話題の映画「碁盤切り」を観た。落語「柳田格之進」がベースにあるが、ストーリーを膨らませることで傑作時代劇が誕生したと思う。刑事とヤクザの抗争をえげつなく描いた「狐狼の血」に夢中になった者として白石和彌監督が時代劇をどう撮るのか楽しみでしかなかった。しかも柳田格之進である。ネタバレでしかないタイトルには疑問符がずっとついていたが、今でも違うタイトルがよかったと思っている。「碁盤切り」って。

さて落語の柳田格之進であるが、昔志ん朝の市販のカセットテープで初めて聴いた。志ん朝の録音をせっせと集めていたころで、それくらい好きだった噺家だが、この落語は何がいいのかわからなかった。いくら江戸時代の武士の物語としても全く共感できない。そこそこ時代劇のお約束は理解していたはずなのに、格之進の人物像が腑に落ちないのである。「水清ければ魚棲まず」という極端な正義感は周りを困らせるというテーマはもともとこの落語にあるのだとは思うが、娘を吉原に売ってまでも汚名を着たくないという武士のありようは我儘を超えている。帰参かなっても娘は助けられず(さすがに演者によっていろいろなのだが)汚名を着せた相手に復讐もはたせない。主従の情にほだされて代わりに碁盤を切る。なんじゃそりゃ。というわけで、さん喬、小柳枝、花緑、一之輔などいろいろ聴いたが、皆納得して演じてるとは思えない。枕で大抵エクスキューズが入るくらいだ。娘が女郎になる前に帰参かなって助ける演出もあるし、格之進に五十両窃盗の疑いをかけた番頭と結婚するというとんでもない結末もある。リアルでいえば、女郎になって身体を壊し、見受けされても決して救いにはなってない方がより格之進の怒りのモチベーションを理解できるし、もしかしたら本当に源兵衛と番頭の首を刎ねるかも、とドキドキする。一之輔はご都合主義を笑いで誤魔化そうとせず、自然なストーリーにすべく工夫があった。

さて映画の何が優れていたかというと、草彅剛の素晴らしい演技に、もしかしたらこういう人いたかもと思わされたのが大きい。捉えどころのない秘めた狂気が共通してるからかもしれない。落語ではただ藩で煙たがられて役目を解かれたような説明だがさすがに曖昧すぎるので、斎藤工演じる敵役を作り上げた。腹黒く、格之進の妻をも汚し、碁まで強いという人物だ。後に悪事がばれ出奔して賭け碁をしているという情報を得た後はまるで西部劇のようなアクション映画となる。

仇討ちの前に碁で勝負し首を賭けるという展開は想像外だったが、かなりの緊迫感があり碁のルールに詳しければもっと入り込めただろう。監督のインタビューによると盤面についてはかなりいろんなプロの意見が反映されているらしい。映画で優れているのは小泉今日子を吉原の凄腕女将に据えたこと。格之進の娘には優しいが店の女郎には鬼のように厳しい。この顔の使い分けにはぞっとしたし落語では限界がある。吉原大門を映像で見れるのも落語ファンとして嬉しい。格之進の娘と結婚する源兵衛の親戚の若者を中川大志が演じたのはよかった。落語で番頭の役割の半分を彼が担うことでストーリーに自然な成り行きと純愛さえも盛り込めた。本来番頭は主人を思うばかりに格之進に窃盗の疑いをかけ、番屋に届けるとまで脅すキャラクターである。だから疑いが晴れた後で立派になった格之進と遭遇するあたりが面白いのだが、落語と違ってそこに笑いを持ち込めないのは残念でもある。映画では音尾琢真に悪役の部分を担わせ、中川大志に主人を守る善良な奉公人を演じさせている。脚本の妙である。落語の格之進は単純すぎて共感できないが、草彅の格之進は人格の成長が伺えるのだ。疑いが晴れ、仇討ちを果たしても帰参することはなく、娘の婚儀を見届けた後は黙って旅に出る。おそらく自分の正義感ゆえに一緒に藩を追われた仲間や部下への贖罪の旅だろう。