加筆②2016年の胸の病気について))))) | 記録と想い

記録と想い

~記憶がないということ~

解離性健忘症(全生活史健忘症)になって

 ② ベッドの上で、移動のあと、最初の処置の最中話しかけられたけど全く理解できなかったことしか憶えていない。
 2016年の記事で少し触れたが、「全身麻酔の影響」は何もなければそれでよしなのだが、自分の場合においては「脳に傷のない、精神疾患の延長の乖離性健忘なので、場合によって著しい精神面への影響がある可能性を指摘されていたので、それなりに「術後の拘束(文字通り暴れたりしないための拘束具を使った拘束)」だったり、“今の自分”であるかどうか、確認するための質問と答えを考えられる範囲でノートに起こしてやり取りをして欲しい事とか もしもの事態に備えては当時考えつくことを手術スタッフとは打ち合わせをしていて」、幸い手術室から移動直前に「意識のやり取り」で 「拘束」はせずにICUへ移動。その後しばらくは「自分でも」当時(今も)の「自分としての意識」については退院直前迄 慎重だったり。でも術後経過の中では「自分が寝てると思ってナースが話していたのは」、「「記憶がわからないのにこんなノートあってもねぇ」」と複数で話していたこと。
 何度でも書くけど、今の自分の「乖離性健忘」における「自分で感じる感覚」は自分でもわからないことダラケなのだ。
 上記の「ナースのやり取り」は自分でも「何をどれだけなのかわからないんだよ。お前
らに“ナニがわかる?!”」もう心はワナワナ震える想いで じっと聞いたのを覚えている。

目が覚めたら意識が戻ったときに「全く別の存在」になっている可能性があるということがどういうことか?その恐怖は本人以外にはわからない。ある人にそれを話したら「そんなことくらいで」とやりとりになって、困惑もすれば、「やはり“自分の存在”は理解されない」と悲しかったのをおぼえている。言った人は「全身麻酔」の経験がある人だったが、意思の疎通が十分でないのに話した自分もいけなかったのか、本当は考え方とか気持ちの持ち方を話せればと思っていたのだが。
 言葉の選び方や順序、話す相手を慎重に吟味して(それなりに判断したのだけど)が、それでも誰にでもは話してはいけなかったのか?(その時も今も その人についてはそのやり取りについて特別どうこうの感情はなにもありません申し訳なかったとは思えど。これではいけないと思ったものです。「色んなことも誰彼構わず話した自分」が結果としてはいけなかったのだと思いつつ、自分の抱えている病気(乖離性健忘によるコントロールのできない状態)は難しいということ。

今も変わらず「やはり自分は理解されないし、存在について迷う」ということ。

話がそれるかもしれないが 「独り」がそもそも無理だとわかるのに、「人恋しい苦しい独りではいられない」と思う反面、「普通」ではない変化の激しい自分は 「誰か」は必要な筈なのはわかっていても、様々な状態を捉え考えること判断することができてないこの目まぐるしい中では、「余程」の“つながり”(この意味は更に複雑で難しいのかも)が成立する存在でないと存分にただ「話す」ことも無理がある。

たぶん望んでいるのは、「夫婦」のような感覚・や気持ちのような たぶん(今の自分のことは棚に上げても)付きっきりで徹底的に付き合う覚悟のある人でもいなければ それをある程度「自分」も「あ、この人はそういう人」と自覚出来なければ 「本当に言葉でも態度行動でも」「僕も」本当の意味で気持ちを許せないのではないか。わかるだろうか?たぶんわからないと思う。 中途半端に「身構えて」しまうから。この意味も通じないだろう。どう書いても表現しようとしても そもそも「自分のなかに」足りないことだらけ。そう思う。「本当に言いたい話とりたい行動を“説明”するのも たぶん 理解されないと思う」8年9年目の今どうにか言えることだと思う。表現足りないだろうけど。







  「「何をするにもわからない」」
 



~ボタンを押して人を呼ぶコールスイッチを目の前に見せられ、何かあれば呼ぶようにとのことだったけど、その時最初から付いていてくれたナースの1人(お名前は忘れてしまったが、この人が居なかったら死んでいたと思う。理由はこれから書く)とにかく痛みと息が苦しくてできない。「痰」の吸引については最初のうちはとにかく付き添うナースさんの判断が全てだったと思う。そもそも「吸引したいのかどうか?」さえわからない何度か吸引のあとで、「この感じは吸引なんだ(吸引しないといけないんだ)」ってなってくる~