コロナ禍以降人の多い場所には出かけなくなって久しい。この二、三年は昔を懐かしむモードになっていて、そのついでに思い出したものを簡潔に記しておこうかなと思った次第。記憶違いや多少盛ったところがあるかもしれないがそこは勘弁。登場人物の説明や詳しい日時など面倒なので書かないけれど、興味が湧いたらヤホーで検索でもしてください。ナイツか。ほぼ一九八〇年代九〇年代の話になるので昔話もいいところだ。

⓵ バッハの専門家カール・リヒターが亡くなった時、彼が指揮する予定だったミュンヘン・バッハ管弦楽団のコンサートを急遽代わりに指揮したのがなんとレナード・バーンスタイン。チケットを買っていた私はとんだサプライズに興奮した。しかもブランデンブルク協奏曲のチェンバロソロまでやってのけたのだから。幸いなことにリハーサルが学生に解放されたのでそれも聴いた。G線上のアリアで有名なメロディが弦楽合奏で流れている間バーンスタインは響きを聴くためか客席に降りて通路を歩いた。そして私の傍を通るとき何気につぶやいたのである。しわがれた声で「Das ist Musik これこそ音楽だ」

② いまでは指揮者として巨匠の風格すらあるクリストフ・エッシェンバッハだが、もともとピアニストでドイツが生んだ久々の大型新人だった。デビュー間もないころだと思うが、長崎市民会館でソロコンサートがあり(当然こちらは中学生くらいか)はじめてシューベルトの遺作のイ長調ソナタを聴いた。終楽章の美しさに感動し、それ以来シューベルトは永遠の憧れだ。デビューといえばマレイ・ペライアが初来日したとき(こちらは大学1年生)上野でシューマンの「交響的練習曲」を聴き、上手いなあと思ったのに、批評家には酷評された。えっ何故?ペライアは怒ったのかそれから20年日本に来なかった。その後の目覚ましい活躍を予見できなかった馬鹿な批評家のせいである。

③ ピアニストの思い出は尽きないが、ルツェルンのホテルシュヴァイツァーホフで聴いた93歳のホルショフスキーのリサイタルは一生の記念となった。小柄なマエストロと握手するとマシュマロのように柔らかい手で、これぞ美しい音の源かと感じ入った。毎年ルツェルンでマスタークラスを行っていて、その様子はテレビマンユニオンがドキュメント番組にもしている。「ホルショフスキーの奇跡~99歳のモーツァルト弾き」。天才少年として世に出て、チェリスト・カザルスの伴奏を長く勤め、スターピアニストが世を去っていくにつれ、晩年ソリストとして再び脚光を浴びた。八代目桂文楽の名言「長生きも芸のうち」はホルショフスキーのためにあるようだ。御茶ノ水の「カザルスホール」の杮落しで来日し、バッハのパルティータやモーツァルトのソナタなど名演奏を聴かせた。

④ バイロイトはワーグナーの聖地である。彼の作品のために作られた独特の音響を持つ劇場で、質素で座席も固く長時間座るのはきつい。しかしチケットの争奪戦は過酷で夏になると世界中からワーグナーファンが訪れる。当然こちらの手に渡るはずもないのだが、合唱団に日本人がいて、そのつてでいくつかのゲネプロを見ることが可能となり、それが数年に及んだ。当時から照明スタッフや音楽稽古のスタッフにも日本人はいたのだが、ソリストとしても藤村実穂子さんのように日本人が活躍する時代が来ようとはさすがに思っていなかった。バイロイトの演出は時に過激、斬新でカーテンコールでは激しいブーイングも珍しくない。いつまでもオーソドックスな演出をしても仕方ないので、内容を現代に置き換えたり、ナチスを批判する設定にしたり、(かつてバイロイトはヒトラーに利用された苦い過去を持つ)古くは、舞台にほぼ何も置かず照明だけでやったことさえある。ワーグナーの孫ヴィーラント・ワーグナーの演出で歌手も黄金時代といえよう。近年は内容そのものを読み替えて歌詞と矛盾することさえ厭わないが、これには付いていけない。4夜にわたる「ニーベルングの指輪」は何度も新演出で登場しているが、最近のやつをテレビで観て驚いた。恰好いいはずの主役級が男女ともに関取みたいに太っていたのである。演出も訳が分からず評判も悪かったらしい。八〇年代に私が観たのはフランスの演出家パトリシア・シェローが、時代を産業革命期に置き換えたもので、指揮はフランスの現代作曲家ピエール・ブーレーズだった。音楽的にはそれまでのドイツ的重厚さと慣習を取り去り、すっきりしたものだった。最初は驚きで評判悪かったが、毎年改善され今では大変評価されている。なんといってもペーター・ホフマンというロックからスタートした歌手が見栄えもよく、演技も素晴らしかった。テレビ中継ではアップでラブシーンが繰り広げられたが全く不自然に見えなかったものだ。他の演目についてはあらためて。

⑤ ミュンヘン歌劇場にはよく足を運んだ。当時の音楽監督はヴォルフガンク・サヴァリッシュ。N響でもおなじみの巨匠である。ピアノも上手く歌曲伴奏で多くのCDがある。見るからに学者肌で指揮も論理的、練習の手際もよくて、非常に頼りがいのある指揮者だ。しかしカルロス・クライバーに比べると現地では人気がない。サヴァリッシュの指揮でワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」がミュンヘンで上演された。オーソドックスな演出、衣装、舞台装置で楽しみにしていた。なんといっても舞台上の人数が多く、合唱がみどころでもある。中世ドイツのお祭りが再現されるのだから。しかしである。フィナーレの一番盛り上がるべきところで事件は起きた。コーラスがストライキで一斉に口パクとなり歌わなかったのだ。そのときのサヴァリッシュの必死な形相と指揮ぶりは気の毒でさえあった。例えばクライバー指揮の「バラの騎士」ではこんなストライキは起こりえない。世界的なスキャンダルになってしまうからだ。そういえば、彼が「バラの騎士」を振るのを天井桟敷から見たことがあるが、譜面台に真紅のバラが1本スコアの上に載っていて、それは一幕が終わるまでそのままだった。つまり暗譜でずっと振っていたわけで、オペラの指揮ではあまり例がない。とことんスタイリッシュな人だった。天才で気難しく、少年のように無邪気だが女好き、高額なギャラをもとめるのに私生活はケチという不思議な人。春風亭小朝は彼の指揮ぶりにあこがれて指揮を習い、番組で「こうもり序曲」を披露したが酷いものだった。

⑥ ピアニストのアシュケナージはソ連の期待を背負ってショパンコンクールで2位となり、(1位は地元ポーランドのハラシェヴィッチで裏がありそうな結果)国際的な活躍で西側に亡命した。のちに指揮者となり、N響の首席指揮者だったこともある。信念の人でありながら人柄は温厚、音楽も自然で指揮よりはピアノで抜群のテクニックを持つ。シュツットガルトのリサイタルでショパンの3番のソナタを舞台上の席で間近に聴いたのも忘れ難い。しかし彼との思い出はのちにルツェルンで彼の家に呼んでもらったことだ。アシュケナージがルツェルンに住んでいたことがあり、そのころ私も歌劇場で仕事していたのである。といっても音楽家だから呼んでもらったのではなく、アシュケナージの犬を散歩させるアルバイトの女の子(スイス人)と友達だったから、くっついて行ったというのが正直なところ。お土産にレコードを3枚貰った。いい人だったなあ。

⑦ オペラで圧倒されるほど美しく豪華絢爛な舞台を目にすることがある。演出家でいうとゲッツ・フリードリッヒ。ベルリンが本拠地だが、シュツットガルトの「バラの騎士」では初日の幕が開いたとたん舞台そのものに拍手がきた。主役のハイヒールをパリから取り寄せるほどお金がかかっていたとか。フリードリッヒの奥さんはカラン・アームストロングという美人歌手で、同じリヒャルト・シュトラウスの「サロメ」を歌ったことがある。このオペラでは有名な「七つのヴェールの踊り」というシーンがあり一枚ずつ脱いで行って最後全裸になる。普通ダンサーが演じるのだが、アームストロングは歌った後も自分で踊り全裸になるという噂を聞いて、シュツットガルトからミュンヘンまで見に、いや聴きに行った。裸が珍しいわけではない。美しい一流歌手の裸が珍しいのである。

⑧ 舞台装置で忘れられないのが、バイロイトのワーグナー「トリスタンとイゾルデ」ジャン・ピエール・ポンネルの演出。特に二幕の夜の森のシーンは美しく、舞台いっぱいに広がるドレスをまとったイゾルデが泉に顔を映している。実際に波打つ装置の水が張ってあり、その下からライトが照らす。するとイゾルデの顔に妖しい光が反射しうごめくのだ。それを舞台のほぼ真上の照明室から見せてもらった。イゾルデを歌ったアメリカ人ソプラノはよほど上手くいって嬉しかったのか、出番の後、鼻歌で「フライミートゥザムーン」を歌いながら楽屋に戻って行くのを目撃した。

⑨ 歌曲のコンサートで忘れられないのは2011年4月15日に銀座王子ホールで行われたイギリスの名ソプラノ、フェリシティ・ロットのリサイタルだ。ピアノは名伴奏者グレアム・ジョンソン。この年は東日本大震災が起こった年で、来日予定のアーティストは地震と原発事故の影響を恐れて軒並みキャンセルしていた。決して広くない客席はコアな歌曲ファンで満員。来てくれてホッとしたのと感謝の気持ちで満ちていた。前の列には吉田秀和氏もいて、後日朝日新聞にこの夜のことを書いている。演奏は期待通り素晴らしく、知的なプログラムでありながら、愉快で表情で楽しませる洒脱なナンバーもあって盛り上がった。さてアンコールではピアノのジョンソンが立ち上がり震災に対する深い悲しみと慰めのコメントを述べた。「明日はきっとより良い日が待っているでしょう」という言葉とともにリヒャルト・シュトラウスの「Morgen! 明日の朝」の前奏を静かに弾き始めた。この世で最も美しい旋律に思えた。

⑩ 亡くなったピアノの巨匠で実際に聴くことができた人を3人挙げておこう。ウィルヘルム・ケンプ、クラウディオ・アラウ、ルドルフ・ゼルキン。残念ながら間に合わなかったのがホロヴィッツとルービンシュタイン。これは時期的に仕方ない。余談だがケンプはドラマ「赤い激流」で宇津井健が若きピアニスト水谷豊に参考として聴かせるカセットテープがそう。たしかベートーヴェンのテンペストソナタ3楽章だった。リサイタルのアンコールで自身のアレンジによるバッハのシチリアーノを弾いたのだが、あれほどピアノを美しく歌わせる人はいないとさえ思った。アラウは子供の時買ってもらったベートーヴェンの皇帝とチャイコフスキーの1番のコンチェルトがカップリングされたレコードのソリストだった。南米チリの出身だが本格的なドイツ音楽の担い手で、ケンプと比べ晩年までテクニックの衰えを感じさせなかった。アラウに言わせるとホロヴィッツは腕が固いそうである。それほど自然なピアノ奏法の術をアラウは持っていた。ゼルキンも子供の頃ベートーヴェンの月光ソナタのレコードを持っていた。当然のように、ベートーヴェンといえばゼルキンと刷り込まれていたようだ。ゼルキンはカーチス音楽院の教授で、彼の家の隣にたまたま私の知り合いが住んでいた。ある日ゼルキンに言われたそうだ。「ピアノうるさくないですか?」「と、とんでもありません!」と答えたらしい。偉大な人は謙虚だ。ホロヴィッツは違うようだが。どう違うかは別の機会にでも。

あの音は亡きマエストロ春の夢