「遊俳」 令和5年冬号から                 

恩人と呼べる人が何人かいるが、そのうち名伴奏者アーウィン・ゲイジについては令和3年秋号に書いた。今回は私が伴奏した名歌手の一人、ソプラノのシルヴィア・ゲスティ(Sylvia Geszty)について記しておきたい。
ハンガリーに生まれたゲスティは若くして東ドイツで活躍し、世界的なコロラトゥーラソプラノとして多くの録音を残している。特にN響の名誉指揮者でもあったオトマール・スウィトナーによるモーツァルトの「魔笛」は名盤で、彼女が歌った夜の女王は歌うだけでも大変な役なのにテクニックを越えた深い表現力に圧倒される。ルドルフ・ケンペ指揮のリヒャルト・シュトラウス「ナクソス島のアリアドネ」ではコロラトゥーラの最難関というべきツェルビネッタを歌い、のちに日本でも大人気のグルべローヴァがその役を得意にするまではナンバーワンのツェルビネッタだった。
東ベルリンのコーミッシェ・オーパーにフェルゼンシュタインという偉大な演出家がいて、彼女はその薫陶を受けている。かつてのオペラ歌手は歌が上手ければ演技や見栄えは二の次と思われていた。フェルゼンシュタインはその常識を覆し、歌手に徹底的な演技力を求めた。ゲスティはその期待に応え、オッフェンバック「ホフマン物語」のオランピアという、主役が恋する人形の役を完璧に演じたのである。
西ドイツに移ったゲスティはテレビ出演も増え、ドイツ圏では文字通りスター歌手となった。多くのオペラハウスに出演したが、シュツットガルト歌劇場の専属となってからは「ラ・ボエーム」のミミや「魔笛」のパミーナ、「椿姫」のヴィオレッタのように、より抒情的な役を歌っている。私が出会ったのはこの頃で、彼女はシュツットガルト音楽大学の教授でもあった。育てた生徒としては、東京藝大でも教鞭をとられた日比啓子さんが最初の日本人の生徒で、世界中から多くの学生がゲスティの教えを求めて集まっていた。私は木川田温子さんという留学生の伴奏で顔を出していたが、彼女のレッスンは素晴らしく、発声練習での妥協しない耳の良さには驚いたものだ。曲のレッスンでは自ら歌うのでこれほど説得力のある指導はない。発声にも厳しかったが、オペラの役を理解しているかどうかにはもっと厳しかった。彼女が手本を示すとその場がオペラのワンシーンようだった。ただ感情をすぐ表に出す人なので、歌手として格下の他の教授の悪口はずいぶん聞かされたものだ。今思えば、名歌手ならずとも優れた先生はいたし、有名歌手であってもあまりいいレッスンでなかった先生もいたと思う。これはいずこも同じ。
知り合って間もないころゲスティから電話があり「伴奏者が病気になったので十日後の自分のリサイタルで弾いてほしい」とのことだった。オペラ歌手だから普段からレッスンで弾いているオペラアリアの類だろうと思って引き受けたら、聴いたこともないアルバン・ベルクの「7つの初期の歌」がプログラムに入っており、オペラアリアは一曲もなかった。本格的なリーダーアーベント(歌曲の夕べ)だったわけで、実はオペラ歌手では珍しい。しかし苦労したおかげでみんな今でも好きな曲である。
恋多きゲスティは3回結婚した。最初は十八歳でハンガリーに居たころ。西ドイツに移った頃には離婚し、生真面目なドイツ人ピアニストと再婚、一男をもうけた。クリスチャンと呼ばれていた息子には私がピアノを教えていたが、のちにお医者さんになったと聞く。
シュツットガルトで同居していた男性は3人目でケーキ職人だった。かなり年下でハンサムな人だった。偶然ゲスティと同じマンションに住んでいて彼女のひとめぼれだったようだ。バツイチの彼も子連れで小さい女の子がいたから、結婚後はシュツットガルト郊外の邸宅に4人で住んでいた。とても仲良さげで、私にとってもゲスティとのコンサートマネージでお世話になった優しい人であったが、結局別れている。後で聞いた話では離婚に際し、かなりの財産を彼に奪われたらしい。人は見かけによらないものだ。
私たちは2回ハンガリーのブダペストでコンサートをやった。まだ社会主義国のころで、1回目のコンサートはゲスティにとっても久しぶりの里帰りだった。空港に迎えに来ていた初老の男性が車の手配やら食事の世話やらいろいろ尽くしてくれたのだが、実はこの人最初の旦那だった。その「ゲスティ氏」はもちろん再婚していたのだが、食事の席で新旧の妻が楽しそうに談笑していたのを思い出す。最初の歌の先生のアパートにも一緒に行った。高齢で寝たきりなのに綺麗にお化粧したかつての先生は、有名になった教え子の訪問をそれはそれは喜んでいた。
日本には2度来ているが、私が帰国したずっと後の話となる。1度目は教え子の日比啓子さんと木川田温子さんが尽力し(微力ながら私も)日本で合宿形式のセミナーを行った。テープによるオーディションで受講生を選び、セミナーの全日程で伴奏した。会場は葉山のホテル。電車で行くのが便利なところだったが、品川のホテルからそこまで車移動でないと嫌だと駄々をこねられたのも懐かしい。京都でも公開講座をしたが、さすがに新幹線には乗ってくれた。
2度目の来日は日本演奏連盟の招きで、当時の会長はソプラノ歌手伊藤京子先生だったから実現したのだと思う。ドイツ文化会館で公開レッスンをしたが、コダーイの歌曲やオペレッタなど数曲歌ってくれた。ドイツにいたころ以来久々の伴奏だったが、驚いたことに声も表現も昔のままだった。講座に先立ってサイン会をしたら昔からのオペラファンらしき男性がゲスティのレコードを何枚も持参していた。私が知らない時代のアイドルが昔のファンに接しているようだった。
 シュツットガルト音大を退任してからはチューリッヒ音大でも教えていたが、ここはかつて私がアーウィン・ゲイジのレッスンを受けていたところだ。その後彼女の好きなウィーンに居を移し、時々レッスンをする暮らしをしていたそうだが、結局シュツットガルトの高級老人ホームで2018年に八十四歳の生涯を終えた。日比啓子さんは最後まで日本から生徒を何人も連れてレッスンを受けに訪ねていたそうだ。弟子の鑑のような人だったが、彼女も一昨年亡くなった。
彼女の自伝「コロラトゥーラの女王」に私との出会いが書かれている。手前味噌になるといけないのでgoogle翻訳をつけておく。

Eines Tages erblickte ich auf der Treppe der Hochschule einen wunderhübschen japanischen Jungen,der Seiya Hirashima hieß. Ich erfuhr,dass er in der Liedklasse Liedbegleitung studierte. Wie sich herausstellte,war er ausserordentlich begabt. Ich bat ihn in meiner Klasse zu korrepetieren. So wurde er auch mein Klavierbegleiter und mit ihm sang ich die schönsten Liederabende meines Lebens. Er war immer zum Proben bereit und wir hatten riesige Erfolge.

翻訳結果

ある日、大学の階段で平島聖也という美しい日本人の男の子を見かけました.彼が歌のクラスで歌の伴奏を勉強していることを知りました.彼は非常に才能があることがわかりました.私は彼に私のクラスも指導するように頼みました.私のピアノ伴奏者であり、彼と一緒に私は人生で最も美しいリサイタルを歌いました. 彼はいつでもリハーサルの準備ができていて、私たちは大きな成功を収めました.

翻訳機能もイマイチなので修正箇所は次の通り

聖也→誠也
美しい→東洋人の美的良し悪しは解らないけれどたぶんその時の私の目にはまあまあな
歌のクラスで→ドイツ歌曲科で
指導するように→ピアノで伴奏するように

没後4年が経とうとしているが、数多くのレコードはむしろサブスクによって今日簡単に聴けるようになった。是非その稀有な音楽性に触れて欲しい。

冬麗(ふゆうらら)ディーヴァ微睡(まどろ)む養老院          誠也