良く聞き慣れた『今ここ』という言葉。
今に在るとか、今を生きるとか。
そもそも『今』ってなんなのか?
まず時間に関して考えてみる。
過去、現在、未来。
時間は過去から未来に向かって直線上に向かって流れているように見える。
1時間前はご飯を食べていた、昨日はドライブへ出かけたなど、確かに過去はある。
では、体は過去にあるか?
1時間前のことを思い浮かべても体は今にある。
では過去はどこにあるのか?
時間は幻想で本当は存在してなく今があるだけと良く聞くフレーズがある。
これはいつでも今、どこまでいっても今しかないと言っている。
それでは今を捉えてみよう。
例えば、目の前を車が通り過ぎるところを見てみよう。

車はAからCに向かって走っている。
Aの地点を見ている時は今で、Bの地点を見ている時も今でCの地点を見ている時も今である。
走っている最中どの地点を見ても今である。
これは疑いようがない。
でも、CからAを見た時は過去で、さっきまでAにいた時を思い浮かべることはできるが、今車があるのはCである。
便宜上、AとBとCの地点にしているが、AとBの間もある。
実際にはAからCまで途切れなく滑らかに連続して走っている。
見ている瞬間はどの地点においても今である。
その瞬間は瞬間なのか?
別に瞬間が止まっている訳ではない。
瞬間が連続していると捉えることができる。
瞬間がなめらかに移り変わっていく。
瞬間の連続体である。
つまり、こう言える。
『今』は、常に湧き出ている。
瞬間、瞬間が常に常に湧き出ている。
映画のフィルムと一緒だ。
一コマ一コマが瞬間である。
あまりにも高速で瞬間が移り変わっていくので滑らかに動いているように見える。
でも映し出しているのは瞬間である。
一コマ目の瞬間、二コマ目の瞬間、そして三コマ目の瞬間。
映写機のライトの目の前を通過する時が今である。
今は固定されている。
だから『ここ』と言う。
映し出された映像には一コマ目が湧き出し、二コマ目が湧き出し、三コマ目が湧き出す。
これが永遠に続いている。
つまり、いつまでたってもどんな時でも今である。
では過去とは何か?
経験の記録である。
AからCまでの見るという経験をした。
AからCまでの見るという経験の記録である。
そして未来はただの予測である。
結論、過去と未来は頭の中にしかない。
つまり思考の中にしかない。
もっと言うならば、脳内の電気信号でしかない。
今ここに在りなさいと良く言われるこの言葉の意味は、思考から離れ、過去に縛られず、未来を憂えずにいましょうということですね。
実際のところ、今にあるときはワンダフルである。
過去や未来にいる時、今を取り逃がしますよ!