていたのだが、この放送ではなんと七十歳のハンス・ホッターが歌う「冬の旅」の伴奏だった。(佐藤征一郎氏はウィーンで教え子だった)リヒター先生の演奏にミスはなく、偉大なホッターに寄り添った見事なものであった。やはりやるときゃやる人なのだ。結婚も3回はしてるし。

リヒター先生の功績の一つにナチス政権下で命を落としたユダヤ人作曲家ウルマンを世に広めたことがある。彼のピアノコンチェルトやピアノソナタも録音しているし、多くの歌曲を出版、紹介している。東京芸大時代には声楽の先生と学生有志を集めウルマンだけのコンサートを開いた。

一度リヒター先生の引率でニュルンベルクに演奏旅行したことがある。クラスの選抜歌手数名とピアノは私とドイツ人のウリッヒ・アイゼンローア(彼はのちにマンハイムのリート科教授となりAXOSレーベルでドイツ人歌手によるシューベルト歌曲全集を録音している)

プログラムはブラームスの「愛のワルツ」を中心としたもので、歌のカルテットをピアノ連弾で伴奏するという素敵な曲集だ。他に現代ドイツ作曲家の新作もあり地方だからといってポピュラーな曲でプログラムを組むことはなかった。

打ち上げはリヒター先生の奢りでドイツ料理をいただいた。マスターコースの終了が近かったので、食事の席でもう少し勉強させてもらえないかと相談したら「うちのクラスは期限が決まってるので、終わったらきっちり追い出すよ。」と言われた。

「そもそも君は入ったときに比べるとこんなに成長した」と右手を大きく上げて言ってくれたのを思い出す。

思えば最初に先生の前でベーゼンドルファーのインペリアル(高価なピアノで通常の88鍵以上あり低音にさらに鍵盤が付いている)を弾いたのだが、楽器の扱い方に戸惑い酷い演奏をしたものだ。この楽器は少しでも力が入ると汚い強い音で応えるが、この時がそうだった。

レッスンを重ねベーゼンドルファーの響かせ方に慣れたある日、リヒャルト・シュトラウスの「明日の朝!」のある和音を弾いた瞬間、先生が言った。

シェーン!(美しい!)・・・なんか分かった気がした(たぶん気のせい)。出したい音はどういう身体の使い方でこの楽器に接したら可能になるのかが。

ともあれシュトゥットガルトには長く居られないのでスイスに移ることとなるのだが、時系列でいうと、この後の話は「アーウィン・ゲイジの思い出」(2021年秋号)に繋がる。

 

行く春や師のレコードのを撫で