2021年1月岡村喬生氏が亡くなった。享年89歳。おそらく日本で最も知られたオペラ歌手の一人であり、その活躍はクラシック界のみならず、バラエティ、テレビドラマ、映画、エッセイ、教育と多岐に渡っていた。サインを求められると「芸術は娯楽なり」と書き、そのままを実践した人と言っていいだろう。
 私との関わり合いは、大学時代に遡る。音大のオペラ公演でモーツァルトの「コシ・ファン・トゥッテ」を上演した時に、レチタティーヴォ(チェンバロに乗せた朗唱でストーリーを進める歌手のパート)の指導に岡村氏が来られたのである。三年生の私は音楽スタッフとして入っていたので、連日彼と一緒に稽古に臨んだ。当時岡村氏はまだケルン歌劇場の専属歌手で住居もケルンだったが、都内にマンションを買ってまもなくの頃だったと思う。おそらく帰国後を見据えて音大との仕事も引き受けたのではないだろうか。学生と接するのは楽しそうで、みんなで家に招かれ自作のパスタをごちそうになったこともある。しかしその後、彼がいわゆる音大で声楽を教える事はなかった。いささか唯我独尊的な個性が受け入れられなかったのだと思う。海外で活躍しようが、同僚と上手くやれそうもないキャラクターは弾かれるのが日本の実情だ。
 卒業後私はドイツに留学し、しばらく彼と接することはなかったが、ケルン歌劇場を離れて帰国した岡村氏は、自伝的エッセイ「ヒゲのオタマジャクシ世界を泳ぐ」でマスコミの寵児となり、オペラ歌手の代表のような扱いを受けていた。新聞記者を目指し、早稲田大学の政経学部出身の岡村氏は人脈が広く、テレビの司会や東京新聞のコラムなどでも自分の意見を言える立場だった。音楽家、とくに歌い手には珍しいタイプである。
 私が帰国すると彼から声がかかった。ソロコンサートの伴奏である。前任者は霧生トシ子さんで、ジャズも弾ける名ピアニストだった。岡村氏がピアニストに望む要求は高く、技術があってソロも弾けること、独自の音楽性があること、しかし彼のテンポを100パーセント受け入れることだった。そうやって生まれる音楽の独自性は、現代作曲家で天才的ピアニスト高橋悠治氏とのシューベルト「冬の旅」の録音にもうかがえる。私に声がかかったのは無名でギャラが安くて済むだろうと思ったに違いないのだが、コンサートを一緒にやれそうと思ってくれたのには感謝している。普通のクラシック歌手ではあり得ないほど、コンサート依頼が全国からあったのだから。プログラムは「歌の旅」とタイトルのついたものが多かった。日本の歌はもちろん、世界の名歌を歌いつつ、合間に練り上げられたトークが挟まる。ヨーロッパでの思い出が主で、外国をあまり知らない層の聴衆には、ためにもなる面白い話だったと思う。即興で話の内容が変わることはほぼなかった。いわゆる営業ネタである。いつまでもこういうスタイルでクラシックの啓蒙もないだろう、と当時私は思っていたのだが、案外こういうのが今も喜ばれるのかもしれない。本当のクラシックファンは海外の演奏家や、アカデミックなプログラムのコンサートに足を運ぶだろうが、その数は知れているからだ。その都市の人口の一パーセントとも言われている。かといって岡村氏が分かりやすいコンサートだけをやっていたわけではない。毎年暮れに「冬の旅」を異なる名ピアニストと演奏していた。(決してアンサンブルとして心地よいものではなかったが)
 私とも芸術祭参加の「シューベルト物語」を公演したことがある。シューベルトの「魔王」は何度も共演し、これが後に袂を分かつ原因となるのだが、改めて触れることにする。
 アンチ日本の音大みたいなところもあって、ある時期小規模でプロの演奏家を育てる専門学校を作ろうとしたことがある。桐朋学園の立ち上げのような理想に基づいていたが、名演奏家たちを教師に招いたにもかかわらず数年で頓挫した。生徒が集まらなかったことと経営陣がいいかげんだったせいである。その学校の宣伝もかねて一度オペラを上演したのだが、今思えば酷いものだった。主役の岡村氏らの他にコント55号の坂上二郎氏を狂言回しに迎え、演出は多数の映画やドラマの脚本を書いた著名な劇作家、福田善之、振り付けはピンクレディで有名な土居甫、当時のホリプロ社長、堀威雄氏もマネージメントで協力した。演目はモーツァルトの「劇場支配人」だったのだが、セリフは日本語である。一般客が観て楽しかったとは思うのだが、音楽界では無視されたといっていいだろう。「芸術は娯楽なり」を履き違えていて、オペラファンの入り口にはなってほしくないような出来だった。
 お笑い好きの私にとってよかったのは、稽古の後、方向が同じなので坂上二郎さんの運転で家まで送ってもらえたことだ。彼は役者として地位を築きつつあったが、たけし・さんまのような人気者の台頭もあり、欽ちゃんの笑いの行く末を案じていたのを覚えている。二人きりの空間で貴重な体験だった。
 岡村氏のおかげでいろんな著名人と食事を共にできたことは間違いない。例えば野党時代の自民党の河野洋平氏。彼に対し岡村氏は、いつかあなたの時代が来ると励ましていた。見かけによらずハト派なのだ。結局河野洋平氏の思うような時代は来なかった。
 森繁久彌さん、作家の澤地久枝さんともご一緒したことがある。早稲田関係のコンサートの打ち上げだった。その席で岡村氏が私を指差し、「彼は落語が詳しいんだよ。おい、何か小噺やれよ」無茶ぶりもいいところだ。それで思い出したのが、五代目円楽のレコードで聴いていた二・二六事件の小噺。澤地久枝さんが「妻たちの二・二六事件」を書いていたのも頭をよぎった。その小噺とはこうである。クーデター未遂を起こした青年将校が、時の大蔵大臣、高橋是清を殺害すべく自宅に乱入した。その時大臣は真っ裸で就寝中だったという。そんな格好で死なせるのは心苦しい、武士の情けとばかり、近くにあった着物を投げた。そして言ったのだ。「高橋!これ着よ」偉大な俳優と大作家はさぞ呆れて聴いていたことだろう。今思っても悔やまれる。大して受けなかったからだ。円楽、やはり本職は凄い。
「笑っていいとも」にテレフォンショッキングで岡村氏が出演したことがある。つまらない回だった。自分からオペラの話題を振り、会話の主導権を握ろうとしていた。タモリが早稲田の後輩だったから先輩風を吹かしたかったのだろうか。結果テレビ的には可愛げもなく映り、タモリも呆れて話題に乗る様子もなかった。
 さて、「魔王」の件である。このシューベルトの傑作はピアノが難しい。ご承知の方も多いだろう。右手のオクターブが高速で五分あまり連打されるのだ。ある箇所で岡村氏が一拍早く出た。右手がどんなに忙しくても、歌手が予定より早いタイミングで息を吸いそうな気配はわかるのだ。そこで私はより高速で連打し彼に追いつく方法をとった。そして何食わぬ顔でテンポを戻し無事演奏を終えた。我ながら神業、と心の中で自賛したが、本番後彼は。なぜ途中速く弾いたのかと問い詰めた。理由を言うと、彼は「俺は間違ってなんかいなかった」と言い張った。それまで少しずつ溜まっていた彼の自分勝手な音楽への不満がリミットを超えた。大袈裟な歌い回し、極端なテンポ設定、声は大きいが揺れて音程が不鮮明になっていたことなど、我慢の限界は来ていたのだと思う。マネージャーに今後一緒にはやらないと私の方から告げ、以後会う事はなかった。
 しかし「魔王」の件は若気の至りというか、今なら彼のミスに対し違う方法をとるだろう。つまり、同じ速さで連打し、どこかで一拍省略すればよかったのだ。そうすれば歌手は気付かなかったはず。極度の近眼のシューベルトが必死で書き込んだ音符を省くなんて申し訳ないことではあるが。本番にアクシデントは付きものなのである。
高齢となり人前で歌わなくなると、NPO「みんなのオペラ」を立ち上げ、歌手をオーディションで選び、演出もして「蝶々夫人」をイタリアで公演した。そのドキュメント番組を観たが、コーラスにいたるまで衣装を日本人から見て間違いのないものにしようとしていた執念は素晴らしかった。海外の演出や衣装はデタラメなものが多く、プッチーニがイタリアオペラとして描いた世界だとしても、いろんな嘘がまかり通るのは、われわれにとって嫌なものだ。
 訃報はずっと後で知った。テレビニュースにはなったのだろうか。お世話になったのにそのままのお別れとなってしまった。今でも恩人の一人だと思っている。

栄光も孤独も逝きて冬の旅