①加筆))20161216のブログから「書ききれないので分けて」)))) | 記録と想い

記録と想い

~記憶がないということ~

解離性健忘症(全生活史健忘症)になって

 ① 手術の始まりから終了、声がけられるまでの感覚は「数秒」の感覚。この時は(そうそうあってはたまらない)「花畑や光につつまれたり、川をみたり?とかは一切なかった」
 ICUに移されて今でもハッキリ覚えているのは「ごおーっ」っという音(結局なんの音かわからない。空調?)、こもって響くような感じの複数の男女の談笑の声(言葉には分解できなかった)、とにかく痛くて息ができなくて苦しくて眠りたい気持ちがあるのに眠れない、声が思うように出せない、裸眼でよく見えない(視力悪し)ところにずっと暗くて(実は術後夜になり、電気は消してあったようで)、とにかく痛くて息が苦しかったということ。視るとか聞くとかより「感じる」感覚。

2016年の記事で書いたのは、「3日位過ごしたのでは?」とあるのは、意識のなかで少なくとも3回寝落ちしたからだと思う。とにかくなにかを考えるような感覚はなく、自分の場合は「呼吸」についてがほとんどだったと思う。

痛みは全身にあり、特に胸周り、前も後ろも(後ろには麻酔用の針とボトルというかタンクというかが繋がっている)覚えているのは、身体を真っ直ぐにできなかったこと。いわゆる横向きの感じで膝を曲げて。

「痰の吸引」については、さらっとした説明は受けていたが、「こんなに頻繁でキツいのか」というのは術後に初めて自分なりにわかったこと。「いっそ殺して楽にしてほしい」とは本気で思っていた。


~手術を受けるまでには葛藤があった。傷病の中身がわかるにつれ、当時の自分はまだ「生きてもいいし、死んでもいい」という座標で言うなら「(x:y:z=0:0:0)」のあたりにあったと思っていて、それが病棟に入って周囲の状況を見て自分なりに決断をしなくてはとギリギリ迄迷っていて。
 入院迄のなかでも、最初個人病院から紹介状を渡され、その病院に行ったとき、それも1人だったのもあり今でも「ロクな説明の無いまま」気圧操作の出来る部屋に連れていかれ、唾液をとったりの検査作業?のなかで言われたのは「“感染症”の可能性があり、うちにはその設備施設が無いので、そうなればこのまま病院をそこの扉から出ていってもらいます(扉の向こうは外である説明だけはされたのが「なんて態度?困って頼って来てるのに  そんな感じでしかなくて。」)」この言葉にロクな説明もしないでその後ノコとについても一切話もなく「病院を出ろって?」というのが強烈で、最後のその時の担当医のその対応の仕方(自分が徹夜明けだかなんだかでイライラされても困るし、結局どういう状態なのか?肝心なことを説明しなかった。肺の影だけの問題では既になかったからだ。)に その時点でこの病院に対して「信頼」は一切無くなり。(2016年の記事参照されたし)
 この辺りは2016年の記事を行ったり来たりで確認出来ることもあり。その日の呼吸器内科の担当医(複数のうちの1人)とは、こちらにそのつもりはなく、よくわからなかったから詳しく説明を聞こうとしたら「虫の居所」でも悪かったのか?「なじられた」のだけが(詳しい言葉はもう覚えておらず)頭に残り、「感染症」でないことだけわかり とりあえずその病院で通院診察出来るらしいことだけ理解して帰ったこと。~