こんにちは。
今回は、神の救いに関する考察をしてみようと思います。
前もって言っておきますが、過去記事「ダニエル書二千三百の夕と朝の預言と神の審判」で申したとおり、全知全能の神の御計画、御旨を不完全な人間には正確に把握、理解することはできません。この前提を基に、私の個人的な見解としてご参考いただければと思います。
過去記事「偽預言者RAPTやその他の偽善者たちと心中したければご勝手にどうぞ」において、予定説について少し言及しましたとおり、当記事を書くに至りました。意識したことも聞いたこともない人も中にはおられるかもしれませんが、一般に、神の救いについて、大きく予定説か自由意志説かに分かれており、中世時代からクリスチャンの間で議論を呼ぶ大きな関心事項と言うべき議題です。私は、結論から言って、予定内自由意志説を提唱したいと思います。詳細は当記事をお読みいただければ分かりますが、この考えを提唱した人は今まで誰もいないことでしょう。予定説と自由意志説のどちらか一方に偏るのがそもそも誤りであり、どちらも完全とは到底言い難いからです。それにも拘らず、過去歴史上、それぞれの説に適宜修正を加えてきたに過ぎず、根本的に解決していません。既存のどちらかの立場に立たないといけないというのがおかしな考えであり、そのように思っているからいつまで経っても決着が着つかない論争を無駄に繰り返すのです。私がそれを終わらせます。
以下、論証していきます。
まずは、予定説(予定論)についてです。
予定説の成り立ち等の歴史について事細かに説明するのは本題から逸れる上に長くなるので割愛します。興味がある方は各自でお調べください。予定説の主張内容について簡潔に言えば、神の救いは、地上で生きている間における人間の行為や努力に関係無く、人間が生まれる前から神によってあらかじめ定められているという考えで、神からの一方的な選びと憐れみや恵みによるというものです。
予定説への批判は、人間を神の操り人形とみなすのはおかしい、人間に自由意志があるのは事実なのにそれを否定することはおかしい、選ばれているのが確実なら何をしても良いことになるのはおかしいというものです。
これらの批判はもっともなものです。特に、ジャン・カルヴァンが提唱したような予定説では、神から選ばれた者は絶対に救いから漏れることがないし、行いも無関係とまで言い切り、神からの絶対的な選びを強調し過ぎる故に、信仰の義を軽視し、高慢を生む元になるからです。また、カルヴァンは、原罪を肯定しますし、人間の自由意志を否定する説得力に欠けています。反対に、私は、原罪を否定し、信仰の義と行いを重視していますので、カルヴァンの主張を支持していません。しかし、カルヴァンの主張が誤っているとしても予定説自体が直ちに存在価値の無い物ということにはなりません。理由は後述しますので読み進めてください。
私が思うに、予定説に猛反発する人に見られる傾向として、その批判は選ばれていない人から出るということです。しかし、予定説に賛成したからといって選ばれたということにはなりません。それ程単純な話ではありません。特に、カトリックは予定説を異端として断じて受け入れません。なぜなら、カトリックは神の御言葉である聖書よりも教皇や教会の権威を上にしているからです。前回記事「人々の誤認識と今後必要な信仰と心の準備」でもそうですが複数の過去記事でカトリックは偽キリスト教、即ち、異教と述べてきました。その異教から異端と非難されるということは、彼らが救いから漏れているからと言えます。プロテスタントであっても予定説を認めようとしない人たちは、聖書の真理から逸れた人たちです。なぜなら、聖書には予定説を裏付ける文言が多くあるにも拘らず、彼らがそれを認めようとしないからです。要するに、彼らは自分たちの都合の良いように聖書を解釈して信じ、都合の悪い箇所を勝手に無視しているだけなのです。したがって、彼らは自分たちが選ばれていないのを薄々感づいているか、その事実を認めたくないから必死に否定するのです。
また、予定説を資本主義と関連付けたマックス・ヴェーバーという人が「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という論文を書き、禁欲で熱心に働いた結果、資本主義が発達したとしていますが、これは誤りです。なぜなら、資本主義の下で頑張り過ぎると、企業や人間は必要以上の利潤を追い求め、休みなく働こうとしてモーセの律法に違反(安息日を疎かにする等)する危険性が増し、諸悪の根源である金銭欲が増大し、金がすべてと思い、物欲にまみれ、他人と競争や比較をして財産面で劣る人や貧困に苦しむ人を蔑んだり、隣人愛が無くなるのです。まさに、現代の世がこの様子です。ですから、本質的に、禁欲と資本主義は相容れないものです。資本主義はあらゆる世俗的な欲で成り立っているからです。
旧約聖書で主なる神がイスラエルを選民として扱い、幾度も偶像礼拝や多神教崇拝といった背信行為を繰り返しながらも、神がお選びになった預言者を通じて民に悔い改めを呼びかけるということがありました。また、それでもイスラエルの民が背信した結果、奴隷や捕囚になったり、他国に攻められてエルサレムの都も破壊、占領される経験をしました。それでも神は完全にはお見捨てにはならず、ダビデを王にして、その系図上の子孫から出た主イエスを終わることのない支配者とすると宣言されました。
旧約時代においても、神が人間に自由意志のみで生きさせると、預言者もすべて神の命令通りに行動したか保証がありません。神が人間の自由意志という不確実性にすべて任せるということをなさるはずがないのです。故に、人間の自由意志だけでは神の御計画が達成されないと思われる状況になったら、神は人間の目には見えない形で介入されています。過去記事「サウルとダビデの違いとダビデと主イエスの関係」で取り上げたとおり、サウルのようにダビデも同じく真に悔い改めをしなかったらどうなっていたでしょうか。イスラエルの王全員がサウルのように、油注がれても、罪を繰り返し犯して悔い改めない人間ばかりだったら、どうなっていたでしょうか。ソロモンも晩年に異性の誘惑から堕落し、最後まで神に従順ではなく、それに続く王も悪を行う者が多かったです。しかし、神はダビデへの約束(サムエル記下7:12~13)のために忍耐されたのです。神は、忠実ではないサウルに悪霊を送られました(サムエル記上16:14)。神は聖霊を神御自身が送りたいと思う人間に送り、一向に悔い改めないために見限った人間や途中で背信した人間には悪霊を送られるのです。
聖書には神による天地創造からの御計画があることが示されています。
新約聖書 ペトロの手紙一 1章2節
あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、”霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。
全知全能の神は、御計画を天地創造の前から既に決めておられます。アダム以降の人類をどうするか、誰を預言者にするか、誰を王にするか、主イエスを地上に送って罪の贖い方を変えること、最も強力な反キリストを誰にするか、いつ世に終末をもたらすか、新しい天と地の世界に誰を入れるか等すべてです。ですから、神は時も定めています。天地創造という時の始めもあれば、それが終わる時も決まっているのです。そういう理由で、聖書には多くの終わりの兆候や様相について預言されているのです。人間の自由意志だけでは、神の御計画を定められたとおりには時間的にも内容的にも動けないのです。過去記事「ダニエル書の七十週預言の真実」で説明したとおり、七十週の預言が正確に実現したのも神の介入があったからです。なぜなら、人間は誰しも聖書の記述のとおりにいつまでに何をすると思って生きていないし、神の御計画を知り得ないからです。また、神にとって、聖霊も悪霊もすべて思いのままですから、預言どおりに事を進めることがおできになるのです。こうなると、聖書の預言は、神の予告となります。一般の人間にとって、預言者の言葉は神から授かった御言葉という預言ですが、神の視点からでは予告です。よって、神が仰ったこと(聖書の御言葉)は必ず実現するのであり、失敗というのは有り得ないのです。旧約時代から現在まで、神に不従順で逆らう人間が大多数なのに、その後も何千年に渡って人間の自由気ままにさせても一向に神がお望みの世界を作ることができないのは神が前からご存知だったのです。世の中の大多数の人間は、神に従順ではありませんから、神の御計画どおりに世が動くことは絶対に有り得ず、神の隠れた介入は必ずあります。新約聖書上でも、予定説の根拠となる文言が数多く書かれています。そのほんの一部分は、過去記事で紹介したとおり、パウロが産まれる前から初期(1世紀)におけるキリスト教の伝道者として神がお選びになったことが窺えます。仮に、これが予定されずに人間の完全な自由意志のみとすれば、パウロが回心することなく、ユダヤ教徒のままでいたら、今頃どうなっていたでしょうか。今存在するような新約聖書が無くなることになります。そういうことがないように、神は人間の自由意志を尊重しつつ、巧みにお導きになるのです。
上述は、予定説について、私の見解を書きました。予定説の根拠となる聖書の箇所も確認しておきます。
旧約聖書 出エジプト記 33章19節
わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。
上記で明確ですね。神からの一方的な恵みと憐れみということが読み取れます。この箇所については新約聖書にも記述があります。
新約聖書 ローマの信徒への手紙 9章15~16節
神はモーセに、「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」と言っておられます。従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。
上記聖句は、私が示した旧約聖書の箇所と繋がっており、さらに、人間の自由意志ではないと明確に否定されています。前回記事「人々の誤認識と今後必要な信仰と心の準備」で、私の説明が理解できないのは、神が意図的に心を頑なにされているからと申しましたのは、以下の聖書箇所で裏付けられています。
新約聖書 ローマの信徒への手紙 9章18節
神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。
私がデタラメを言っているのではないことがお分かりですか。出エジプト記でも、神によってファラオが何度も心を頑なにされた話があったとおり、神は人間の心を動かすことがおできになるのです。以下のとおりです。
旧約聖書 出エジプト記 7章3~4節
しかし、わたしはファラオの心をかたくなにするので、わたしがエジプトの国でしるしや奇跡を繰り返したとしても、ファラオはあなたたちの言うことを聞かない。
上述したように、神は聖霊と悪霊を思いのまま操り、必要であれば、人間の心を動かすことがおできになります。これは神がモーセに予告したとおり、神の介入です。人間には見えませし、分かりません。当時、神の介入を知らないファラオの周囲の人間は、ファラオという人間がとても頑固だと思うだけで、知っていたのは事前に神から知らされたモーセとアロンだけだったのです。そして、聖書の真理を理解できない人、また、それを説明する私が言うことを受け入れようとしない者も神によって心を頑なにされている可能性があります。即ち、神から憐れみを受けていない可能性が高いです。
その他、多くの聖句に神に選ばれるという文言を、上記列挙済のものを除いた他の箇所を列挙します。
・選ばれた人たちのために(マタイ24:22,24, マルコ13:22)
・御自分のものとして選んだ人たち(マルコ13:20)
・入ろうとしても入れない人が多い(ルカ12:24)
→これは選ばれない人が多いことを指します。
・金持ちとラザロ(ルカ16:19~31)
→信じない金持ちは選ばれない。
・父がわたしにお与えになる人(ヨハネ6:37)
・わたしに与えてくださった人(ヨハネ6:40)
・父が引き寄せてくださらなければ(ヨハネ6:44)
・父からお許しがなければ(ヨハネ6:65)
・イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられた(ヨハネ6:64)
・わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける(ヨハネ10:26~28)
・わたしがあなたを選んだ(ヨハネ15:16)
・わたしがあなたがたを世から選び出した(ヨハネ15:19)
・わたしに与えてくださった人々、彼らはあなたのもの(ヨハネ17:9)
・神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たち(ローマ8:28)
・神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました(ローマ8:29)
・神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです(ローマ8:30)
・神に選ばれた者たち(ローマ8:33)
・約束にしたがって生まれる子供が、子孫とみなされるのです(ローマ9:8)
・自由な選びによる神の計画が人の行いによらず、お召しになる方によって進められる(ローマ9:11-12)
・恵みによって選ばれた者(ローマ11:5)
・選ばれた者がそれを得たのです。他の者はかたくなにされたのです(ローマ11:7)
・母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった(ガラテヤ1:15)
・天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました(エフェソ1:4)
・イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです(エフェソ1:5)
→これはエフェソ3:3,3:9で言われる秘められた神の御計画です。
・キリストにおいてわたしたちは、御心のまますべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました(エフェソ1:11)
・神に選ばれ(コロサイ3:12)
・神から選ばれた(テサロニケ一1:4)
・彼らが滅びるのは、自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかったからです(テサロニケ二2:10)
→選ばれずに滅びていく人々が聖書の真理を理解、受け入れないとあります。
・すべての人に、信仰があるわけではない(テサロニケ二3:2)
→不信仰の者は最初から選ばれておらず、信仰があるように見える人も背教や脱落する可能性を示唆しています。
・選ばれた人々(テモテ二2:10)
・神に選ばれた人々(テトス1:1)
・彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです(ペトロ一2:8)
→表面的に信仰に入った人でも聖書に懐疑的な人は脱落するので選ばれていないということです。
・選ばれた民、神のものとなった民(ペトロ一2:9)
・神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された人々の魂(黙示録6:9)
→殉教者たちのことです。
・自分たちと同じように殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕である者たちの数が満ちるまで、なお、静かに待つ(黙示録6:11)
→過去記事「ヨブ記にみる正しい信仰と大艱難」と「ダニエル書二千三百の夕と朝の預言と神の審判」で言及したとおり、数が満ちるということは神が予定されている定員があるということです。
・地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた子羊の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう(黙示録13:8)
→子羊の書(命の書)に名前が記されていない、即ち、選ばれていない人は、時が来たら、獣を拝むことになると預言されています。
・イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂(黙示録20:4)
→殉教者で、この者たちは祭司となってキリストと共に統治します。
・その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた(黙示録20:15)
→選ばれていない人の運命です。
・子羊の命の書に名が書いてある者だけが入る(黙示録21:27)
→選ばれた人たちだけが新しいエルサレムの都に入ることが許されます。
聖書にはこれだけ多くの予定説の根拠となる文言があります。上記の聖句のとおり、選ばれたという言葉が多数あり、これを予定と呼ばずに何と呼ぶのでしょうか。この事実を否定する人は、神に選ばれていない人だと自分で言い表しているとしか思えません。しかし、予定説を絶対的に捉えるのは極端過ぎます。予定はあくまで予定であって、変更も有り得るかもしれません。サウルを選んで後で見限ったようにです。もっとも、神はサウルを救うために選んだのではなく、ダビデの引き立て役のようにした可能性も否めませんが、真意は神のみが知るところです。以上より、神は明確に人間を選んでおられ、予定説は聖書的であり、明確に肯定されるべき考えです。
次は、自由意志説です。
予定説とは違い、人間の自由意志によって神を求めて信仰し、それに神が応えられてお救いになるという考えです。
自由意志説に立っている人たちは、聖書の「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る」(ヨハネ3:16)や「聖書にも、主を信じる者は、だれも失望することがない」(ローマ10:11)という所を根拠にするのでしょうか。主イエス・キリストを選んで信じる自由意志はどうなるのかと問うことでしょう。しかし、私が今まで過去に言ってきたとおり、このような主張をする者は、にわかクリスチャンであり、前回記事「人々の誤認識と今後必要な信仰と心の準備」で指摘したように利益信仰から来たり、独りよがりで自己満足の信仰でしかなく、本物の信仰ではないのです。自分では足りていると思っていても、神にすればまったく不十分か、的外れのものなのです。自分では主イエスを信じて従っているつもりでも、主イエスから見ればそう見えないということです。口先だけで信じるというにわかクリスチャンは聖書がいう「主を信じる者」に含まれていないのです。そういう訳で、私からは自由意志説を持ち上げるだけの十分な根拠が見出せません。なぜなら、上述の予定説の箇所で予定説は聖書的と説明したように、自由意志説では神の救いについて説明することは到底無理があるからです。仮に、自由意志説を貫徹するならば、神の御意向や御計画を無視し、人間から神に対して救いを押し付ける格好となります。予定説を批判して自由意志説を信じて譲らないような人たちは、「私は聖書に書かれているとおり、神を愛し、隣人を愛し、モーセの律法や神の掟を遵守し、財産を貧しい人に施して倹約生活し、本物の信仰を保ってきたのだから、報酬として永遠の命をよこせ。」と言っているようなものなのです。これでは、過去記事「神を愛するということと人が生きる意味」で説明した、自らの義に頼って救いを得ようとする律法主義者と動機が一緒です。創造主である神、主イエス・キリストに救うように要求する立場になるとは、何様のつもりなのですかと私は言いたくなります。そのような人間に限って、高慢で、独りよがりな信仰や考えを持っており、正しいと思っていても実は正しくなかったりするものです。要するに、ただの自己満足の信仰ということです。恋愛でたとえれば、叶わぬ恋、片思いという状態です。また、自由意志説を主張する人たちは、神の一方的な選びは不公平と主張する者もいることでしょう。神を信じて従ったのに、何故捨てられるのかと。私からすれば、不公平ではないのです。不公平と思うのも人間の視点に過ぎず、独りよがりな考えで、わがままでしかありません。神は全知全能で真実で公平な方で、その裁きは正しいのです。仮に、人間すべてを地獄に送ったとしても、神は完全に正しいのです。罪を犯した人間が何故神に言い逆らうことができましょうか。以下の聖句を知らないのですか。
新約聖書 ローマの信徒への手紙 3章23~24節
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
本来、人間は罪を多く犯したので、神が救うに値しない程の存在であることが前提です。聖書に、「罪が支払う報酬は死です。」(ローマ6:23)とあるとおりです。ですから、神がある人たちにだけ恵みと憐れみを与え、他の人たちに同様の扱いをしなかったからといって不公平ということにはならないのです。神はただ神御自身が義とみなされる選ばれた人間たちに気前よくしただけです。
過去記事「サウルとダビデの違いとダビデと主イエスの関係」でサウルとダビデの違いについて説明しました。両者とも罪を犯しましたが、神はより重罪を犯したダビデを救われました。ダビデの救いもそうですが、遡って、ダビデがベツレヘムの片田舎の羊飼いから王に召し出されるのも神による選びに他なりません。このように神による選びは必要不可欠なのです。もし、御心ならば、救われますようにと低い姿勢で祈り願わない者は、上述したように報酬目当てで高慢な者と思うべきです。たまに、サタンの誘惑を引き合いに出して、予定説を批判する者もいます。彼らは、予定説が正しいならば、神が選んだ人にはサタンの誘惑が意味の無いものになると言います。しかし、意味はあります。上記引用聖句(ローマ3:23~24)のとおり、サタンは、すべての人に罪を犯させるために存在し、そして滅びに定められた人や神が選ばれなかった人たちを滅びに向かわせるために存在するのです。これだけでサタンは十分存在意義があります。また、真のクリスチャンに対して、天の御国に入る前に鍛錬されるためにもサタンは重要な役割を果たします。サタンからの攻撃と言っても耐えられないというものはありません。「神は耐えられないような試練に遭わされない」(コリント一10:13)からです。よって、これらの批判も的外れです。以上より、自由意志説は人間的な思想や欲求に基づくものであり、聖書的とは言えません。私は、自由意志説がいうように人間の自由意志が主体で救いを得ることは否定するものの、人間が持つ自由意志の存在自体を否定したのではありません。この違いの意味が分かりますか。人間の自由意志というのは存在し、それがあなたがたが何を食べ、何を飲み、どこに行くか等を決めるような自由意志です。これを否定する者は一人もいないはずです。これらと同様に、主イエス・キリストを信じるのも自由意志です。これは育った環境や遺伝子といった要素に左右されることがありません。両親をはじめとする尊属家系にクリスチャンがいなくても、突然クリスチャンが出ることもありますし、育った環境も人によって違うことから明白です。しかし、自由意志だけで神の救いにあずかれるというのは別問題です。
神に選ばれた者は、神の恵みと憐れみ、及び主イエス・キリストの十字架の贖いに感謝し、聖書の真理を知って、真に過去の罪を悔い改め、神を畏れ、正しい信仰を持つようになり、世に惑わされず、怠惰、高慢にならず、神を愛するが故にモーセの律法、神の掟等を遵守し、自分を捨てて、主イエス・キリストに完全服従し、日々自分の十字架を背負って神に栄光を帰すために生活して信仰の義を体現します。これらの行為は聖霊の導きの下で人間の自由意志ですべきことです。私も以前のように聖書の真理を知る前の時にしていたような行為を再度行うと思えば行うことができます。これは人間に与えられた自由意志です。しかし、私は過去にしたすべきでないことを再度しませんし、しようという気も起きません。また、神を畏れて、悪を避け、世に騙されず、こうして私は聖書の真理を知ってもらうために多くの不特定多数の人々に向けて説明するとともに、聖書の真理を歪める教えを広めて人々を惑わす者たちを聖書をもって弾劾しています。それらが生まれ変わって得られる聖霊の力です。
多くのにわかクリスチャンのように、聖書の真理を知ることもないので語れず、喜びに溢れる、頭が良くなった気がする、身近にラッキーなことが起こった、綺麗な景色を見れた等、サタンのまやかしで簡単に舞い上がる人たちは不幸です。過去に何度も言ったとおり、奇跡はサタンでも起こせるのであり、それらの世俗的な事柄で容易に騙される人たちは一生聖霊とは無縁でしょう。彼らは聖書の真理を知らないので、正しい伝道ができず、聖書をそのままなぞるか、偽預言者や偽教師らの紹介や彼らの主張の上塗りしかできません。まったく自分から真理を語ることができないのです。なぜなら、聖霊がおらず、その力が働かないからです。このように言うと、語れば聖霊がいると安易に思う人が現れるかもしれませんが、語る内容が聖書の真理から外れている場合、聖霊の力ではないことが分かります。例えば、偽預言者RAPTや偽教師Amir Tsarfatiです。その他にも大勢います。たとえ私が語る聖書の真理を知っても、上述した真のクリスチャンの行動ができない、または、できていないのにできた気になっている(自己満足している)者、やってはいけないと知りつつ同じ罪を何度も繰り返す者は、悟ってください。過去歴史上、予定説に傾倒し過ぎた(正確には神に選ばれた絶対者と勘違いした)人たちが、神に選ばれていない人を抹殺しようという運動(中世のドルト宗教会議等)もあったようですが、これは正しい行為ではありません。宗教改革でプロテスタント側にいたはずのカルヴァン主義者は自分たちの立場を正当化するために、反対する者を異端扱いしました。また、前回記事で紹介したカトリックによる迫害行為もこれに似た行為です。また、過去、及び現在のローマ教皇も、神に従順に仕えていないのにも拘らず、仕えているフリをし、過去記事で紹介したとおり神の子の代理人とまで自称しているのです。私はそのような行為をしようとはまったく思いません。本当に選ばれた人は、他人に暴力行為を働いたり、この世から排除しようというような下卑た考えを抱かないからです。偽預言者RAPTのように金を払わないと教えないという金銭欲にまみれてセコイこともしません(さらに悪いことに、RAPTは正しい教えをしていません)。選ばれたと思い込んで安心感(ただの勘違い)から高慢になって正しい信仰から脱落する者は選ばれていないように、前回記事で戒めたとおり、どう頑張っても聖書の真理を理解できなかったり、利益信仰をしたり、妥協の精神がある者も悟るべきです。しかし、簡単に諦めるのではなく、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてください。
結論として、私は、神の救いにあずかれる人というのは、神からの恵みと憐れみを受け、それに対して人間の自由意志を持って十分に応えられる人のことを指すと考えます。神からの選びと人間の自由意志のどちらも欠けてもいけないのです。上述で恋愛のたとえをしたとおり、神と人間が相思相愛にならなければ救いはないのです。一方からだけでは成り立たないです。勝手に両思いだと思い込まないことも重要です。神から選ばれなければ絶対に救われませんし、神から救いの手が差し伸べられても、それに気付かないか、気付いても信仰が薄いか行いが悪いために受け取ることがきない人、途中で怠惰や背信して脱落する人もまた救われないのです。選ばれたかどうかは人間に確定的に知る術はありません。究極的に、神がすべて仕組んでいても人間には分からないのです。神は全能者であられるので、神が、ある人を憐れんで神の子として忠実な僕にしようとお思いになれば忠実にさせることがおできになりますし、ある人を神を信じないようにさせたり、あるいは聖書の真理を理解させないように心を頑なにしようとお思いになれば、その通りになるのです。明確には分かりませんが、実のところ、人間の自由意志というのも、完全な自由ではない可能性すらあるのです。原則、人には自由意志が与えられていますが、介入が必要と神が判断すれば、神によっていくらでも変えられるのです。「人間にはできないことも、神にはできる」(ルカ18:27)と主イエスが仰ったとおりです。この神による選びの基準等については私にも明確には分かりませんが、上述したように、神の御計画という予定があるのが大前提で、この範囲内において、人間の自由意志もあるということです。神の予定外の行動を人間が取るというのは有り得ないのです。そういう訳で、冒頭のとおり、すべて全知全能の神の予定の範囲内で人間の自由意志があって、神の選びと選ばれた人間の自由意志が見事に合致したときに救われるという考えとし、これを私は、予定内自由意志説と名付け、主張します。
最後に、以下の聖句で締め括ります。
新約聖書 ペトロの手紙二 1章10~11節
だから兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい。これらのことを実践すれば、決して罪に陥りません。こうして、わたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ることができるようになります。
私からも、兄弟たちに言っておきます。
過去に何度も言ってきたことですが、聖書の真理に従って生活しなさい。そして、私が過去に言ったように、聖書の真理、福音、預言の内容を宣べ伝えなさい。主イエス・キリストだけを信じなさい。主イエス・キリストの御名を公に言い、イエスの仲間であると言い表しなさい。聖書の真理から大きく外れた、偽預言者RAPT、Amir Tsarfati等の偽教師、偽善者たちを信じたり、その信者たちがする悪い行いに加わるべきではありません。どうしても離れられない人たちは放置します。それが彼らの”自由意志”なのでしょうから。彼らは、後に神の御前で裁きの場に立った時に神に抗議するでしょうが、何一つ反論できず、誤りであったことが分かるでしょう。しかし、分かった時には手遅れです。
一人でも多くの人が救われることを願っています。
以上